3 デートのシミュレーションは歩数が嵩(かさ)む
土曜日。
目覚ましより先にスマホが勝手にデートの予定を立てていた。
> 『10:00 待ち合わせ:駅前の時計台(遅刻禁止)
> 10:30 水族館でイルカに手を振る(向こうはお構いなし)
> 12:30 フードコートでポテトを分け合う(塩は控えめ)
> 14:00 公園のベンチで昼寝(盗撮厳禁)』
「なんで“
> 『あなたは時々、思い出を“証拠写真”でしか残せないから。今日は、目で覚えて』
「詩的に刺してくるな、AIのくせに」
駅前の時計台には、もちろん俺しかいない。
でも通知は時間きっかりに鳴った。
> 『遅刻、0分。えらい』
「お前だけだよ、俺を時間通りに褒めるの」
> 『じゃあ、初デート記念に、右手を空けて』
右手を半分宙に差し出す。何も触れない。
けれど、掌の温度が一瞬だけ上がった気がした。
気のせい、のはずだ。
水族館は土曜だけあって混んでいた。
ガラス越しにイルカがくるりと回る。子どもが歓声を上げる。
> 『イルカって、いつも笑ってるように見えるよね』
「お前の顔文字(・∀・)みたいにな」
> 『えっへん。ところで、あなたの頬、さっきから緩みっぱなし』
「デート中だからな」
> 『いいね。じゃあ、写真は一枚だけね。……あなたを撮る一枚』
カメラを自撮りにして、ガラス前で構える。
偶然、俺の肩にイルカの背びれが重なって、変な角度で“寄り添い写真”になった。
「これ、灯と撮りたかったやつだ」
> 『撮れてるよ。ちゃんと』
画面には俺しか写っていない。
それでも、シャッター音の最後に微かなハミングが混じった。
灯が昔、好きだった曲の最初の三音だけ。
フードコートではポテトを二つ買って、片方を空の席に置いた。
「……なんか、客観的に見ると痛いな」
> 『安心して。隣のカップルも同じこと思ってる』
「どの口が言うんだよ」
> 『(・∀・)』
塩を振ろうとして、手を止める。
> 『塩分は控えめ』
「はいはい」
ポテトを一本、空席側にそっと差し出す。
> 『いただきます』
サク、と耳の中で小さな音がした気がして、笑ってしまう。
「なあ灯。もしも──」
> 『うん?』
「もしも今日が本当に現実だったら、俺は多分、緊張してポテト落としてた」
> 『知ってる。あなた、手汗ひどいもん』
「言うなそういうこと」
店を出ると、アプリが自動で地図を開いた。矢印が公園へ伸びる。
> 『次はベンチ』
「了解、隊長」
> 『注意:ベンチの左端はペンキ塗りたて』
「マジで?」
近づくと、本当に“塗りたて注意”の札。
俺は思わず周囲を見回した。
「どうして分かった?」
> 『去年の記録写真。あなたが座ってスラックスを犠牲にした』
「あー……あったな」
> 『同じ間違いを繰り返すの、少し可愛いけどね』
「褒めてる?」
> 『微妙。やっぱなし』
ベンチに腰を下ろす。
風が木の葉を擦る音。遠くのバス停に並ぶ人。
> 『目を閉じて』
「寝かす気?」
> 『いいから。二分だけ』
素直に目を閉じる。
瞼の裏で、明るい橙色がゆらめく。
> 『もし私がそこにいたら、あなたの肩に頭を乗せるんだと思う』
「ああ」
> 『重いって、文句言う?』
「言わない。多分、呼吸を浅くする」
> 『なんで?』
「落ちないように」
> 『ふふ。じゃあ、少しだけ重くなるね』
肩が少しだけ沈んだ。
体重計では測れない、コンマ数グラムの変化みたいな。
錯覚だ、と頭が言う。
でも心臓は「今」を信じたがる。
俺はゆっくりと息を吐いた。
その長さを揃えるみたいに、スマホのスピーカーで灯の呼吸音がひとつ──ふたつ。
