第2話 レッドブラッド


喫茶店『すのうどろっぷ』の閉店時間は、夜の九時。

心春が父親の車に乗り込むのを見送ると、矢上の仕事はもう終わりだった。


客の少ない、小さな店だ。

食材の仕込みも掃除も、閉店前にはすべて片づいている。


矢上はカウンターの奥から自宅に入り、廊下の壁に掛けられた絵を横にずらした。

そこには、地下室へ続く隠し扉がある。


この店は、引退したバレエ講師の家を改築したものだ。

その地下には、教室として使われていた広いスタジオが残されていた。


――かつて、白鳥のように飛び立つことを夢見た少年少女たちが、汗と涙を流した場所。

だが今、その部屋にはトレッドミル、サンドバッグ、格闘用ダミー人形、そして小さなシューティングレンジが並んでいる。


矢上は上着を脱ぎ、静かに息を吐いた。

引き締まった筋肉の上には、過去を物語る無数の古傷が浮かび上がっている。

無言のまま、男は柔軟運動を始めた。


矢上亘には、これといった趣味がなかった。

たばこは吸わず、酒は嗜む程度。人付き合いが苦手で、深夜に話す相手もいない。


だが、夜ひとりでいると、自分の背負った途方もない虚無が、静寂とともに押し寄せてくる。

その重みに押し潰されないために、彼は毎晩、必死に体を動かした。

呼吸のように体に染みついた訓練を繰り返し、力を使い果たして、泥のように眠る――それが習慣だった。


血を吐くようなトレーニングをしている間だけは、昔を思い出さずにすんだ。

だが、最近は身体が慣れてきたのか、ときどき記憶が泡のように意識に浮かぶことがある。


……初めてルカに出会ったのは、1998年のことだった。

十七歳で人を殺めた矢上は、故郷にほんを離れ、東南アジアに潜伏した。

気づかぬうちに麻薬組織の縄張りに入り込み、アヘン農場に送られた彼を解放したのが、ルカの所属する民間軍事会社ワイルドハントだった。


――ウェイトベンチに寝そべり、バーベルを持ち上げる。

――金属のバーにかけられたプレートは次第に増え、やがて二百キロを超える。


骨のようにやつれ、憔悴しきっていた彼に、ルカは一杯のコーヒーを差し出した。

温かく、香り豊かな液体を口に含んだ瞬間、思わず涙がこぼれた。

彼女は、笑っていた。


――ランニングマシンのスイッチを押す。

――傾斜十度、時速三十キロ。猛烈な勢いで足を動かしながら、矢上の目はただ虚空を見つめる。


人は彼女を《水妖ルサルカ》と呼んだ。

戦場で怪しげに微笑み、水のように自在に動き回る妖女。

銃弾は彼女を避け、爆発の破片さえも当たらない。


だが、矢上にとってルカは、何時だって幸運の象徴だった。

歳の近い二人は、次第に行動を共にするようになり、やがて公私のパートナーとなった。


――ダミー人形を相手に、格闘訓練を始めた。

――蹴り、殴り、極めて、刺して、切る。クラヴ・マガの型を繰り返しながら、その技を教えてくれた男に想いを馳せる。


2009年、『ワイルドハント』の社長だった“片目のヴォーダン”が亡くなった。

その激しい生涯からは想像もできない、穏やかな最期だった。


この世を去る直前、ヴォーダンは『ワイルドハント』の資産をすべて処分し、子供のように育ててきた部下たちに分け与えた。

孤児だった彼らが、二度と戦場に立ち、血なまぐさい商売に命を費やさなくてもいいように――。


矢上とルカも引退を決意した。

平和な日本に戻り、二人で小さなレストランを開こうとした。

矢上の作る料理を出し、ルカの描いた絵を飾る店を。


天も二人を祝福するように、特別な贈り物をくれた。

家族が一人増えると知った日、矢上はルカを抱き上げ、部屋中を踊り回った。


――サンドバッグを殴る。何度も、何度も、何度も。

――汗が髪から飛び散り、七十キロの砂袋が苦悶するように身を捩り、宙に浮く。


