Ep.7
彼女はわずかに微笑んで、鏡――プレインズドーンの淡い光を背に立った。
「私がこちらの世界に戻ったことで、向こうで展開していた転移魔法システムは完了した。
この世界は、あなたたちが切り拓いた“今の状態”で上書きされたわ」
「上書き……?」モブロックが首を傾げる。
「安心していいわ」
クリス――白淵は、やさしく言葉を継いだ。
「私がこの世界に戻ってきた瞬間、確かなビジョンが見えたの」
その瞳は、以前の彼女とは違う、底知れぬ光を湛えていた。
「私の“先見の力”は、かつての私よりも遥かに高まっている……
この世界の“未来”までも、少しだけ垣間見えたのよ」
「どういうこと……?」とモブロックが問う。
クリスはそっと瞳を閉じた。
その表情は穏やかで、けれど、どこか寂しげだった。
「私が見たビジョンでは、私たちは――影の怪物、昏人(クラウド)の大本を破壊していたわ。
だから大丈夫。この世界は救える。いいえ――必ず救ってみせる」
そう言って彼女は微笑んだ。
その言葉に、私は胸の奥にわずかな温かさを感じた。
長い長い闘いの果てに、ようやく見えた「希望」。
「この世界のことは、もう大丈夫よ」
クリスの声は柔らかかった。
「だから――安心して元の世界に帰っていいのよ」
「か、帰れるの!?」
「ええ、この世界を救ってくれて感謝しているわ」
モブロックが安堵の息をつくのがわかった。
「……帰れるんだな」と、小さくつぶやくその声に、私は微笑を浮かべ――そして、静かに首を振った。
「いいえ」
二人の視線が私に向く。
私はまっすぐ、彼らを見据えた。
「私は――この世界に残ります」
「えっ!?」
モブロックが思わず声を上げる。
私はその驚きの表情を見ながら、胸の奥で覚悟を決めた。
◇
「……理由を教えてもらえるかしら?」
クリスが静かに問いかけた。
私は一度、目を閉じ、深く息を整えた。
長く繰り返してきた日々の記憶が、静かな水面のように胸の底から広がっていく。
「私は――この世界で、何度もこの一月を繰り返しました」
その言葉を口にすると、これまで出会った人々の顔が思い浮かんだ。
絶望も、希望も、彼らの姿と共にあった。
「その中で、本当にたくさんの人たちに出会いました」
懐かしむように微笑みながら、私は一人ひとりの名を挙げていく。
「私を信じてくれたエーデルハルト公爵。
剣を教えてくれたセドリック・モルデン。
西辺のウィンザー家の人々。
冒険者として共に戦ったカイル」
「……それに」
一拍置いて、私は息を飲む。
「私が――何度も手にかけてしまった、アレクシス」
モブロックが息を詰まらせる気配がした。
けれど私は、目を逸らさなかった。
「私は、あちらの世界で生きていた時間よりも、こちら側の世界で過ごした時間の方が長いのです」
言葉を静かに重ねながら、心の奥に灯る確信を確かめる。
「そして……もう一人、忘れてはいけない存在がいますわ」
クリスがわずかに眉をひそめる。
「それは、“本来のリリアナ”。この身体の、本当の持ち主です」
私は彼女たちを見渡しながら、まっすぐに言葉を放った。
「私は、この世界でリリアナ・フォン・エーデルハルトとして生きてきました。
彼女の人生を借りて、彼女の名で歩んできた。
だからこそ――この世界に残り、この世界を守りたいのです」
声が自然と強くなる。
「いつか彼女が戻ってきたとき、安心して暮らせるように。
この国に生きる人々が、もう一度未来を信じられるように。
そのために、私も共に戦わせてほしい」
そう告げると、胸の奥で静かな炎が灯るのを感じた。
それは迷いのない意志――
この世界を生きる、“リリアナ・フォン・エーデルハルト”としての決意だった。
◇
クリスは静かに微笑み、私をまっすぐに見つめた。
「ありがとう」
その言葉は穏やかで――けれど、どこか切なさを含んでいた。
「私たちのこの世界を案じてくれて、本当に嬉しいわ」
少しだけ、胸が熱くなる。
私は思わず目をそらし、ほんの少し照れくさく笑った。
だが――そのとき。
クリスはゆっくりと首を横に振った。
「でも、それはできないの」
「……え?」
思わず問い返した。
彼女の声音には、拒絶というよりも、深い哀しみが滲んでいた。
「本当は気づいているのでしょう?」
その言葉に、私は息を呑む。
「あなたの心は、すでに元の世界……“日本”のあなたへと戻り始めているのよ」
「――っ!」
突然、視界が揺らいだ。
地面が波打つように歪み、体の輪郭がぼやけていく。
「モブロック……!?」
隣で、モブロックが膝をついていた。
「……っ、なんだ……これ……」
ふわりと身体が浮かぶような感覚。
意識がどこか遠くへ引き剝がされていく。
「あなたたちは――異邦人」
遠くで、クリスの声が響いた。
その声は、まるで夢の中で聞くように淡く、けれど確かに届いていた。
「この世界のことは、私たちに任せてちょうだい。
きっと、この世界を救ってみせるから」
視界が白く滲む。
――悔しい。
ようやく、この世界に残る理由を見つけたのに。
ここで戦い続けようと決めたばかりだったのに。
だが。
私は唇を噛み、そして顔を上げた。
「……ふふっ」
自分でも驚くほど、自然に笑みがこぼれた。
いつものように、少しだけ挑発的に。
「仕方ありませんわね」
静かに息を吐き、私はクリスを見据えた。
「――せいぜい、うまくやってくださいな」
クリスが微笑み、そっと頷いた。
その表情は、かつて敵として対峙したときよりも、ずっと穏やかだった。
モブロックが霞む視界の中で私を見て、何かを言おうと口を開いた。
けれど、その声はもう届かない。
すべてが光に溶けていく。
形も、音も、時間も。
――そして私は、真っ白な光の中へと包まれていった。
◇
白い光の中に、意識が漂っていた。
どこまでも続く、音のない世界。
温度も感覚もなく、ただ自分の存在だけが、ふわふわと浮かんでいる。
――そのとき、声がした。
「まったく……よくも人の身体を好き勝手に使ってくれましたわね」
その声を聞いた瞬間、僕はハッとして振り返った。
そこに立っていたのは――僕自身。
いや、本来のリリアナだった。
金髪の縦ロールが光を反射して揺れている。
華やかで整った顔立ち、青い瞳には、見事に「不機嫌」という感情が滲んでいた。
「……ああ、ついに出てきたか」
気づけば、僕は自然と、こちらに転移する前の口調に戻っていた。
もう“彼女”のふりをする必要はない。
リリアナ――本物の方が、少しあきれたように微笑んだ。
「こうして話すのは、はじめまして、ですわね」
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