ヒトクニギで風を待つ
BOA-ヴォア
第1話 入口のない森
目を開けたら、空が二重になっていた。
薄い雲の膜の上に、さらにきめの細かい布がかぶさっていて、風の向きがちょっとずつ違う。
どちらも本物みたいに光って、でも片方は、息を止めるとわずかに遅れて流れた。
耳の中で、自分の鼓動が硬い石を叩くみたいに鳴っている。
冷たい匂い。湿った土。すり潰した葉の青い匂い。
喉の奥が薄くしびれて、舌の付け根が重い。
体を起こそうとして、指先から順番に確認した。
指は五本。手のひらは土でざらざらしている。
腕は重いけれど、骨の並びは知っている通り。
制服のスカートは湿って、膝にまとわりつく。
靴下は片方だけ泥にまみれていて、もう片方は露で濃い灰色になっていた。
立ち上がる。
少し待って、膝が震えるのがおさまるまで深く息を吸う。
息は冷たい。肺の奥に薄い氷膜を貼ってから、体の内側に音もなく溶けていく。
周りは、知らない森だった。
高い木。枝の角度が見慣れなくて、天井がいくつも重なっているみたいに見える。
幹には細い裂け目が縦に並び、ところどころ白い樹皮がはがれて薄い紙の切れ端みたいにひらひらしている。
下草は腰のあたり。色は深いのに、触るとやわらかくて、すぐに戻る。
根の盛り上がりが地面の脈のように続いて、踏むたび、かすかな水の音が足の裏でほどけた。
見たことがない、というより、
見たことがあるはずのものが、少しだけ違う角度で並んでいる。
——ここは、どこ。
声に出そうとしてやめる。
声を出すと、その声が、知らない空気に混じって、どこかへ連れていかれそうな気がした。
ポケットの中。
スマホ。
電源は入る。時間は動いている。
けれど、圏外の表示は、いつもの圏外と違って、画面の向こうの黒が深すぎる。
コンパスのアプリは、赤い針を持ち上げて、それから力を失ったみたいに倒れた。
地図は薄い灰色の格子。何も読み込まれない。指で広げても、広げるほど、空白が増えるだけ。
笑いそうになって、笑わない。
笑うと、泣きそうになるのがわかったから。
代わりに、息をもう一度、深く吸った。
冷たい。痛みはないのに、痛いみたいに胸がきゅっとなる。
痛みのない激痛、という言葉が頭に浮かんで、すぐに消えた。
リュックの口を確かめる。
水筒。ハンカチ。小さな救急セット。飴が二つ。
いつも持ち歩くもの。ここで役に立つかはわからない。
でも、確かめるだけで少し落ち着く。
足を一歩出す。
森は足音を飲み込んで、代わりに、遠くのどこかで硬い音をひとつ返した。
乾いた枝が誰かの肩に当たって跳ねるような、小さな音。
振り向く。何もいない。鳥の気配もしない。
ゆっくり歩く。
体の端々を確かめるみたいに、歩幅を小さく。
右。左。数える。十歩。二十歩。三十歩。
数字は、森の中で丸くなってしまって、すぐに形を失う。
数えるのをやめる。
光は柔らかい。
枝葉の隙間から落ちる粒が、白にも黄にも決めないまま宙を漂って、
風が触れると、たちまち位置を変える。
その風が、頬の表面だけを撫でる。中には入ってこない。
森の外側で吹いているみたいだ。
小さな沢に出た。
水は澄んで、川底の石がはっきり見える。
けれど、見えるはずのゆらぎが、ほんの少しだけ足りない。
動いているのに、動いていないような、逆に、動いていないのに、わずかに前へ押しているような。
しゃがむ。
指を水に入れる。冷たい。
指先が少し痺れる。
顔を映そうとして、やめる。
ここで顔を確認してもしなくても、私は私で、でも今は、私でいることの輪郭が薄い。
喉が渇いている気がした。
でもここで飲んではいけない気がした。
だから水筒を少しだけ口に運ぶ。
ぬるい。知っている味。安心する。
沢の向こうに、細い道があった。
人が通った跡、というより、獣が草を分けた筋。
土は固く踏まれていて、足の形は何も残っていない。
でも、歩いたものの癖だけが透明なまま道の上に残っているように見えた。
道に入る。
枝が肩に当たる。軽い音。
葉が髪に触れて、静電気みたいにふわりと浮く。
手で払う。払った先で、葉は元の位置に戻らない。
少しずれたまま、そこにいる。
鳥居に似たものを見つけた。
赤ではない。黒でもない。
木そのものの色のままで、上に横木が渡してある。
結び目に白い布が細く巻かれていて、風に揺れている。
揺れ方は、小さな呼吸に似ていた。
くぐるべきかどうか、少し迷って、頭を下げて通る。
意味が正しいかわからないけれど、通るなら、そうした方がいい気がした。
