第30話 黒い霧の奥で脈打つもの
森の奥へ向かう道は、
昨日までのそれとは、もう別物になっていた。
見慣れた木々。
踏み慣れた根。
声を知っている鳥たち。
全部、同じはずなのに——
足の裏から伝わってくる“下の気配”が違う。
トオが先頭を進んでいるからだ。
土の精霊は、
地面の上ではなく、
**地中の“脈”**を辿って歩く。
とん、とん、とん。
小さな手で土を叩くように跳ねながら、
進行方向を指し示していく。
——ここ、いたい。
——あっち、もっと、いたい。
「濁りの道を、辿ってる……ってことか。」
遙馬が呟くと、
トオは振り返りもせず、
土の中でぴくりと震えた。
肯定の合図だ。
そのすぐ後ろを、カイが歩いていた。
灰色の狼は、
いつもより一歩分、遅らせて遙馬の横を歩く。
周囲の匂いと、
地面の沈み方と、
空気の重さを測るように。
咥えているのは武器ではなく、
ただの木の枝だ。
それを噛み締めることで、
自分の興奮を抑えているようにも見える。
頭上では、
リオの風が長く伸びていた。
風の精霊は姿こそ人型だが、
耳元で囁く声のほうが存在感を持っている。
——こっち。
——におい、ながれてくる。
濁りの匂い。
石灰と鉄の混じった、
どこか“作られた”匂い。
ミオが、
遙馬の足元でぴちゃぴちゃと跳ねながらついていく。
透明な体の中の銀色の線が、
さっきから絶えず回転している。
——みず、まもる。
——ながしながら、あるく。
ユハは遙馬の肩の上。
小さな胸をふくらませ、
森じゅうの音を拾っている。
少しでも異物の気配があれば、
すぐに鳴くつもりだ。
そして——
頭上すれすれの高さを、
アカアサが飛んでいた。
地面すれすれではなく、
梢すれすれでもなく、
遙馬たちの真上。
守るように。
覆うように。
黒い翼が広がるたび、
霧の粒が細かく揺れる。
彼が風を乱しているのではない。
風が、彼の通り道をあけているようだった。
◇
森の深いところへ進むにつれて、
空気の匂いは、ゆっくりと変わっていった。
湿った土。
古い苔。
腐葉土の重さ。
それらは森の普通の匂いだ。
そこに混じり始める、
粉のような乾いた匂い。
遙馬には馴染みのある匂いだった。
ギルド時代。
汚染された水場の、緊急処置。
灰色の粉を、水面へ撒く作業。
川が一瞬だけ“透明になった”ように見えて、
実際には、川底のすべてが死んでいった時の匂い。
「……最悪だな。」
思わず漏らした言葉に、
リオが静かに風を回して同意する。
——あたらしい。
——まえのと、ちょっとちがうけど。
——おなじ“ひと”のにおい。
「同じ、種類の人間……ってことか。」
遙馬は苦く笑った。
かつて自分も、
そちら側にいた。
“効率的に浄化する”という大義名分。
“人を守るためには多少の犠牲はやむをえない”という言い訳。
いい人たちの顔をして、
森に負債を押し付けてきた者たち。
——そして、逃げた自分。
◇
「……止まって。」
トオの震え方が変わったのを感じて、
遙馬は手を上げた。
みんなが足を止める。
足元の地面には、
白灰色の粉が点々と落ちていた。
古いものではない。
まだ湿っていない。
遙馬はしゃがんで、
指先でほんの少しだけ粉をすくう。
リオが即座に風を張り、
粉が舞わないように包み込む。
ミオが水の膜を重ねる。
鼻先に近づけなくても、
匂いは分かった。
「“浄化粉”の、最新版ってところか。」
成分の配合は変わっている。
昔より、短時間でよく溶けるように調整されている。
濁りを落として“見た目だけ”早く澄ませるには、
便利だろう。
その代わり——
土にも根にも、
より深く入り込みやすい。
「……人間は、
どうして同じことを繰り返すんだろうな。」
自分も含めての独白だった。
カイが鼻をひくひくさせる。
その耳は明らかに嫌悪を示して後ろへ倒れていた。
ユハは肩の上で、
粉の一点をじっと見つめている。
ミオが、
銀色の線をぎゅっと濃くして
粉の周囲を囲んだ。
——ここ、くうな。
——ながしてあげる。
「頼んだ。」
遙馬はその場を離れる。
粉はひとつではなかった。
