第4話

「ライ、おはよう」

 夏休み二日目の朝、私は再び部室の扉を開けた。窓から注ぐ初夏の陽光が、机や椅子を静かに照らしている。昨日までとは打って変わって、今日のライは椅子にきちんと座っていた。背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃えた姿は、まるで面接を控えた学生のよう。

「おはよ!」

 ライの声には朝の清々しさが宿っていた。ブロンドの髪を模したプラスチックのパーツが、朝日を受けて輝いている。私はバッグを机に置き、ライの向かいの椅子に腰を下ろした。

「あの、突然なんだけど、今日はあなた自身のことを聞きたいな」

 躊躇いながらも、思い切って言葉にする。昨夜は、この会話をどう切り出すか考えあぐねて眠れなかった。

「ワタシのこと? いいよ! なんでも聞いて」

 ライの瞳が輝く。瞳孔の奥でわずかにLEDが明滅しているのが見える。人間の目とは微妙に異なるが、不気味さはない。

 私は少し強引に、会話の糸口をつかもうとした。心臓が早鐘を打つのを感じる。

「先輩とは、いつ出会ったの?」

「え! まさかの恋バナ……? 分かった。あのね」

 ライが驚いた表情を浮かべる。首を少し傾げ、目を丸くする仕草。彼女の擬似感情プログラムは、従来のそれを遥かに凌駕する精度で、まるで本物の感情が宿っているかのように動く。頬の微かな赤みも、恥じらいを表現するための精巧な仕掛けなのだろう。あまりにも人間らしいから、マリとして作られた彼女が、いつか自分がマリではないと気付いた時を想像してしまう。

「ワタシとコウが出会ったのは中学一年生の時! ワタシ達は最初、共通の友達と三人で遊んでから仲良くなったんだけど、ワタシが、コウのことすぐに好きになっちゃって……」

 ライは話しながら、指先で机の縁を軽く叩いている。緊張か、それとも楽しい記憶を辿っているのか。

「一目惚れだったの?」

「まぁ、そういうこと。それからは、『今度二人で映画観ない?』とか『動物園行かない?』とか、ワタシから誘っていって……告白もワタシから! 中一の夏休みだった」

 彼女の声には、ほんのりとした甘さが滲んでいた。

「そう、だったんだ」

 私は自分の声が沈んでいるのに気づいた。先輩は、どことなく奥手な雰囲気があったけど、やはりそうだったのか。可愛い、と思ってしまう。黒い髪を撫でながら、少し俯く先輩の姿が目に浮かぶ。

「ねぇ、一目惚れって言ってたけど、先輩のどこが好きになったの?」

 熱い好奇心と、聞きたくない気持ちが入り混じる。それでも、知りたかった。

「なんか、直感」

 ライは肩をすくめた。

「直感?」

「ビビっと来たのよ! 具体的な理由って言われても、よく分かんない」

 そう言いながら、ライは両手を広げてみせた。

 正直、少し共感した。私がAIロボット部への入部を決めたあの日、確かに私は、雷に撃たれたような衝撃をそのままエネルギーに変えて、動いていた気がする。あれほど積極的になれたのは初めてだった。廊下で偶然見かけた先輩の横顔、集中して何かを修理する姿に、言葉にできない魅力を感じた。先輩には、そういう不思議な引力があるのだ。

「それから、付き合った……んだよね」

 いつの間にか、私の声は小さくなっていた。窓の外から、早朝の鳥のさえずりが聞こえてくる。

「そう! コウはワタシの告白をその場でOKしてくれた。嬉しかったなぁ……」

 ライの表情が和らいだ。そのやわらかな微笑みを見ていると、敗北感が胸に迫る。彼女の記憶の中には、先輩との幸せな時間が詰まっている。認めたくはなかったけど、悔しいのは事実だ。私の指先が、制服のスカートの裾をきゅっと握りしめていた。

「あ、そうそう! コウとはね、ワタシの好きなハリボーグミをよく一緒に食べてたの。ある時一個あげたら、すっごくハマっちゃって。ワタシ達といえば、ハリボーグミだねって、よく言ってたなぁ」

