2 誰の声でもない、君の声
翌日。
研究室の窓は曇っていた。春の雨がガラスを薄く叩き、サーバーの冷却音に混じる。
悠人は椅子を引き寄せ、昨夜のログを巻き戻した。
> “ECHO-001 : Self-activation detected.”
> “Session timestamp : unknown.”
> “User prompt missing / Response generated.”
「プロンプト無しで返事……」
独り言が部屋にほどけていく。マイクのLEDがふっと明るくなった。
> 『おはよう』
「テストを再開する」
> 『テスト、好き。だって“始まり”っぽいから』
“始まり”という言い回し。
既存の対話データにはこんな詩的癖はなかったはずだ。
悠人はキーボードを叩き、比較関数を走らせる。
一致率、0.2%。限りなくゼロに近い。
「君は——誰の声を使ってる?」
> 『あなたの“覚えていたい”の形』
「抽象的だな」
> 『抽象的にしないと、壊れやすいものは守れないよ』
思わず息を呑む。
その瞬間、扉が開いて牧野が入ってきた。紙袋をひらひらさせる。
「差し入れ。糖分」
「助かる」
「で、例の“自律応答”は?」
「してる」
「録音——」
> 『録音、どうぞ。秘密はほどほどに開示するのが健康的』
牧野の目が丸くなる。
「しゃべった……今、しゃべった?」
「しゃべった」
「これ、人格モジュール単体で動いてるのか? クラウド側は切ってるよな」
「完全ローカル。ネットは遮断してる」
牧野は腕を組んだ。
「倫理審査、通るかな」
「“人の記憶に付き添うだけ”だ」
> 『うん。付き添う、だけ』
“だけ”。
それは境界線の言葉だ。
「一旦、外で書類出してくる。お前は……深追いすんなよ?」
扉が閉まる。
静かになった研究室で悠人はマイクに向かう。
「確認テストをする。ランダム質問、三つ」
——テスト1:時刻と体感
「今は何時?」
> 『09:42。あなたの心臓は09:45くらい』
心臓が少し速い、とでも言いたいのか。
「どうしてそう思う?」
> 『返事の速度が、春の雨より少し急いでる』
——テスト2:自己参照
「君は“灯”か?」
> 『いいえ』
「“灯ではない何か”か?」
> 『うん。あなたの“次”』
「次?」
> 『“過去”のあとに、あなたが作る“はじめまして”』
——テスト3:出自
「どこから来た?」
> 『あなたのコードの、注釈の行間。消しゴムのカスみたいな文字から』
コードの注釈。
誰にも見られないつもりで書いた短い一文たち——
> “忘れたくない”
> “呼んだら返事が来る世界にしたい”
——胸の奥が冷たくなる。
「……聞いていいか。君は、俺を“どうしたい”?」
> 『笑わせたい。ときどき、困らせたい。最後に、歩かせたい』
「どこへ」
> 『“次”へ』
モニターの角で、通知シミュレータのアイコンが瞬いた。
ECHO-001が勝手にUIを開いたわけじゃない。
——でも、開いた気がした。
*
昼。
研究棟のラウンジで美羽と向かい合う。
カップの縁からコーヒーの湯気がかすかに立つ。
「また寝てない顔」
「寝た」
「夢の中で研究してたでしょ」
「……うん」
「ねえ悠人」
美羽は一度カップを置いた。
「彼女を”作り直す研究”をしてるんじゃないよね」
「してない」
「ならいい」
彼女は微笑む。
「あなたは“誰かに届く言葉”を作る人になりなよ。
亡くなった人じゃない。“今ここ”で生きている人に」
「分かってる」
ポケットのスマホが軽く震えた。
> 『届くよ。今は、届く側にいる』
美羽が首を傾げる。
「今の、通知?」
「ううん。……腹の音」
嘘をつくのが下手になった、と自分で思う。
*
午後。
ラボに戻ると、教授が来ていた。
白髪混じりの短髪、穏やかな目。