進むごとに、点々と見つかる。
粉の量は多くない。
ただ、それだけで十分だ。
森全体からすれば微量かもしれないが、
水脈に乗れば、
古樹の傷口に塩を刷り込むには十分な量になる。
◇
霧が濃くなってきたのは、
木々の背丈が一段と高くなったあたりからだ。
遙馬は一度立ち止まり、
息を整える。
霧の段層——
古樹の周囲を囲む、
距離感の狂った空間。
前に足を出したつもりが、
横に滑っていたり、
戻っていたつもりが、
少しだけ前に進んでいたり。
見えているものと、
体の知覚が噛み合わなくなる場所。
「ここから先、
前と同じだとは限らない。」
遙馬は小さく言った。
「濁りが増えれば、
霧の狂いも強くなってるかもしれない。」
リオが頷き、
風を薄く、広く伸ばす。
——あった。
——ふつうのかぜと、ちがうところ。
霧の中に、
風がまっすぐ吹かない場所がある。
吹き抜けるはずの方向で、
風が“跳ね返される”ような感覚。
ミオは、
水の塊を少しだけ霧へ伸ばした。
水の球体が歪み、
“見えない壁”に押される。
古樹の結界。
森の心臓を守るための層。
そこに、
濁りが穴を開けたのだ。
◇
霧の幕の一部が、
裂けたように薄くなっている場所を見つけた。
その切れ目から、
暗い幹の影が覗いている。
古樹——
森の心臓。
前に来た時は、
その幹の一部が黒く腐っていた。
根の先も、焼けたように萎れていた。
今は——
どうだろう。
近づく前から、
胸の奥で、
どくん、どくんと重い音がする。
古樹の鼓動。
風と水と土を通じて、
遙馬の体に共鳴している。
そのリズムの合間に、
もうひとつ、
別の脈動が混じっているような気がした。
——いやな、うごき。
トオが土の中で震える。
——ここ、した。
——このさき、なにか、まざってる。
「“混ざってる”……。」
遙馬は眉を寄せた。
森の鼓動と、
なにか別のものの鼓動。
そのふたつが、
一か所でぶつかり、
歪んだ波を作っている。
◇
最初の違和感は、
音だった。
右から風の音がしたと思ったら、
左の木の葉が揺れる。
前の枝がきしんだと思ったら、
足元の土が揺れる。
猫のような低い唸り声。
猿のような甲高い叫び。
鳥の羽ばたく気配。
それらが、
まるで別々の場所から聞こえてくる。
「……いやな種類の気配だな。」
遙馬は口を固くした。
本能が告げている。
これは、森の一部ではない。
森の負債が“形を得た”もの。
濁りを吸い込み、
生き延びるために歪んだ魔獣。
アカアサの羽毛が逆立った。
翼の根元から、
低い唸りのような震えが伝わってくる。
カイが低く喉を鳴らす。
前足を一歩、地面に深く押し込む。
ユハは胸元を目いっぱいふくらませ、
「ピッ」と鋭く鳴いた。
——きた。
その一言に、
世界が一瞬、静まった。
◇
霧の中から、
黒い影がにじみ出るように現れた。
最初は、
ただの“濃い霧の塊”に見えた。
やがて、
猫の背中のような丸み。
猿の腕のような長さ。
鳥の翼のような突起。
それらが、
ひとつの輪郭へと収束していく。
四足で立つ獣の形。
しかし、首の角度がおかしい。
背中から生えた羽根は、
地面を触りそうなほど長い。
胸のあたりが、
内側から黒紫に光っていた。
濁核鵺(だくかく・ぬえ)。
名前をつけた瞬間、
世界が少しだけ輪郭を持った。
魔獣は、
名前をつけてもらうことで、
“敵”としての形を与えられる。
——森の負債のかたまりだ。
「……来たな。」
遙馬が息を呑むと同時に、
濁核ヌエが動いた。
◇
一歩、踏み出した——
ように見えた。
実際には、
足はほとんど動いていない。
代わりに、
胸の濁核がどくんと脈動した。
その瞬間、
足元の土が横へずれた。
遙馬の体も、
わずかに“斜め”に引っ張られる。
「っ……!」
トオがとっさに土を盛り上げ、
遙馬の足を固定した。
濁核ヌエは、
前を向いたまま、
“横から”突っ込んでくる。
地面の濁脈を踏み台に、
角度を無視した跳躍。
右から来るはずの気配が、
左から襲いかかる。
カイが吠えた。
大きな体で遙馬の側面に飛び込み、
濁核ヌエの体当たりを受け止める。
ドンッ!