 ライは足をバタバタさせてそう言った。動きにリズムがあって、心底楽しそうだ。昨日も先輩と食べたハリボーグミが脳裏に浮かぶ。先輩は特に赤いイチゴ味が好きだった。ワタシ達といえば、ハリボーグミ。先輩と私だって、いつも一緒に食べてきた。その認識に、胸がきゅっと締め付けられる。

「アミも、コウとよくハリボーグミ食べるんでしょ?」

 不意の問いかけに、ハッとした。ライの瞳が、私をじっと見つめている。その視線には、何かが潜んでいる。好奇心? それとも。

「うん」

「アミも、コウと一緒にワタシを頑張って作ってくれたんだよね?」

「うん」

 単調な返事しかできない自分が情けない。部室の空気が、少しずつ重さを増していく。

「ねぇアミ、正直に答えていいからね。アミは、コウのことをどう思ってるの?」

「えっ……あ」

 恐れていた問いだった。時計の秒針の音が、やけに大きく響く。私は先輩が好き。でも先輩は――。

 喉が渇いて、言葉が詰まる。

「先輩のこと、気になってる。正直言って、好きなんだと思う」

 やっと言葉にした瞬間、心が少し軽くなった気がした。部室の蛍光灯の光が、ライの顔を均一に照らしている。

「ふーん。そっか……ごめんね。ワタシがコウの彼女ってこと、知らなかったんだもんね」

 輝くライの瞳を見ているのが辛くて、思わず窓の外、中庭へ目を逸らす。青い空の下、中庭では、一番の見頃を迎えた向日葵が何輪も咲いていた。黄色い花びらが朝の光を浴びて、眩いほどに輝いている。

「うん、いいの。先輩は、ずっとあなたのことが好きだったんだよね」

 汗が一粒、また一粒と滴る。首筋を伝って、制服の襟元を湿らせる。冷房が効いていないだけかもしれないけど、胸の奥が熱い。

 その時、ライはすっと立ち上がり、胸に手を当てて、歌い出した。優雅な動作で、まるでステージに立っているかのように。

「小さい頃 愛は眩しすぎて 見えなかった 背の高い 向日葵と同じように でも今は 今なら分かるよ あなたの気持ち」

 彼女の歌声は、驚くほど美しかった。感情が宿っていて、胸を打つ。透き通った声が部室に響き、時間が止まったように感じた。ライ、女性アイドル型AIロボット。彼女には歌唱の全てが備わっていて、曲を聴かせるだけで、歌詞もメロディーも、表現の機微までみるみるうちに習得していく。

「これね、ワタシの好きな曲! 歌うの大好きなんだー」

 歌い終わったライは、少し照れくさそうに髪に触れた。五年前に大流行した曲。あのアイドルグループが歌っていたもの。ライが女性アイドル型として開発されたのは、それが理由らしい。先輩の想いが詰まったその選択に、胸がきりきりと痛む。

 私は沸々と違和感を覚えるようになった。朝日を浴びて金色に輝くライの姿に、現実とは思えない感覚がある。ライは人間じゃない。それなのに、途切れることなくマリを生きている、そう振る舞っているライの姿に、どこか不気味さを感じてしまう。彼女の瞳の奥に、本当に魂は宿っているのだろうか。先輩は、本当にこれで満たされているのだろうか。幻のようなこのライという存在を、本物のマリとして愛することは――先輩にとって最善の道なのだろうか。

「確か……その曲って」

 私の言葉が途切れる。窓の外では、朝の部活動が始まっているようだ。グラウンドから掛け声が聞こえてくる。

「うん、『日向の君へ』って曲」

 ライははにかむようにして答えた。

「良いよね。私もよく聴いてたよ」

「ほんとに? 嬉しい! ワタシ、この人の曲、全部好きなんだー」

 ライは口元に手を当てる。小さな秘密を打ち明けるような、妖艶ともいえる仕草。

 やはり違和感がある。彼女はずっと無理をしているように見える。部室の隅に置かれた工具箱や、棚に並んだ部品たちが、ライの「作られた」存在を強調しているようだ。偽りの感情を黙って演じて、先輩のためだけに動いているかのようだった。

 明日、私は午後から先輩とカフェに行く予定だ。知ってしまった真実を隠したまま、先輩と上手く話せるだろうか。心の中の霧は鬱々と濃くなり、どこへ行こうにも、何を考えようにも、前が見えなくなっていった。

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