セニャン-前世があったらしいですけど!誰だったとか覚えてないけど前世の知恵だけ残ってるみたいなんで使わせていただきます!-

BOA-ヴォア

少年期編

第1話 「祝福の刻印」


 彼には、まもなく名が与えられた。

 エミル・フォン・ロート——。

 南方の湿った風と、葡萄畑の続く丘陵を抱える家。

 その家の色は地図の上で二割を塗りつぶすほど広大だが、

 その広さは、豊かさの証ではなかった。

 凶作と戦費と負債が、土地の艶を少しずつ削り取っていた。


 母はそれでも、朝の祈りを欠かさなかった。

 白い布の前で手を組み、静かに言葉を置く。

 言葉は薄く、声というより息に近い。

 その姿を、幼いエミルはまだ意味を知らずに眺めていた。


 やがて母は祈りを終えると、古いクラヴサンの蓋を開けた。

 爪弾かれる弦の音が、室内の花瓶の水面に波紋を作る。

 細い指先が音を紡ぎ、白い音が壁に、床に、そして幼い耳の奥に沈んでいく。


 楽譜の端には、母の小さな書き込みがある。

 それは旋律ではなく、生活の痕跡だった。

 「侍女の子ら、熱」「葡萄の収穫、遅れ」「来週、陽光薄し」

 音楽はこの家の生活を縫い留めるための糸であり、

 その糸を弾くことで、彼女は屋敷を呼吸させていた。


 エミルは膝の上で、母の声を聞いた。

 母はときおり、弾く手を止めて詩を読む。

 黒い革表紙の小さな本。

 白いページの匂いは、牛乳と蜜を混ぜたようだった。

 その声の高低、息の入り方を、エミルはまねる。

 意味はわからない。

 けれど、言葉の温度だけは覚えていった。


 ある朝、母は彼の掌を取った。

 小さな皺を指でなぞり、微笑む。

 「ここに、あなたの印があるのね」

 光の加減で、掌の曲線が淡く浮かんだ。

 日によって濃さが違うのは、体温のせいか、祈りの残りか。

 母は印そのものではなく、印を囲む皮膚にそっと触れた。

 「あなたは神さまの器だというけれど、器にも温度があるのよ」

 その言葉を、エミルは理解しなかった。

 ただ、指先が温かいことだけを知った。


 その日の午後、白光教会の師が訪れた。

 年嵩の男で、声の端に砂利のようなざらつきがある。

 師は机に薄い紙束を広げ、インク壺を置いた。

 ニスの匂いが鼻を刺す。

 「エミル、今日は“ことば”を描こう」

 師の言葉に頷き、エミルは羽根ペンを握る。


 紙の上に線が走る。

 その線が、彼の知らない形を作っていく。

 師が手を添えて導くとき、エミルの脳裏には青い幕が垂れた。

 その向こうで何かが燃える。

 炎は赤ではない。

 鉄が熱せられたときの、鈍い光。

 その光の中で、誰かが祈っている。

 祈りは聖句に似ているが、ところどころでずれている。

 一音、一拍、わずかな歪み。

 そのずれから、甘い匂いがした。

 蜂蜜ではない。

 もっと濃く、舌に絡みつく匂いだった。


 「エミル?」

 師の声で幕が消える。

 ペン先が紙に触れ、インクが滲む。

 滲みは花のように拡がり、ときに鳥の翼に見えた。

 師は息を吐き、紙を一枚脇に置く。

 「神はお前を急がせはしない。ひとつずつだ」

 エミルはうなずいた。

 笑い返すことは、まだ覚えていない。


 その夜、母は寝室の椅子に腰掛けて詩を読んだ。

 蝋燭の炎が窓に揺れ、外の雪を薄く照らす。

 エミルは毛布に包まれながら、その声の高さを覚えた。

 詩の終わりの言葉は、必ず空白になる。

 空白は、まだ持たない言葉の居場所だった。

 母はそれを埋めずに残す。