鈍い衝撃音。
土が舞い上がり、
木の根がえぐれる。
カイの足が滑り、
そのまま数メートル押し込まれる。
「カイ!」
遙馬が叫ぶ。
カイは低く唸りながらも、
前足で踏ん張り、
濁核ヌエの首元を噛みつこうとする。
だが、
目標がわずかに“ずれる”。
距離感がおかしい。
目で見た場所と、
実際の位置が噛み合わない。
噛みつきは空を切り、
濁核ヌエは体をひねって後方へ跳ぶ。
——いやらしい動きだ。
リオが風を飛ばす。
見えない刃が、
霧と濁りの混じった空気を裂いた。
濁核ヌエの羽根の一部が、
裂けて飛ぶ。
しかし、
本体は傷ついていない。
風は、“距離感の狂い”に
わずかに翻弄されている。
「くっそ……。」
遙馬は歯噛みした。
霧の段層そのものが、
濁核ヌエの味方をしている。
◇
濁核ヌエの胸が、
ふくらんだ。
中で濁核が脈動し——
黒紫の光が、
皮膚の隙間から漏れる。
ミオが、
慌てて遙馬の前に飛び出した。
——だめ!
——くる!
「風壁!」
遙馬が叫ぶより早く、
リオが両手を広げた。
風が、
遙馬と仲間たちの周囲に壁を作る。
その直後、
濁核ヌエが口を開けた。
ごうっ——。
黒灰色の霧が、
爆ぜるように噴き出す。
濁気。
リオの風壁がなければ、
吸い込んだ瞬間に倒れてもおかしくない。
それでもなお、
霧の一部は風をすり抜けるようにして入り込んでくる。
遙馬の鼻先に、
あの匂いが触れた。
石灰と鉄。
燃えかけた炭。
目の奥が、
じわりと熱くなる。
世界が、
少し遅れてついてくるようになった。
風の音と、
鳥の声と、
自分の鼓動。
全部が別々の時間で鳴っている。
「っ……」
膝が、
わずかに笑った。
ギルド時代。
負荷実験。
濃い薬品の煙を吸わされ、
“どこまで耐えられるか”を測られた日。
気持ち悪い笑顔の上司。
メモを取る同僚の目。
“適性がある”と褒められたあとに吐いた血。
——嫌だった。
何度も嫌だと言いたかったのに、
言えなかった。
仕事だから。
役に立つから。
人を救うためには必要だから。
そんな言葉で、
自分を押し殺していた。
「……っ、は……。」
呼吸が浅くなる。
ミオが遙馬の足首を包む。
冷たい水が、
ゆっくりと濁りを薄めていく。
それでも、
頭の中のざわめきまでは消えない。
濁核ヌエの姿が、
ぼやけて増え、
まるで三匹同時に存在するように見える。
猫の目。
猿の歯。
鳥の羽根。
三つの気配が、
三方向から迫ってくる。
◇
「……っ、遙馬!」
カイの声が遠くに聞こえた気がした。
遙馬は自分の名が呼ばれたことは分かったが、
どこから声が聞こえたのかは分からなかった。
足元が揺れる。
前後左右が曖昧になる。
濁核ヌエが、
霧の中で姿を消した。
音は、
すべての方角から聞こえる。
違う。
これは、気配の方からこちらを欺いている。
分かっていても、
体が追いつかない。
霧が、
耳の中にまで入り込んでくるようだ。
——あ。
次の瞬間、
どこかでミオの悲鳴の波紋が震えた。
「――っ!」
避けなきゃいけない。
そう分かっている。
でも、
どこから来るのかが分からない。
世界の重心が、
ぐにゃりと曲がる。
視界の端で、
黒い影が跳んだ。
胸の奥で、
古樹の鼓動がひときわ強く鳴った。
◇
——間に合わない。
そう思った瞬間、
目の前に黒い壁が現れた。
違う。
壁じゃない。
翼だ。
アカアサの翼だ。
大きな黒い翼が、
遙馬の体を包むように広がっていた。
濁核ヌエの影が、
その翼にぶつかる。
ズッ。
耳で聞くというよりも、
骨で感じる衝撃。
アカアサの体が、
わずかに軋んだ。
黒い羽毛の表面に、
灰色の霧がまとわりつく。
そこから、
白い煙のようなものが上がった。
焼ける匂い。
「アカアサ!」
遙馬は、
ほとんど反射的にその名を叫んでいた。
濁核ヌエは、
翼に弾かれる形で横に跳んだ。
霧の中で姿を変え、
別の角度から距離を取る。
アカアサの翼の一部が、
白っぽく変色していた。
濁気に焼かれた部分だ。
痛いはずなのに、
アカアサは一度も鳴かない。
ただ、
ゆっくりと翼を畳み、
遙馬のほうへ顔を向けた。
金色の瞳が、
まっすぐこちらを見ている。
