第6話

 先輩の唇が震えていた。凛とした表情の崩壊を目にしたのは、これが初めてだったかもしれない。眉間に刻まれた皺と、拳を握る手の骨の白さが、動揺の深さを物語っていた。

「なんでって、先輩こそ……朝弱かったんじゃないんですか?」

 時計は十時半を指している。いつもなら寝床で二度寝を決め込むか、ようやく覚醒した体でハリボーのグミを無造作に口へ放り込んでいる時刻だ。

「ライのプログラムを調整したくて、珍しく早起きした。それより——君はライと何を話していたんだ」

 激昂も咆哮もない。ただ両の拳を握りしめ、私の目を真っ直ぐに見つめる。その瞳に宿るのは怒りではなく、恐怖だった。秘密が露呈する瞬間を目撃した者特有の、震えるような緊張。

 頬を伝う涙はまだ乾かない。目の奥が灼け、鼻腔が詰まったように重い。

「私、私……先輩のことが好きなのに。つらいんです」

 昂ぶる感情のまま、私は告げた。私にとってライは、マリという恋敵だった。生身ではなくプログラムされた存在でありながら、先輩の心を奪っている存在。それがどれほど理不尽で、どれほど哀しいことか。

 嗚咽が漏れた。我が子のように二人で育んだ彼女の正体が、あまりにも切なかったから。夏の朝の光が部室に差し込み、三人を照らす。窓から侵入する光の筋に、埃が舞っていた。

「知ったのか、マリのことを」

「はい……前から」

「そんな——」

 先輩の瞳孔が激しく揺れる。驚愕と羞恥が混じり合い、けれどどこか安堵の色も覗いていた。秘密という重荷から解放される、そんな表情。

 何秒の沈黙だっただろう。何時間にも感じられたその静寂は、私たちの頭を冷やすには十分だった。部室の扇風機の羽音だけが、静けさを破る。ライの内部から微かに聞こえる冷却ファンの音が重なった。

「先輩、話してほしいんです。本当のことを」

「本当の、こと?」

「多分……私に言えなかった、過去のこと。先輩の口から、ずっと聞きたかった」

 先輩の頬は紅潮し、額に汗が滲む。夏の暑さだけが理由ではないことは明白だった。その視線は私からライへ、そして床へと彷徨う。

 再び音が消えた。今度は、先輩が覚悟を決めるための時間として。窓の外から、校庭で朝練をする部活の掛け声が遠く聞こえる。日常が続いているという証明のような音。

「俺は、俺、は——」

 言いかけて、途切れる。私は少し後ろめたさを覚えた。押し付けるようで、無理やり過去を掘り起こすようで。先輩の喉仏が上下に動き、言葉を飲み込むのが見えた。

「コウ。もういいんだよ」

 不意にライが口を開いた。その声は、これまでよりも落ち着いて深みがある。まるで人間のように感情を湛えた声だった。

「ライ、お前……」

「放課後、ワタシとずっと話してるあなたが、とても楽しそうだった。でも、分かってきたの」

 そう言ってライは俯いた。髪のパーツが前に垂れ、瞳の光が薄暗く床を照らす。そのままライは私から離れ、先輩の元へ歩み寄る。かつてはすぐ倒れていた体を制御しながら、ゆっくりと。その足取りには決意が滲んでいた。

「分かってきた? どういうことだ、ライ」

 先輩は、ふらつくライに駆け寄り抱きしめる。長い指がライの背中でぎこちなく震えていた。それは、兄が妹を抱くようでもあり、恋人を抱くようでもあった。

「ワタシは、マリの偽物。ワタシはマリじゃないってこと」

 ライは全てを理解していた。それでもライは、マリを演じていた。先輩のために生まれたライは、先輩のために動作することを全うしていた。けれども、今のその言葉には自らの意志が宿っている。