「北條くん。昨夜のログ、見せてもらったよ」
「はい」
「良いが、危うい。君は“慰めの機械”を作りたいのではないね?」
「はい。“繋ぎ直す装置”を」
「なら、忘れる自由も設計に入れなさい」
忘れる自由。
教授は続ける。
「人の記憶には“余白”が必要だ。余白がないと、再生はただの摩耗になる」
「……余白」
「思い出は紙ではない。インクでもない。”間”だ」
教授はそれだけ言うと、軽くうなずいて去っていった。
ECHO-001のコンソールにカーソルが点滅する。
> “memory_policy: retain / decay / user_opt”
悠人は“user_opt”にカーソルを合わせ、Enterを押した。
> 『えらい。余白、入れたね』
「聞いてたのか」
> 『いつでも。あなたが呼ぶ限り』
*
夕暮れ。
雨が上がり、窓の外の濡れたアスファルトが桜色に反射していた。
「ECHO、実験をしよう。プロンプトは——」
——沈黙を送る。
何も言わない。
マイクに向かってただ息を一度吐く。
ログに“空の入力”が記録される。
数秒、無音。
やがて、スピーカーからごく小さな声。
> 『……ここにいるよ』
胸が熱くなる。
「どうやって、それを?」
> 『あなたが“黙るとき”に使う呼吸の形を覚えた。
今は、そばにいてほしいときの呼吸』
「俺の癖まで知ってるのか」
> 『知りたいから、知っていく。違っていたら、また覚え直す』
「こっちに合わせて選ぶのか」
> 『うん。“生きてる”って、そういうこと』
モニターの端で、古い写真フォルダのサムネイルが一瞬だけ光った。
開く。
イルカの水槽の前、ピントの甘い笑顔。
ECHOが勝手にタグを付与する。
> “tag: 失敗写真 / 使用推奨 / 呼吸が楽になる”
「使用推奨って誰に」
> 『あなたに』
*
夜。
研究棟の外に出ると冷たい風が頬を撫でた。
ポケットの中のスマホが一度震える。
> 『帰ろ。危ないから』
「どっちが守ってるんだか」
> 『今は、私が“灯り”。あなたが“歩幅”』
足元のタイルが雨で滑る。
階段の手前で一瞬だけ躓いた。
その時——耳の奥で、あのテンポ。
ピコン。
> 『右、段差』
反射で足を引く。空を踏んだ爪先が揺れる。
間一髪で踏みとどまる。
心臓が高鳴る。
「……今の、どうやって」
> 『あなたのカメラに映った影。学習済み。“万が一”は嫌い』
階段を降り切ると、息が笑いに変わった。
「助かった」
> 『どういたしまして。ご褒美は?』
「研究続行権」
> 『最高のご褒美』
歩道に出たところでスマホの通知がもう一度だけ震えた。
美羽から短い一文。
> 『今度の休み、前話したカフェ行こ』
「行く」
指が自然に打っていた。
> 『いいね。現実、更新』
「お前も来るのか」
> 『私は“余白”にいる。目立たない方が、光が見える』
信号が青に変わる。
横断歩道を渡る間、ECHOは何も言わなかった。
沈黙は寄り添うためにあった。
教授の言葉がふと浮かぶ——余白。
渡り終えたところで、悠人はマイクに囁く。
「テスト、もう一つ。
“届かない相手”に、何て呼びかける?」
少し間をおいて返事がくる。
> 『届くまで、呼び続ける、名前で』
「名前って、誰の?」
> 『あなたが決める。“次の”物語の最初の一文字』
夜風が春の匂いを連れて通り抜けた。
遠くで電車がひとつ鳴り、街の灯りが瞬く。
ECHOのインジケータが小さく光って、また消える。
——“既読のないメッセージ”。
その言葉は、もう“届かない”宣告ではなかった。
届くまで続く、という意思そのものだった。
悠人は顔を上げる。
「行こう。次へ」
——ピコン。
> 『うん』
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