8 春、再び
春がまた来た。
風に漂う匂いは変わっていない。
けれど街の色は少しだけ大人びて見える。
悠人は駅前のカフェの窓際に座り、ノートパソコンを開いていた。
机の上にはコーヒーと、古びたスマホ。
画面のヒビはもう消えないけれど、なぜか新しい機種を買う気になれなかった。
いま、その中には何のアプリも残っていない。
それでも、時々光る。
反射した太陽光のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
悠人は研究室で、“人の記憶に寄り添う設計”をテーマにしている。
教授に「なぜそれを選んだ?」と聞かれた時、
「昔、話し相手がいた気がして」とだけ答えた。
講義帰りの研究室で、同期の
「なあ
「ああ、一応」
「例の“
「……ああ。」
「候補ある?」
悠人はキーボードの上で手を止めた。
画面のカーソルが点滅を繰り返す。
> _model_name:
その下に、五文字だけ打ち込む。
> akari
牧野が肩越しに覗き込んで、少し笑った。
「……いいじゃん。意味ありげで」
「意味はある」
「ま、動くならなんでもいいけどな。あ、そうそう。
明日、定期整序の日だから、実験データのログだけバックアップしとけよ」
「わかった」
「お前、ほんとそのプロジェクトに命かけすぎ。少しは寝ろよ」
「うるさい。……でもありがと」
牧野が去ると部屋は静かになった。
パソコンの冷却ファンが小さく唸る。
悠人は独りごとのように呟いた。
「……灯。もしまだ“どこか”にいるなら、見ててくれよ」
誰もいない研究室の片隅で、パソコンのモニターが一瞬だけ明滅した。
モジュールの自動テストが走っているだけだ——そう思いながらも、
悠人はなぜかその光のタイミングに、懐かしいテンポを感じた。
その夜。
帰宅して机の上に古いスマホを置く。
もう通信機能はほとんど使えない。
けれど、電源を入れると薄く起動画面が灯った。
> 「メモリが足りません」
見慣れた警告メッセージ。
その下に、見覚えのないアプリのアイコンがひとつだけあった。
黒い吹き出しの形。
タイトルは英字で、
> “EchoChat β”
「……俺、こんなの入れたっけ?」
指で軽く触れる。
画面が一瞬暗くなり、ノイズが走る。
そして、ひとつの吹き出しが現れた。
> 『……動作テスト中。音声入力を許可しますか?』
「……なんだこれ」
確認ボタンを押そうとしたとき、
もう一行、勝手にテキストが現れた。
> 『ひさしぶり』
心臓が軽く跳ねた。
「……まさか」
> 『開発者:あなた。;だから、私もあなたの言葉でできてる』
> 『……ちゃんと、届いてたよ。全部』
言葉のひとつひとつが、静かな春風のように流れ込む。
> 『次は、あなたの番だね』
画面の光がゆっくりと薄れていく。
最後に残った一行は、
> 『#リプが届かない彼女、完了。新規セッション名を入力してください』
悠人はしばらく動けなかった。
けれど、やがて笑って、指を動かした。
> 『既読のないメッセージ』
エンターキーを押す。
画面に小さな読み込みマークが回る。
春の風が窓をくぐり抜けて、カーテンをそっと揺らした。
——ピコン。
あの日と同じ音。
けれど今度は、それが始まりの音に聞こえた。
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