そこから先、匂いが変わった。
土の匂いに、灰のような、炊いた後の木の匂いが混じる。
人のいる匂い。火と水と、干した草の匂い。
胸の奥が少しだけ軽くなる。
でも、足は勝手に速度を落とした。
音を置いていきたくない。
私の音が、ここにいる何かを壊してしまうかもしれない。
そんな気がして、靴底を地面にそっと置き直す。
小さな祠のようなものが見えた。
石が四つ。上に板。
その前に、丸い石が三つ。
誰かが並べたままにしてある。
並び方に、理由がある気がする。
でも、知らない。
私は、勝手に触らない。
深く息を吸って、吐く。
息はまた、薄い氷膜を作って、胸の中で溶けた。
痛くないのに、痛いみたいな感じも、少しだけ薄くなる。
上へ続く筋を選ぶ。
登れば、何かが見える気がした。
見えるものが、私を元の場所に戻してくれるとは思わない。
でも、「見える」ということ自体が、今は必要だった。
急な坂。
根が階段みたいに段差を作っている。
掴む。冷たい。ざらざら。
掌の皮膚の線が、根の皺と一瞬だけ重なって、すぐ離れる。
途中、岩が口を開けているところに出た。
洞窟、というほどではない。
でも、入れば、外の音がすぐ消えそうな、深さの気配。
覗き込む。
黒ではなく、濃い藍。
その色の中に、細い白の線が一本、沈んでいる。
目の錯覚かもしれない。
私は、入らない。
また、頭を下げて通り過ぎる。
風が少し強くなる。
遠くで、低く重い音。
雷ではない。
地面の奥で、大きな空気がゆっくり動いたような音。
それに呼応して、木々の上で何かが一度だけ鳴った。
金属ではない、骨でもない、もっと乾いた、しかし柔らかい音。
知らない。
でも、怖くはない。
私が怖がるべきものは、たぶん、もっと別の形をしている。
やがて、光が急に広がった。
木々の間から、斜面の切れ目が見えて、そこから一段、空が落ちている。
駆け足になって、足元を確かめながら近づく。
土は乾いていて、風が頬の内側にまで入ってきた。
視界がひらける。
山の肩越しに、広い谷。
谷底に、川。
川は何本かに分かれて、また集まって、白い筋をつくる。
その手前に、畑。
畑の区切りは、私の知っている四角ではなく、曲線が重なって、魚の鱗みたいに並んでいた。
薄い土の色。濃い土の色。
ところどころに、干した何かを吊るすための木のやぐら。
畑と畑の間に、細い水の道が走っている。
水の道は、途中で小さな輪を描いて、また主の流れに戻る。
その輪が、太陽をひとつだけ連れ回して、光の粒を散らしていた。
畑のさらに向こうに、屋根。
大きくはない。
しかし、屋根の並びに秩序があった。
傾きは同じ。向きは少し違う。
間隔は不揃いなのに、全体としては静かに揃っている。
煙。
薄い。草を燃やす匂い。
屋根の縁から、白い布が吊るされて、風に揺れていた。
布は言葉みたいに並び、何も書いていないのに、意味を持っているように見える。
人、が、いる。
谷の底の気配。
けれど、姿はここからは見えない。
動きの影だけが、屋根の脇を行き来して、すぐに隠れる。
喉が鳴った。
声が、勝手に出そうになって、歯の裏で止める。
手のひらが汗ばんで、土の粉が細かく貼りついた。
視界の端が少し明るくなって、立っているのに、体が軽く浮いたみたいに感じた。
座り込む。
膝を抱える。
頬に風。
膝の骨が冷えて、皮膚の内側で、さっき飲んだ水が静かに動いた。
ここから降りれば、誰かに会う。
会えば、言葉が必要になる。
私の言葉は、きっと通じない。
でも、通じない言葉にも、音と間と手の形がある。
きっと、どうにかなる。
どうにかならないかもしれない。
どちらも本当で、どちらも、今はまだ、遠い。
スマホをもう一度見る。
画面は、さっきと同じ。
圏外。時間だけが、規則的に進む。
ホームの壁紙に映っている友達の笑顔は、現実のものなのに、今は、少し絵みたいだ。
指で閉じる。
胸ポケットに戻す。
そこで、私の心臓の拍と、スマホの硬い角が、薄い布越しに一瞬ぶつかった。
「大丈夫」って言われたみたいな感覚。
根拠はない。
でも、言われた気がした。
立ち上がる。
斜面の縁を回り込む道を探す。
獣の筋。人の筋。風の筋。
それらが重なって、ひとつの細い降り口をつくっている。
足を乗せる。
土が少し崩れる。
息を止める。
崩れた土は、すぐに静かになった。
また、一歩。
指で灌木をつかむ。
指の腹に、細い刺。
痛い。
痛いのは、安心する。
痛みのある痛みは、わかりやすい。
降りる途中で、木の幹に刻まれた印を見つけた。