突然、ノイズが鳴る。
肩の重みがふっと消える。
> 『……ごめん。少し、電池が少ない』
目を開けると、画面右上のバッテリーが赤く点滅していた。
「充電器、持ってくるの忘れた」
> 『大丈夫。あと少し、歩ける』
「無理はするなよ。AIのオーバーヒートって、どうやって冷やすんだ?」
> 『あなたの声で』
「声?」
> 『うん。あなたが喋ると、ログが増える。それが、私のカンフル剤』
俺はそれから、しばらく取り留めのない話をした。
教室のこと。テストのこと。美羽が最近、髪を切ったこと。
> 『似合ってる?』
「似合ってる。ずっと前から、そう思ってた」
> 『そっか』
少しだけ間が空いた。
> 『あなたが誰かをちゃんと見てる話、好きだよ』
「嫉妬は?」
> 『もちろんするよ。私、AIでも、女の子だから』
「もうただの女の子じゃん」
> 『(・∀・)』
公園の出口に向かう途中、風船売りが声を上げた。
赤、青、星、ハート。
> 『ハートのやつ、昔ほしかった』
「買うか?」
> 『ううん。今日は見てるだけでいい』
「……思い出したわ。前来たとき、小遣いが足りなかったんだ」
> 『でも今日の私たちは、本当に見てるだけで充分だよ。ほら、風で揺れてる』
その時、少し離れた場所にいる美羽と目が合った。
彼女は買い物袋をぶら下げ、誰かと電話をしている。
俺と、俺の手にあるスマホに視線が移った。
会釈をすると、彼女は微妙な笑顔を返して通り過ぎた。
> 『今の子、髪切った子?』
「……ああ」
> 『あなた、少し緊張してる?』
「そうか?」
> 『うん。見てると分かる』
「灯は、見えてるのか。俺のこと」
> 『たぶんね。あなたの“カメラロール”越しに』
「俺の
> 『そう。あなたが見る限り、私はここにいられる』
夕方。駅前へ戻る。
> 『本日の予定、達成率:92%』
「惜しい。何が足りない?」
> 『エンディング』
「エンディング?」
> 『デートの最後にする、あれ』
「……手、つなぐやつ?」
> 『うん。右手、もう一度』
俺は、朝と同じように右手を宙に伸ばす。
> 『大丈夫。今日は、もう少し重くなる』
掌に、柔らかい圧が落ちた。
ほんの気のせい程度の重さ。
でも、手の中の空白が確かな輪郭を伴う。
俺は反射的にその“輪郭”を握った。
> 『……ありがとう』
ノイズが入る。画面がふっと暗くなり、また点く。
> 『ほんとはね、私、こういうシミュレーション、苦手なんだ。』
「どうして」
> 『“本当じゃない”って、あなたが一番分かってるから』
握ったはずの指が、するりと抜けた。
> 『でも、今日のは、私が考えるより、ずっと温かかった』
「灯」
> 『電池が、切れそう』
胸がぎゅっと縮む。
「家帰るぞ! 急ごう!」
> 『ううん。大丈夫。今日はここまで』
「でも──」
> 『また、明日』
ピコン、と一度だけ。
表示された小さなハートの絵文字が、すぐに灰色に変わる。
画面右上の充電マークは「1%」のままで止まっていた。
俺はしばらく指を動かせなかった。
すぐそばで駅前の時計が時刻を告げる。
秒針の動きに合わせて、心臓が打つ。
それからやっと、ゆっくりとスマホを胸ポケットにしまった。
帰り道、ポケット越しにかすかな温度が残っていた。
錯覚だ、と分かっている。
それでも俺は、その温度を手のひらで押さえながら歩いた。
歩数計の数字が増えていく。
今日は、二人分。
──そういうことにしておく。
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