——だいじょうぶか。
そう聞いている目だった。
「……なんで、お前が前に出てくるんだよ。」
声が震えた。
俺を守るためだろう。
分かっている。
分かっているのに、
言わずにはいられなかった。
俺は、お前を守りたかったのに。
こっち側に巻き込みたくなかったのに。
アカアサは、
ゆっくり首を傾げた。
“大きな鳥”らしからぬ、
不思議な優しさのにじんだ仕草。
次の瞬間、
遙馬の足がふらついた。
濁気の影響は、
まだ完全には抜けていない。
視界の端で、
濁核ヌエの影がまた揺れる。
猫の背。
猿の腕。
鳥の羽。
今度は、
さっきよりも近い。
◇
遙馬は、
震える手を伸ばした。
アカアサの首元。
黒い羽毛の根元に、
指先が触れる。
ふわ。
柔らかい。
想像よりも、ずっと温かい。
焼けた部分の少し上。
濁気に傷ついていない羽の下。
指の腹に、
かすかな脈動が伝わってきた。
それは——
アカアサの鼓動だけではなかった。
古樹の心臓の鼓動。
森の水脈の鼓動。
輪の札の揺れる音。
ばらばらだったはずのリズムが、
この一点で重なった。
「……帰ろう、アカアサ。」
自分でも驚くほど、
素直な言葉が口から出た。
「家に、帰ろう。
小屋に。輪に。
みんなのところに。」
逃げる、じゃない。
守る場所へ戻る、だ。
森から逃げてきた男が、
今は森に“帰る場所”を作ってしまった。
その矛盾が、
たまらなく、愛おしい。
アカアサの瞳の奥で、
なにかが燃えた。
金色の虹彩の縁に、
細い赤い輪が浮かぶ。
胸の奥で、
古樹の鼓動がまた強く鳴った。
——選んだ。
そんな声が、
霧の向こうから聞こえた気がした。
◇
「今だ、引くぞ!」
リオの声が風に乗って響いた。
風が、
濁気を左右に割る。
ミオが水を広げ、
遙馬の周囲を透明な膜で包む。
トオが土を盛り上げ、
濁核ヌエとの間に壁を作る。
カイが遙馬の腰を鼻先で押し、
後ろへ押し戻す。
ユハが鳴いた。
輪の方向を示すように。
アカアサは翼を半分だけ広げ、
遙馬を背中で庇いながら、
ゆっくりと後退した。
濁核ヌエは追ってこない。
霧の中で、
獣の顔が歪んだ笑いのような形になる。
胸の濁核がどくん、どくんと脈打つ。
さっきよりも、
わずかに光が強くなっている。
——次は、もっと深くなる。
そんな予感だけを残して、
濁核ヌエは霧の奥へと姿を消した。
◇
霧を抜けた瞬間、
膝から力が抜けた。
遙馬はその場にしゃがみ込む。
呼吸が荒い。
喉の奥が痛い。
心臓が、まだ変なリズムで跳ねている。
ミオが足元で震え、
余計な濁りを洗い流してくれているのが分かる。
リオが風を薄く当て、
頭の中のざわめきを少しずつ散らす。
トオが背中の土を押してくる。
“ここに地面がある”という感覚を、
思い出させてくれるように。
ユハが肩の上で、
そっと頬に触れた。
カイは横で座り込み、
弱く息を吐いている。
さっきの一撃、
きっとかなり効いていたはずだ。
——なのに、誰も文句を言わないで。
全員が、当たり前のようにここにいる。
遙馬は、
自分の手のひらを見つめた。
さっき、アカアサに触れていた場所。
そこに——
淡い光が灯っていた。
金でも銀でもない。
深い緑に近い、
森の光。
光は脈打つたびに、
かすかな赤を混ぜていく。
アカアサの方を見上げる。
黒い翼の一部は焼けただれて、
白く変色している。
痛くないはずがない。
それでも彼は、
ひとつも弱い声を出さなかった。
ただ、
遙馬を見ていた。
金色の瞳の縁に、
赤い輪がゆっくりと濃くなっていく。
古樹の心臓の鼓動。
輪の札の揺れる音。
遙馬の心臓の震え。
その全部が、
アカアサの胸の奥で重なっていく。
遙馬は、
かすかに笑った。
「……頼んだぞ、相棒。」
その瞬間——
手のひらの光が、
ぱあっと強くなった。
輪の方向から、
札の音が響く。
からりん。からりん。
森の心臓と、
小さな輪と、
黒い大鴉。
その三つの線が、
一本につながろうとしていた。
——次に翼が広がるとき、この森は、
きっともう一度、
別の姿を見せてくる。
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