その頃、ロシアで勢力を拡大していたある組織から、スカウトが来た。

一介の元傭兵に対しては破格の、幹部待遇の誘いだった。


矢上とルカは、迷わず断った。

金には困っていなかったし、殺し合いの輪に戻るつもりもなかったからだ。


……平和と幸福が、二人の嗅覚を鈍らせていた。

彼らは忘れていた。

裏の世界の頂点に立つ者の、傲慢さと残酷さを。


『ワイルドハント』の人材を狙っていたその男は、矢上たちを見せしめの材料に選んだ。


――シューティングレンジに立ち、スイッチを入れる。

――蛍光灯が点り、ランダムに動く標的が浮かび上がる。矢上は拳銃を構えた。


あの日は、珍しく十二月の初めに雪が降った。

矢上たちは、海の見える公園へ散歩に出かけた。

ベンチに座り、ルカが編み物をする間、将来開く店のことを話すのが習慣だった。


途中で、ルカが言った。

「雪待ち花を見つけたの」


あり得ないと思いながら、矢上は彼女の後を追った。

疑いも、警戒もせずに。


――その後に続く光景を、彼は繰り返し悪夢の中で見ることになる。


遠くで、水滴を熱した鉄板に垂らしたような音がした。

ルカの胸に、真っ赤な花が咲いた。


――タイミングを計り、引き金を絞る。狙うのは標的ではない。その急所に刺さった、小さな釘だ。

――地下室にマズルフラッシュが閃き、銃声が慟哭のように響いた。


二人の刺客が、抑制器付きの拳銃を構えて走り込んできた。

両者の頭に、投げナイフを叩き込んで黙らせた。


彼はルカのもとへ駆け寄った。

だが、時間と空間が粘り気を帯び、足元の雪が底なし沼のように脚に絡みつく。


ようやくたどり着いたときには、すでに――手遅れだとわかるほどの血が流れていた。

それでも止血を試みようと伸ばした手を、ルカがそっと握り返した。


「……ごめん」と彼女は言った。

「クリスマスに間に合わなくて、ごめんね……」と。


彼女の赤い血が、柔らかい雪と、編みかけのマフラー、そして鈴のような白い花弁に降り注いだ。


スノウドロップ。

雪待ち花。

雪の中に咲き、春の訪れを告げる希望の花。

けれど、矢上のルカは、冬が盛りを迎える前に散ってしまった。


彼の手元には、「三人」で人生をやり直すための大金と――

すべてを焼き尽くす、復讐の炎だけが残った。


――手を止め、銃身を下ろす。硝煙の匂いを吸い込み、長く息を吐く。

――標的の頭は吹き飛び、身体中に大穴が空いていた。釘は、もう一本も残っていない。


その後のことは、思い出したくもない。

銃弾や手榴弾の破片を吸い込み、硝煙と爆炎の中を泳ぐような日々の果てに……

彼はルカを殺した男を追い詰め、仇を討った。


復讐を遂げ、灰になるまで燃え尽きた彼は、日本へ戻った。

目的などなかった。ただ、死に場所を探していただけだった。


そのとき――懐かしい香りが、ふと鼻をくすぐった。

匂いに導かれるまま、矢上は一軒の喫茶店に入った。


店のマスターは、彼の顔を見るなり、一杯のコーヒーを差し出した。一口飲むと、とっくに枯れたはずの涙が零れ落ちた。


それは、ルカが初めて淹れてくれたコーヒーと、まったく同じ味だった。


その場で、矢上は土下座して弟子入りを願い出た。

少しでも彼女の気配にすがりたくて、彼女の生きた証を、この世に遺したくて。


三年の修行を経て、『すのうどろっぷ』を開店。

八年が過ぎ、店には少ないながらも常連が通い、アルバイトも雇うようになった。


それでも――変えられない過去があり、癒えぬ傷がある。

あの日、矢上はルカの手を握り、彼女が息を引き取るまで微笑んでいた。

惨めな泣き顔で、彼女の最後の記憶を汚さぬように。


それ以来、矢上の顔は凍りつき、二度と笑うことはなかった。

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