Ep.7

彼女はわずかに微笑んで、鏡――プレインズドーンの淡い光を背に立った。


「私がこちらの世界に戻ったことで、向こうで展開していた転移魔法システムは完了した。

 この世界は、あなたたちが切り拓いた“今の状態”で上書きされたわ」


「上書き……?」モブロックが首を傾げる。


「安心していいわ」

 クリス――白淵は、やさしく言葉を継いだ。

「私がこの世界に戻ってきた瞬間、確かなビジョンが見えたの」


その瞳は、以前の彼女とは違う、底知れぬ光を湛えていた。


「私の“先見の力”は、かつての私よりも遥かに高まっている……

 この世界の“未来”までも、少しだけ垣間見えたのよ」


「どういうこと……?」とモブロックが問う。


クリスはそっと瞳を閉じた。

その表情は穏やかで、けれど、どこか寂しげだった。


「私が見たビジョンでは、私たちは――影の怪物、昏人(クラウド)の大本を破壊していたわ。

 だから大丈夫。この世界は救える。いいえ――必ず救ってみせる」


そう言って彼女は微笑んだ。

その言葉に、私は胸の奥にわずかな温かさを感じた。

長い長い闘いの果てに、ようやく見えた「希望」。


「この世界のことは、もう大丈夫よ」

 クリスの声は柔らかかった。

「だから――安心して元の世界に帰っていいのよ」


「か、帰れるの!?」


「ええ、この世界を救ってくれて感謝しているわ」


モブロックが安堵の息をつくのがわかった。

「……帰れるんだな」と、小さくつぶやくその声に、私は微笑を浮かべ――そして、静かに首を振った。


「いいえ」


二人の視線が私に向く。


私はまっすぐ、彼らを見据えた。


「私は――この世界に残ります」


「えっ!?」

 モブロックが思わず声を上げる。


私はその驚きの表情を見ながら、胸の奥で覚悟を決めた。



「……理由を教えてもらえるかしら?」


クリスが静かに問いかけた。


私は一度、目を閉じ、深く息を整えた。

長く繰り返してきた日々の記憶が、静かな水面のように胸の底から広がっていく。


「私は――この世界で、何度もこの一月を繰り返しました」


その言葉を口にすると、これまで出会った人々の顔が思い浮かんだ。

絶望も、希望も、彼らの姿と共にあった。


「その中で、本当にたくさんの人たちに出会いました」


懐かしむように微笑みながら、私は一人ひとりの名を挙げていく。


「私を信じてくれたエーデルハルト公爵。

 剣を教えてくれたセドリック・モルデン。

 西辺のウィンザー家の人々。

 冒険者として共に戦ったカイル」


「……それに」


一拍置いて、私は息を飲む。


「私が――何度も手にかけてしまった、アレクシス」


モブロックが息を詰まらせる気配がした。

けれど私は、目を逸らさなかった。


「私は、あちらの世界で生きていた時間よりも、こちら側の世界で過ごした時間の方が長いのです」


言葉を静かに重ねながら、心の奥に灯る確信を確かめる。


「そして……もう一人、忘れてはいけない存在がいますわ」


クリスがわずかに眉をひそめる。


「それは、“本来のリリアナ”。この身体の、本当の持ち主です」


私は彼女たちを見渡しながら、まっすぐに言葉を放った。


「私は、この世界でリリアナ・フォン・エーデルハルトとして生きてきました。

 彼女の人生を借りて、彼女の名で歩んできた。

 だからこそ――この世界に残り、この世界を守りたいのです」


声が自然と強くなる。


「いつか彼女が戻ってきたとき、安心して暮らせるように。

 この国に生きる人々が、もう一度未来を信じられるように。

 そのために、私も共に戦わせてほしい」


そう告げると、胸の奥で静かな炎が灯るのを感じた。

それは迷いのない意志――

この世界を生きる、“リリアナ・フォン・エーデルハルト”としての決意だった。



クリスは静かに微笑み、私をまっすぐに見つめた。


「ありがとう」


その言葉は穏やかで――けれど、どこか切なさを含んでいた。


「私たちのこの世界を案じてくれて、本当に嬉しいわ」


少しだけ、胸が熱くなる。

私は思わず目をそらし、ほんの少し照れくさく笑った。


だが――そのとき。


クリスはゆっくりと首を横に振った。


「でも、それはできないの」


「……え?」


思わず問い返した。

彼女の声音には、拒絶というよりも、深い哀しみが滲んでいた。


「本当は気づいているのでしょう?」


その言葉に、私は息を呑む。


「あなたの心は、すでに元の世界……“日本”のあなたへと戻り始めているのよ」


「――っ!」


突然、視界が揺らいだ。

地面が波打つように歪み、体の輪郭がぼやけていく。


「モブロック……!?」


隣で、モブロックが膝をついていた。

「……っ、なんだ……これ……」


ふわりと身体が浮かぶような感覚。

意識がどこか遠くへ引き剝がされていく。


「あなたたちは――異邦人」


遠くで、クリスの声が響いた。

その声は、まるで夢の中で聞くように淡く、けれど確かに届いていた。


「この世界のことは、私たちに任せてちょうだい。

 きっと、この世界を救ってみせるから」


視界が白く滲む。

――悔しい。


ようやく、この世界に残る理由を見つけたのに。

ここで戦い続けようと決めたばかりだったのに。


だが。


私は唇を噛み、そして顔を上げた。


「……ふふっ」


自分でも驚くほど、自然に笑みがこぼれた。

いつものように、少しだけ挑発的に。


「仕方ありませんわね」


静かに息を吐き、私はクリスを見据えた。


「――せいぜい、うまくやってくださいな」


クリスが微笑み、そっと頷いた。

その表情は、かつて敵として対峙したときよりも、ずっと穏やかだった。


モブロックが霞む視界の中で私を見て、何かを言おうと口を開いた。

けれど、その声はもう届かない。


すべてが光に溶けていく。

形も、音も、時間も。


――そして私は、真っ白な光の中へと包まれていった。



白い光の中に、意識が漂っていた。


どこまでも続く、音のない世界。

温度も感覚もなく、ただ自分の存在だけが、ふわふわと浮かんでいる。


――そのとき、声がした。


「まったく……よくも人の身体を好き勝手に使ってくれましたわね」


その声を聞いた瞬間、僕はハッとして振り返った。


そこに立っていたのは――僕自身。

いや、本来のリリアナだった。


金髪の縦ロールが光を反射して揺れている。

華やかで整った顔立ち、青い瞳には、見事に「不機嫌」という感情が滲んでいた。


「……ああ、ついに出てきたか」


気づけば、僕は自然と、こちらに転移する前の口調に戻っていた。

もう“彼女”のふりをする必要はない。


リリアナ――本物の方が、少しあきれたように微笑んだ。


「こうして話すのは、はじめまして、ですわね」

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