第11話 影ヨミ
夜は、あまりにも静かだった。
山の息が止まったかのように、虫の音さえ聞こえない。
風がひとすじ、屋根の木組みを渡り、煙が途切れる。
囲炉裏の火がゆっくりと沈み、灰の下で赤い光が呼吸していた。
ミユキは、布団の上に座ったまま眠れずにいた。
目を閉じれば、言葉のない世界の音が押し寄せる。
聞き取れない祈り。
笑い声。
川の音と似たリズムで囁く声。
外の空気が変わった。
遠くの山の向こうから、何かが近づく。
風が途切れたのに、木々がざわめいた。
胸の奥に、冷たい針が立つ。
——山が、起きている。
彼女は寝床を抜け、薄い布を羽織った。
戸口の隙間から外を見る。
月は出ていない。
なのに、あたりがうっすらと明るい。
灰色の光。
それは、月でも火でもない。
村の方から、太鼓の音がした。
低く、ゆっくりと、心臓を叩くような拍。
ドン、ドン、ドン……。
その間に、短く鈴の音が混ざる。
(まつり……?)
誰かが祈っている。
だがそれは祭りの音ではなく、鎮めるための音だった。
火を囲み、神の機嫌をうかがうような——。
ミユキは、廊下を抜けて外へ出た。
山風が冷たく、肌を刺す。
霧のような光が村を包み、輪郭をぼかしている。
人の影がいくつも、地に伏していた。
頭を地に付け、音を立てずに揺れている。
祈りの形。
彼女は声をかけようとした。
——そのとき、空気が動いた。
風のような、息のような。
音ではない何かが、耳の奥を撫でた。
鳥肌が立つ。
背後で、囲炉裏の灰が崩れ落ちる音がした。
見てはいけない、と思った。
理由はわからない。
けれど、胸のどこかがそう叫んでいた。
それでも、目を上げてしまった。
霧の向こう、祠のあたり。
白い影が立っていた。
人のようで、人ではない。
顔は見えない。
白装束の袖が風にゆれ、足元に光が滲む。
その光は、音を持っていた。
——声だ。
耳で聞くのではない。
骨の中に響く声。
意味はわからないのに、なぜか理解できる。
「——視ルナ」
瞬間、視界が白く反転した。
霧が爆ぜ、山の影が動いた。
空のどこからか、低い唸り。
音の形をしたものが、世界を撫でていく。
それは音であり、呼吸であり、祈りだった。
村の灯が消える。
人々がさらに深く頭を下げる。
ミユキは膝をつき、息を詰めた。
胸が焼けるように熱い。
頭の奥で、知らない言葉が弾ける。
それは悲鳴のようで、歌のようでもあった。
——ヒト、クニ、ギ。
聞こえた。
初めてはっきりと。
その響きが、自分の内側から漏れた。
光が崩れ、影が散った。
空が一瞬、真昼のように明るくなり、すぐ暗転した。
風が戻る。
祈りの音が止む。
倒れた。
土の冷たさが、皮膚を貫く。
目の前の地面に、白い灰が落ちてきた。
雪のように見えたが、熱を持っていた。
指先に焦げた匂いが移る。
最後に見たのは、
霧の中に溶けていく白装束の背。
その輪郭が山の闇に吸い込まれると同時に、
ミユキは意識を手放した。
音も光も消えた。
ただ、自分の鼓動だけが残った。
——感じることしか、許されない。
その言葉が、骨の奥に刻まれた。
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