 エミルはその空白に、自分の息を置いた。


 祝福の知らせは屋敷を抜けて、領都へ、そして王都へと届いた。

 白い封蝋の手紙がいくつも積まれ、部屋の空気は乾いた紙の匂いで満ちた。

 母は手紙を読むたび、眉の筋をわずかに動かす。

 喜びと警戒が、同じ力で彼女の中に並んでいた。


 冬の終わり、エミルは大聖堂へ連れ出された。

 祝福を公に認める儀が行われるという。

 光は薄く、石の床は冷たかった。

 母は小さなケープを彼の肩にかけ、耳元で囁く。

 「怖がることはないわ。ここは神さまのおうち」


 その言葉の響きを、彼はまだ理解しない。

 ただ、母の声が自分の名を包む音だと知っていた。


 大聖堂の中は高く、柱は森の幹のように並んでいた。

 色硝子の窓に光が滲み、聖人たちの物語が壁を泳ぐ。

 剣を掲げる者、赤い衣の者、書物を抱く者。

 彼はその顔を一つひとつ見つめ、小さな胸に息をためた。


 やがて祈りの時が来た。

 聖歌隊の声が階段を上るように高まり、天蓋の暗がりへ吸い込まれていく。

 その声の中に、かすかに異なる音が混じっていた。

 誰も気づかないほどの、ずれた祈り。

 彼だけが、それを聞いた。


 目を閉じると、音は骨の中に沈んだ。

 骨の中には水があり、そこに小さな舟が浮かんでいた。

 舟の側面には見知らぬ紋章。焦げた縁を持つ十字。

 指でその形をなぞると、金属のような冷たさがあった。

 息を吸い、目を開く。

 祭壇の蝋燭が、一瞬だけ揺れた。


 ——そこに、火の色が一つ、灯った。


 幻かもしれない。

 それでも、胸の奥が熱くなる。

 炎の名を知らぬまま、彼はその熱を抱いた。


 司祭の声が響く。

 「神の器よ、その身に祝福を」

 言葉は高く、空気を渡る。

 エミルは両手を胸の前で組んだ。

 掌の曲線がかすかに脈打つ。

 それは血の鼓動とは違う、何かの合図のようだった。


 儀式が終わると、彼は母とともに聖具室へ通された。

 司祭が観測鏡を取り出す。

 銀の縁に細かな文様が刻まれ、裏面には見えない祈りの跡があった。

 司祭は鏡をエミルの掌にかざし、光を調べる。

 鏡の中に、二つの影が重なる。

 ひとつは掌。もうひとつは、より淡い輪郭。

 息を止めるほどの一瞬だった。


 ——今のは……。


 だが次の瞬間には、何もなかった。

 司祭は眼を瞬かせ、穏やかな笑みを取り戻す。

 「よろしい。よくできましたね」


 よくできました。

 褒められるということが、胸の奥で小さな光になる。

 その光の下で、硬い音が響いた。

 金属が金属に触れる音。

 鍵の音。


 彼は音の方向を探した。

 聖具室には司祭と母しかいない。

 扉は開いており、外からは片付ける足音がする。

 母が肩に手を置いた。

 その温度が、音を遠ざける。

 「大丈夫?」

 エミルは頷く。

 音はもう聞こえなかった。


 けれど胸の中では、何かが閉じる感触が残った。

 それが喜びか、別のものか、彼はわからない。


 帰り道、母は馬車の中で短い子守歌を歌った。

 歌は祈りに似ている。

 違うのは、それが神ではなく、子の耳に届くためのものだということ。

 声が柔らかく、彼の眠気を撫でる。


 目を閉じると、赤い線が走った。

 それは十字の形をしている。

 けれどわずかに傾き、縁が焦げている。

 中央に小さな窪みがあり、そこに滴が落ちていた。

 水か、油か、血か——。

 喉が乾く。

 指を伸ばしたが、線はすぐに消えた。


