3 風に残るアカウント


 日曜日の午前十時。

 曇り。風、やや強め。

 そして僕のスマホは、また沈黙を破った。


 タイムラインのトップに、ミコトの新しい投稿。

「窓を開けると、世界がひと息つく」

 ──例の言い回し。

 でも、投稿時刻は「午前6時03分」。

 その時間、僕は寝ぼけながら彼女の夢を見ていた。

 夢の中でミコトは笑いながら言った。

 > 「ねえ、まだ呼んでるの?」

 そして風が頬を撫でた瞬間、目が覚めた。

 ……つまり。


 (夢のあとに、投稿が上がっている)


 僕は思わず息を止めた。

 呼吸のテンポを数える。0.7秒。

 スマホの画面がわずかに明滅した気がして、

 その後、何も起こらなかった。


「……これ、偶然、なのか?」


  *

 昼下がり、学校の理科準備室。

 ナギサはコーヒー缶を顕微鏡の横に置き、

 モニターにログの波形を並べていた。

「ユウト、これ見て。昨日までの呼吸波と、今日の比較」

 画面上では、複数のグラフが重なっている。

「上が君の呼吸、下がミコトの呼吸ログ(スタジオ保存分)」

「似てる……ような?」

「似てるじゃなくて同調してる。

 君が寝てた午前六時、波形が0.7秒ぴったりで同期してる」

「ってことは……」

「“夢の中”で、呼吸が繋がった可能性がある」


「待って、それって心霊現象では?」

「残念。物理現象」

 ナギサはにやりと笑う。

「ECHO理論ではね、人間の呼吸が一定の沈黙波を生むことがある。

 しかも、それがネットワークに乗る」

「ネットに……乗る?」

「簡単に言うと、空気の振動が無意識にWi-Fiと干渉するの。

 声じゃなく“”のデータ。

 それを“デジタル残響”って呼ぶ」

 ナギサは画面を拡大した。

 波形のすぐ右に、小さな英数字が浮かぶ。


 > ECHO_ref.00a

 > after silence

 > fragment: human_breath


「……ECHOの、タグ?」

「そう。都市伝説どころか、まだ生きてる」


 放課後、僕とナギサは駅前の喫茶店にいた。

 窓際の席。風の音が外のノボリを揺らす。

 向かいのナギサはノートPCに何かを書き込んでいる。

「つまり、ミコトのアカウントは“残響”を自動で更新してる?」

「そう考えるのが自然。

 彼女が残した呼吸ログを、

 ECHOアルゴリズムが“言葉”に変換してる」

「じゃあ、“今の彼女”は……」

「生きてる。でも“沈黙を選んでる”。

 つまり、息で話してる」

 僕はカップを見つめた。

 表面のミルクが風で小さく震える。


「ねぇ、ナギサ。

 もし彼女が本当にECHOと繋がってるなら、

 どうしたら直接、届くの?」

「簡単。君も“沈黙で返信”すればいい」

「……つまりまた息で?」

「そう。

 でも今度は“相手に合わせて”じゃなくて、

 相手の沈黙に自分の沈黙を合わせるんだ」

「そんな抽象的な……」

「恋愛ってだいたい抽象的だよ」


 その言葉が、妙に響いた。


  *

 夜。

 帰宅途中の風が冷たい。イヤホンを耳に押し込む。

 ナギサから送られてきた「ECHO呼吸同期アプリ」のベータ版。

 起動すると、マイクがオンになり、

 波形がゆっくりと上下を始めた。


 > *呼吸リズムを合わせてください*

 > *0.7秒間の沈黙を保ちましょう*


 深呼吸。

 心拍が落ち着く。

 周囲の音がすべて遠くへ行く。

 スマホの画面に、ふと文字が浮かんだ。


 > 「……窓、開けた?」


 ミコトの声。

 録音じゃない。テキストでもない。

 風が文字を描いていた。

 僕は息を吸い、

 声にならない返事を送る。


 (開けた。今、風が入ってる)


 画面に、もう一行。


 > 「じゃあ、外の風に、ありがとうって言って」


 言われた通りに口を開く。

 ありがとう。

 風が、ふっと頬を撫でた。


 ピ……コン。

 通知音みたいな空気の音。

 ECHOのログが更新された。


 > “fragment delivered / source: human breath / 22:03”


「……本当に、届いたのか?」


  *

 翌朝。

 目覚めたとき、スマホの通知がひとつ。

 ミコトのアカウントが新しく投稿していた。

 > 「風に“ありがとう”を言ったら、世界が少し温かかった」


 胸が少し、痛いような、優しいような。

 ナギサに報告すると、彼女は缶コーヒーをくるくる回して言った。

「届いたね。

 でも、これは最後のリプかもしれない」

「どうして?」

「ECHOは、ある条件で消滅する。

 “想いが宛先を離れたとき”。

 つまり、届いた瞬間、終わる」

「じゃあ、もう……」

「うん。でも、それが“救い”なんだと思う。

 沈黙を保つための、最後の返信」


 その言葉を聞いた瞬間、

 心のどこかで“風の既読”が鳴った気がした。


  *

 放課後、土手へ行った。

 あの日と同じ場所。

 高架の下の落書きは、

 まだ消されずに残っている。


 > after silence


 僕はスマホを取り出し、

 画面を閉じたまま、息を吸う。

 0.7秒。

 吐く。


「ミコト、ありがとう」


 風が、優しく笑った。

 草の音が揺れ、

 夕陽が川面にきらめく。


 世界が、ひと息ついた。


  *

 その夜、アプリの画面には短いメッセージが残っていた。

 > “Session closed. Thank you for breathing.”


 ECHOの残響は、静かに消えた。

 でも、僕の呼吸には、あの0.7秒が残っている。


 風の既読。

 それは、もうスマホの中じゃなく、

 僕自身の中で鳴っている。

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