第14話 夜風の残り香

玄関の扉が閉まる音がして、部屋に静けさが戻った。

夜風がほんの少しカーテンを揺らして、

ベランダ越しに街の灯がぼんやりと滲んでいた。


直哉はその風の流れに目を細めた。

「……やれやれ、あの姉貴のテンションは昔から変わらん」

思わず口に出した独り言が、空気の中で溶ける。


ベッドの上では、アリサが紙袋を整えていた。

買い物帰りの戦利品──新しい服、日用品、そしてあの下着。

彼女はそれらを静かに、まるで儀式のように仕分けている。


「真奈美さん、楽しそうでしたね」

アリサの声は、感情の輪郭が曖昧なまま、どこか柔らかい。

「昔からあんな感じだよ。勢いで動いて、後で笑ってる」

「似ていますね」

「誰と?」

「あなたと」


直哉は思わずベランダ越しに振り返った。

アリサは無表情のまま、しかしその頬に少しだけ疲れたような色があった。


「あんなに楽しそうに笑う人を見るの、久しぶりな気がしました」

「たぶん、アリサのおかげだ」

「私の?」

「うん。あの姉貴、根は単純だからな。”守られてる“ってのがが見えたら安心するタイプなんだ」


アリサは数秒の沈黙ののち、

「守られるって、どういうことなんでしょう」と呟いた。


直哉は言葉を探したが、見つからない。

ベランダの手すりに寄りかかり、遠くの街明かりを見つめる。


「……それは、たぶん、誰かの“居場所”に入ること、かな」

「居場所」

「うん。自分がいなくても、その人が生きていける場所を守る……とか」

「矛盾していますね」

「まあな。俺もよく分かってねぇ」


その答えに、アリサは小さく笑った。

「あなたのそういうところ、嫌いではありません」


一瞬、風が止まる。

その静寂に、直哉は胸の奥が妙に熱くなるのを感じた。


「……それ、どういう意味で言ってる?」

「言葉通りです」

「お前なぁ……」

「下心、警戒しました?」

「してねぇよ!」

「反応が早いですね」


アリサの口元に、ようやく小さな笑みが浮かぶ。

その笑い方が、真奈美とはまるで違う柔らかさを持っていて、

直哉は何かを言いかけて──やめた。


「……そろそろ寝るか」

「はい。今日は、楽しかったです」

「俺は疲れたけどな」

「それは幸福な疲労ですよ」

「どこでそんな言葉覚えたんだ……」


二人は並んで照明を落とした。

ベッドの上には、今日買った新品のシーツが広がっている。

アリサはそれを撫でながら、小さく囁いた。


「この布、柔らかいです」

「そりゃ、高かったからな」

「あなたにとっては、“守るための道具”ですか?」

「……まあ、そんなとこだ」


アリサはその答えに満足したのか、静かに横になった。

外では夜風がまた、ゆっくりとカーテンを揺らしている。


「直哉」

「ん?」

「居場所、少しわかった気がします」


直哉が振り向く前に、アリサの目はもう閉じられていた。

その寝顔の穏やかさに、彼は何も言えず、

ただ、静かに明かりを落とした。


──風の音と、二人の呼吸だけが、部屋を満たしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る