 目を開くと、母の横顔があった。

 長い睫毛の影が頬をかすめ、彼はその影を見つめた。

 裾を握る。

 布の薄さが安心の形のように思えた。

 母はその手を包む。

 包まれた瞬間、赤い線の記憶が溶けた。


 「お腹はすいた?」

 彼はうなずく。

 母は笑い、笑みの端が冬の光に触れた。

 その笑いは短く、あたたかく、

 だがどこかで、遠くの鐘の音と重なっていた。


 屋敷に戻ると、侍女たちが卓を整えていた。

 温めた牛乳と、蜂蜜を薄く塗った白いパン。

 白い皿の上で湯気がゆらぎ、冬の光を受けて透き通る。

 パンを指でつまむと、焼き目がかすかに剥がれ、粉が指先に残った。

 白い粉が皺の間に落ちていく。

 その色を見つめていると、胸の奥にわずかな安心が生まれた。

 白は、まだ清らかだった。


 母は静かに詩を書き、彼に読み聞かせた。

 「言葉は風のようなものよ。強く吹けば散ってしまう」

 彼は母の口の形をまねし、声にならぬ声を出す。

 その音が消えると、部屋に薄い余韻が残る。

 余韻は眠気を誘い、彼は毛布に身を沈めた。


 眠りの手前で、匂いが変わった。

 インク、ニス、焦げた油の混じる匂い。

 匂いは色になり、色は形になる。

 石壁の前に、青い外套の男が立っていた。

 手には長いもの。木の軸に、金属の重み。

 その先端が床を鳴らすと、低い鐘が地を伝った。

 鐘の音が骨に染みる。

 骨の舟が揺れ、舟の脇に焦げた十字が浮かぶ。

 そこに落ちる滴は、熱い。

 鉄の匂いがした。


 彼は寝返りを打つ。

 毛布が擦れて小さな音を立てた。

 その音で鐘の響きが遠のく。

 母の指が髪を梳いた。

 髪はまだ柔らかく、指はその柔らかさを確かめるように動いた。

 匂いが牛乳に戻り、彼は静かに息を吐いた。


 夜の帳が降りる。

 母は薄い紙で鶴を折った。

 翼に詩を一行書く。

 それは祈りではなく、約束に近い言葉だった。

 鶴を掌に乗せると、紙が温かくなった。

 だが風が吹くと、軽く揺れて落ちた。

 落ちた様を見つめるうち、胸の白がわずかに煤けた。

 その煤は柔らかく、指で払えば消えそうに思えた。


 屋敷の廊下を小さな足音が行き来する。

 侍女たちが灯りを落とし、戸を閉める。

 柱時計が長い息を吐くように時を打つ。

 母は枕元で祈りを唱えた。

 エミルは声を合わせ、いくつかの音を覚えた。

 母は目を細め、微笑む。

 「神さまはきっと聞いているわ」

 彼も頷いた。


 母が部屋を出たあと、廊下の灯りが扉の隙間から差し込む。

 光は床板の節に沿って曲がり、机の脚の影に溶けた。

 目を閉じる。

 眠りが来る前に、あの色がまた来るかもしれない。

 来たとしても、今日は触れない。


 ——そのとき、音がした。


 金属が金属に触れる音。

 一度だけ。

 確かに、誰かが鍵を回した音だった。

 扉は開くためにあり、閉じるためにもある。

 音はすぐに消えた。

 だが壁がその音を記憶していた。

 彼の皮膚も、耳の軟骨も、骨の舟も。


 彼は目を開けなかった。

 開けば、灯りと影の長さを測ってしまう。

 測れば、名前が与えられる。

 名前を与えれば、それは来る。

 だから彼は息を潜めた。

 胸の中で、白い煤が濃くなる。

 濃くなった煤は、指では払えない。


 祈りの言葉が喉に上がり、そこで止まる。

 声帯は動かず、舌の上で言葉が変質する。

 似ているが、違う。

 その違いが、世界の裂け目のように思えた。

 理解しないまま、眠りが彼をさらう。


