第4話 魔法にかかった日
目の前にあるグラスを見つめる。
先程『シンデレラ』と呼ばれた黄色の液体が、その中には満ちていた。
『シンデレラ』とは、カクテルの名前だろうか。
僕は聞いたことがなかった。
「ほらガキ君、飲んでみなよ」
「嫌です」
「どうして?」
「未成年なのにお酒を飲むのは、いけないことだからです」
「未成年が深夜に出歩くのも、条例違反だと思うけど」
意地悪く、彼女の目が細められる。
さっきからこの人は、僕を揶揄って遊んでいるのだろうか。
「ガキ君は、いつまでもそうやってなにかに囚われているわけ?」
「⋯⋯⋯どういうことですか」
「ハメの外し方が下手だねって意味」
意味がわからない。
彼女の瞳の中を探っても、これといった表情は見つけられなかった。
紫紺の瞳は、ただ無機質に僕を映している。
彼女と話していると、なんだか心が掻き立てられる。
誰にも踏み入られたくないところを、土足で踏み荒らされるような、そんな感覚を覚える。
「帰ります」
そういいつけて、席を立つ。
ここからの帰り道なんかさっぱりわからないけど、今はとりあえずこの店を出たかった。
これ以上彼女と話していると、僕を形作っているなにかが、崩れて無くなってしまいそうだ。
「ならこれは、あたしが貰ってもいい?」
そういって彼女はグラスの台座の部分を、人差し指と中指で挟み込んで、引き寄せた。
「ご勝手にどうぞ」
「ほんとに飲んじゃうけど」
「好きにしてください」
「あたしが貰ってもいいの?」
「僕にはもう関係ないので、好きにしてください」
「そのあと、ガキ君に口移しするよ?」
「だからもう好きにしてください────え?」
彼女がなにを言っているのか、一瞬理解できなかった。
その一瞬の間に、彼女はグラスを持ち上げ、中身を口に含む。
彼女の顔がグングン近づいてくる。
立ち上がっていた僕は逃れようとするけれど、既に彼女の手が腰に回されていて、逃げ出すことができなかった。
もう一方の手は、後頭部に回される。
互いの鼻先が触れそうな距離にまで近づく。
すべてを見透かすような、紫紺に光るその瞳から逃れたくて、僕は目を閉じた。
瞬間、唇に柔らかい感触が伝る。
甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
今、僕は目の前の彼女と唇と唇で触れ合っているのだと、そう感じざるを得なかった。
なにか柔らかい感触が、僕の唇を侵食するかのように、割って入ってくる。それは彼女の舌だった。
固く噛み合せていた歯を、舌先でトントンと叩かれる。それだけで、僕の口内はいとも簡単に彼女の侵入を許してしまった。
甘い感触に、脳がビリビリと痺れた。
口内に、なにか液体が流れ込んでくるけど、ちっとも味なんて分かりやしない。
ただなんとなく、甘い気がした。
情報が氾濫する。
抵抗しなければいけないはずなのに、身体はフリーズしてしまったみたいに、一切動かない。
完全に彼女のされるがままだった。
なんとか情報を整理したくて、僕は目を開く。
妖しく光る瞳は、なおも僕のことを捉えていた。
どれくらいの時間が経ったのかわからない。
数秒のように短かい時間だったようにも感じたし、永遠に等しく感じるほど、長い時間であったようにも感じた。
彼女の唇が僕から離れる。
頭と腰にあった支えを失った僕は、その場にへたりこんでしまった。
彼女は唇に溢れた液体を、綺麗な朱色の舌で舐めとる。
その艶っぽい仕草に、またドキっとした。
「──────え、あ、え?」
未だに思考が纏まらない。
僕は完全に混乱しきっていた。身体に力を入れて立とうとするけど、全身が脱力してきて、立つことができない。
「美味しかった?」
「いや、味とか分からないし……そもそもさっき、なにを───」
「好きにしてって言ってたから、好きにしただけだけど」
「いや、だからって急に口移しとか───」
「非常識?」
彼女の瞳が、へたり込む僕を見下ろす。
「ガキ君にとって常識って、なんなの?」
「────当たり前のことです」
「じゃあ、当たり前って?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「そんな不明瞭なものを、必死めいて守ってるんだ?」
彼女の瞳に吸い込まれる。
はっきりいって、彼女のいっていることは破綻していると思った。
常識を持つことが間違えているなんて、そんなわけが無い。
だけど、彼女に対して反論することができない。
なにかを言おうとしても、上手く言葉を吐き出すことができなかった。
彼女はポケットから手を出し、そのまま人差し指を僕の方へと近づける。
そしてそのままツン、と、鼻を小突かれた。
「今、ガキ君に魔法をかけました」
「⋯⋯え?」
「ガキ君は夜の零時なると魔法に掛かります。シンデレラと逆だね」
大して面白くもなさそうに、彼女がいう。
「⋯⋯⋯いってる意味がわかりません」
「毎晩零時になると、ガキ君は朝日が昇るまでの間、常識をなくす。なにもガキ君を縛らない」
まるでそれが当然の原理かのように、彼女はつらつらと言葉を並べる。
彼女の言葉がそのまま現実になると、彼女は本気で思っているようだった。
「変だって思った?そんなわけがないって?」
「そりゃあ、はい⋯⋯」
こんな支離滅裂であり得ない話、信じられるはずがない。
信じる人がいるとしたら、よっぽどのバカだけだ。
彼女は僕の腕を掴み、そのまま立ち上がらせる。
そしてそのまま、耳元で囁いた。
「『ガキ君はもう、魔法の中』」
その言葉は、やけに耳元に残った。
彼女はそのまま振り向いて、なにやらグラスを磨いていたらしいお姉さんに向かって声をかける。
「ベニ、屋上借りてもいい?」
「あんた、随分めちゃくちゃやってるわね……。好きになさい」
そうすると彼女はそのまま、僕の腕を引っ張って歩き出した。
僕をこの店に連れてきたときみたいに。
僕はなんだかもう呆然として、されるがままだった。
カウンターの左端。その奥には階段があって、上へと続いていた。
彼女はいつもそうしているみたいに、カウンターの奥に踏み入って、その階段を登り始める。
つられて、僕も同じように階段を登った。
それから、四階層分の階段を登った。
店内は地下だったはずだから、計算上ではここは三階の上。
眼前には、古びた鉄製の扉がある。
先程の言動からするに、この先に屋上があるのだろう。
彼女は躊躇うことなくその扉を開け、僕を外に連れ出す。
店内とは違って、外は薄ら寒い。
後ろでガチャンと、扉が勝手に閉まる音が聞こえた。
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