丸。線。丸。
順番に、角度が少し違う。
誰かが通るたびに、付け足したのかもしれない。
印の上に、白い紙片。
紙、ではない。
皮を薄く削いだみたいな、柔らかい薄片。
風に合わせて、ほんの少しだけ動く。
それが動くたび、私の体の内側で、何かが同じように揺れた。
揺れはすぐに収まり、また、同じ形に戻った。
斜面を降り切るころ、陽の角度が少し変わった。
谷は影を深くして、川の白が強くなる。
足元の土が湿り、靴底が重くなる。
でも、重さは嫌ではない。
重さは、ここにいるという形のひとつだ。
畑の縁まで来た。
土のふちに石が並べてあって、そこを踏めば、畑に足跡を残さずに進める。
私は石を選んで、一つずつ渡った。
「ごめんなさい」と心の中で言って、もう一度、頭を下げる。
誰に、というわけではなく。
でも、そうした方が、しっくりした。
近づくにつれ、屋根の素材がわかってきた。
草。木。土。
薄い板を重ねたものもあって、端が細い紐で留めてある。
紐は太くなく、でも強そうで、指で触れずとも、手の中に重さの感覚が移ってくる。
家と家の間に、乾いた茎を束ねたものが掛けてあり、風に叩かれて、軽い音を立てていた。
その音は、さっき聞いた「骨でも金属でもない音」に似ていて、でももっと柔らかく、人の生活の音に混ざって、輪郭を丸めていた。
足を止める。
近すぎても、遠すぎてもいけない。
今は、ここまで。
この距離は、私にとって、ちょうどいい。
屋根の向こうで、人の声がした。
速さも高さも、私の知っている言葉の形と違って、
抑揚のつけ方に、意味の重なりが多い気がする。
音の粒の並びだけで、何をしているのか、少しだけ伝わってくる。
忙しい。やさしい。慎重。
そんな気配が、私の皮膚の表面に薄く積もる。
胸の中で、なにかが、やっと「降りた」。
さっき、空の膜が二重に見えた時、上にかかっていた薄い布。
それが、目に見えないまま、ゆっくりほどけて、体の内側に沈んでいく感じ。
異物が異物であることをやめて、でも、自分になり切ることもしないで、
ただ、そこにいていいよ、と言われたみたいな。
私は、息を吐いた。
長く、静かに。
吐き切る最後のところで、少し笑ってしまう。
笑うと、泣きそうになるのは、さっきと同じ。
でも、今の涙は、さっきよりも軽い形をしている。
もう一度、谷を見渡す。
川。畑。屋根。揺れる布。
白い道がいくつかに分かれて、また集まり、
その集まりの中心に、背の高い木が一本、立っていた。
木の上の方に、何か結ばれていて、風がいちど強くなるたび、
そこが光を拾って、細い合図を一つだけ、空に送る。
私は、その合図に、小さく頷いた。
意味は、きっと後でわかる。
今は、頷くことで十分だった。
靴のかかとを少しだけ引いて、来た道を目でなぞる。
戻るわけではない。
けれど、戻れるかどうかを確かめるのは、
今この場所にいるための、私のやり方だ。
膝の泥を手のひらで拭う。
泥は指先に少し残って、そのまま乾いていく。
乾いた感触は、粉にならず、薄い膜になって、皮膚の上に留まった。
異物のようで、でも、嫌ではない。
深呼吸。
「大丈夫」
声に出さずに口だけ動かす。
唇の内側が、少しだけ熱くなる。
私は、谷に向かって、ゆっくりと手を上げた。
誰かに見えるほどの大きな動きではない。
でも、私には十分わかる、はっきりした挨拶。
手を下ろす。
指先が、風に触れて、かすかに震えた。
太陽の角度が、もうひと目盛り、傾く。
影が長くなり、音が丸くなる。
村のどこかで、木を打つ音が一度だけ鳴って、止んだ。
合図のようで、習慣のようで、私には判別できない。
でも、それがここでの「終わり」と「始まり」の境目に思えた。
今日は、ここまで。
降りた。見た。確かめた。
次は、歩く。
誰かの前まで。
私は、靴ひもを結び直した。
結び目は少し歪んで、でも強かった。
立ち上がる。
谷の空気が、胸のあたりで入れ替わる。
痛みはないのに、痛いみたいな感覚は、もう残っていなかった。
ゆっくり、最初の一歩。
谷へ向かう道の手前で、足を止める。
振り返って、空を見る。
二重の膜は、もう一枚になっていた。
風の向きはひとつ。
光は、薄い金色に揃っている。
私は、目を閉じて、小さく頷いた。
それから、目を開けて、もう一度、深く息を吸った。
——行こう。
足を前に出す。
音は、小さい。
でも、確かに、私の音だった。
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