 最後に思った。

 ——神さま。もし聞いているなら、今は答えないで。


 朝。

 母は窓を開け放ち、冷たい空気を入れた。

 白いカーテンが大きく膨らみ、すぐに萎む。

 光が床を渡り、眠りの名残を薄く溶かす。

 彼は毛布の中で目を細めた。

 光は昨日より柔らかい。


 母は微笑み、髪を整える。

 「今日も練習をしましょう。詩と、そして——音」

 音。

 その言葉に彼は頷いた。

 机に向かい、羽根ペンを握る。

 インク壺の蓋を開けると、ニスの匂いが昨日より濃い。

 昔嗅いだことのある匂い。

 記憶は形を結ばない。

 それでも手は動いた。


 紙に線を置く。

 線はまっすぐ、すぐに曲がり、またまっすぐに戻る。

 師が頷き、母が手を叩く。

 褒められる。

 胸の中の暖かさは形を変えずに残った。

 けれどその奥で、また硬い音がした。

 鍵の音。

 昨日より弱いが、確かにあった。

 顔を上げず、紙の白を見つめる。

 白はまだ清らかだ。

 彼は慎重に黒を置く。

 白は減るが、消えはしない。

 紙の繊維の奥に白が残る。

 彼はそれを信じた。


 母はクラヴサンの蓋を開け、鍵盤に指を落とす。

 音が始まり、彼の背を撫でた。

 肩の硬さがほどけ、痛みが顔を出す。

 小さく、名のない痛み。

 名がないから、怖くない。


 午後。

 庭の端に去年の葡萄の枝が束ねられていた。

 枝は乾き、皮が剥け、繊維が露わになる。

 庭師が刃を入れ、余分を落とす。

 落ちた枝は束の中で静かに横たわる。

 それを見て、彼は別の映像を見た。

 束ねられているのは枝ではない。

 細い指、土色の腕。

 腕の上に赤い紐。

 赤は蝋で固められ、結び目は十字に近い。

 だが、正しい十字ではない。

 傾き、焦げ、熱を持っていた。

 首を振ると、映像は砕け、枝に戻る。

 庭師は何も気づかない。

 母が肩にショールをかけ直した。


 日が傾く。

 影が長くなり、母は彼の手を取った。

 屋敷へ戻る途中で低く歌う。

 歌は足取りを一定にし、彼はその音を踏むように歩いた。

 影が伸び、光が薄くなる。

 鍵の音は遠ざかった。

 遠ざかっている、と彼は信じた。


 夜。

 母は祈りの言葉を短くした。

 最後を彼に唱えさせる。

 言葉を並べ、息を合わせる。

 終わりの語が喉を過ぎると、母は彼の手に口づけを落とした。

 掌の曲線が微かに温まる。

 印はそこにあり、温度を持っていた。

 母が言った「器にも温度がある」という言葉を、彼は思い出した。

 それを信じた。


 燭台の炎が低くなり、芯が整えられる。

 廊下の声が遠ざかり、柱時計が息を吐く。

 毛布に身を沈め、天井の木目を見た。

 影は川の地図に似ている。

 川は遠くで海に出る。

 海は暗く、冷たい。

 そこに舟があるだろうか。

 骨の舟。

 焦げた十字。

 滴。

 彼は目を閉じた。

 鍵の音は、今夜はしなかった。


 眠りに落ちる直前、言葉が胸の奥に浮かぶ。

 祈りでも願いでもない。

 ただの言葉。

 ——光よ、影を忘れさせて。


 言葉は天井の梁に吸い込まれ、粉のように降り、彼の額に触れて消えた。

 消えたあと、静けさだけが残った。

 静けさは白い。

 白は汚れやすい。

 そして、この家の夜は、彼が生まれたときからずっと——白かった。

 今のところは。

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