「ライ、そうか。お前の自己学習型ニューラルネットワークはもうそこまで……ライ、駄目だ。お前はそれに気づくべきではなかった」

 先輩の動揺は明らかだった。声が裏返り、眉間の皺が深まる。普段の冷静さからは想像もつかない取り乱し方。額から流れる汗が首筋を伝い、白いシャツの襟元を濡らしていく。

「ライ……先輩……」

「お願いだから、君は今、黙っていてくれ」

 切迫した声に、私は言葉を飲み込んだ。心臓が早鐘を打ち、掌に汗が滲む。室内の湿度が一気に上がったようにも感じられた。窓からの風も止み、空気が淀む。

 先輩は、どこまで自分を過去に閉じ込めるつもりなのか。

「先輩、でも——」

「駄目だ。俺は、マリ以外の人間と生きる未来なんて、ありえない」

 そんな、そんなことない。胸の奥で小さな火が灯る。

「先輩!」

 叫んだ。不意に、心から。私の声は予想以上に大きく、部室中に響き渡る。その反響が、私の気持ちを増幅するかのように。

「先輩は、ずっと囚われてる。マリさんとの思い出に囚われて、苦しんでる。私はもう、先輩のそんな姿、見てられない……私だって、つらくなるから」

 言葉を発する度に、胸の内に溜まっていた感情が少しずつ解放されていく。涙が頬を伝い、肩が小刻みに震える。それでも、私は目を逸らさず、先輩の瞳を見つめた。

「君……俺にとってマリは、全てだったんだ。俺からマリを取ったら、何もない人間になる。何の取り柄もない、つまらない人間に」

 先輩の声が震える。その目には涙が浮かんでいるようにも見えた。いつも頼もしい先輩が、今は迷子の子供のように不安げな表情を浮かべている。

 ライは黙って聞いていたが、ゆっくりと一歩前に出た。スチール製の足が床にカタカタと音を立てる。関節が軋む音がしたが、それでもライは立ち続けた。

「コウ。そんなことない。あなたは、ロボットへの情熱をずっと絶やさずにきたじゃない。それに、ワタシも、コウがマリという過去にずっと留まっていることは、逆に苦しいだけだと思う」

「ライ、お前まで……」

「コウにとっては苦しいかもしれないけど、ワタシは、マリになれなかったの」

 ライのピンク色の瞳が輝きを増す。その声は柔らかく、けれども芯があった。

「先輩、もっと聞きたいんです。先輩の今の気持ちを」

 先輩は壁際まで後退り、そこで力なく腰を下ろした。肩が落ち、その姿は普段の凛々しさからかけ離れている。私とライは、少しだけ距離を置いて先輩を見つめた。

「俺は……マリとの別れがトラウマになっている。マリは、何の取り柄もない、社交性もない俺を好きになってくれた。学校でロボット工学の本を読む孤独な俺に、優しく話しかけてくれた。でも、彼女は、俺のロボット工学への情熱についていけなくなって、最後には『あなたはロボットの方が大事なのね』とだけ告げて去っていった」

 先輩は視線を落としたまま、ポツリポツリと話し始める。声は低く、時折途切れながらも、ずっと封印してきた感情が徐々に解放されていくようだった。

「だからライを作った。新たなマリとして。マリと同じ母音を持つ、未来のマリと呼ぶべき存在として。たった一人、俺を愛してくれた、認めてくれた存在として」

 袖で拭われた涙の跡が頬に残る。それは彼の脆さの証明であり、同時に彼の人間らしさの証明でもあった。

「あれから俺は……過去に縛られたまま生きてきた。でも、初めはマリへの未練から始まったこのプロジェクトも、アミが来てから、少しずつ変わり始めたんだ」

 先輩が私を見つめる。その目には、これまで見たことのない優しい光が宿っていた。

「君は何も知らないのに一生懸命勉強して、いつも笑顔で部室に来てくれた。君の存在が、俺の現在を作ってくれた」

 先輩の言葉に、心臓が高鳴る。頬が熱を帯びるのを感じた。

「でも、怖かったんだ。また誰かを好きになって、また傷つくことが。だからいつも一定の距離を保とうとした。それなのに、昨日のカフェで君があんなことを言うから混乱した。だから朝早く来たんだ。本当はライと話したかった」

 ライはゆっくりと先輩の隣に腰を下ろす。人間のような仕草で、先輩の肩に手を置いた。

「コウは、マリのことを忘れる必要はないの。でも、マリだけが全てじゃないよ。ワタシは、コウの作ったAIとして、それをよく知っている。あなたには、未来を見る目も必要なんだよ」

 私は思い切って、先輩とライの前に膝をついた。三人でこうして向き合うのは初めてのことだった。

「先輩、私はライをライとして好きになりました。マリさんの代わりでもなく、ただのロボットでもなく、ライという一人の存在として」

 言葉を選びながら、私は続ける。

「そして、私は先輩も好きです。過去に囚われている先輩も、未来に向かおうとしている先輩も、すべてひっくるめて。だから、もう一度聞かせてください。先輩の気持ちを」

 扇風機の風が三人の間を通り抜け、わずかに空気を動かす。先輩はゆっくりと顔を上げ、天井を見上げた。

「俺は、まだ自分の気持ちが整理できていない。でも一つだけ確かなことがある」

 先輩は立ち上がり、足元のふらつきを堪えながら、私の前に立った。

「俺は……アミ、君を大切に思っている。それは、友達以上の感情だ。でも、今はまだ、俺自身がしっかりしないと、君を傷つけてしまう」

 その言葉は、拒絶でも受容でもなかった。ただ一歩を踏み出そうとする、その瞬間の意志だった。

「大丈夫です。私はもう……全部知ってますし。何よりも、先輩とこの部活を楽しんでいたいですから」

「そうか。まあ確かに、そうだな」

 私に呼応するように、先輩は顔を上げて笑みを浮かべた。こんな表情は、久しぶりに見たかもしれない。

 静かで優しい声が、第二理科室に反響する。

 私たちは、手を繋いでいた。いつからかは分からない。気づいたら、触れ合っていた。

 冷たいはずのライの体が、温かくなっている。

 蝉の声とモーター音が、混ざって鳴っていた。

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