第10話 境界の朝——“試し”と黒翼の立ち姿

 朝は、白かった。

 色を持つ前の光が、森の葉の裏をたしかめるように撫でていく。

 露はまだ落ちず、鳥たちの囀りも短い。

 息を吸えば、土の湿りと、遠い水脈の甘い匂いが肺の底に降りてくる。


 ここが、境界になる。


 遙馬は、昨夜と同じように“前庭”へ足を置いた。

 枝は折らない。落ちていたものを、ただ立ち方がわかるように置き直す。

 苔は剥がさない。踏み跡は、風の通り道に合わせて細く曲げる。

 森に傷をつけず、しかしここからが森の内だと誰にでもわかる印。

 アカアサは、前へ出る。

 翼は半ば。喉は柔らかい。

 威嚇ではない。**“立ち姿”**という、たったひとつの答え。


 風が、一度だけ浅く動いた。

 葉の裏がさらと鳴り、露の粒がきらりと返る。


 来る。


 皮の乾いた匂い、油の薄い重さ、刃に塗られた樹脂の甘い残り香。

 森の外の匂いが、白い朝に線を引く。


「……アカアサ。」


 呼びかけると、黒い瞳がこちらを映した。

 遙馬は頷く。

 一緒にいる。

 それだけを確かめる。


 足音は三つ。

 手前で二つが止まり、ひとつが半歩だけ前へ出た。

 影が、木の間の白に切り抜かれ、輪郭を持つ。


「……おはよう。」


 遙馬が言うと、前へ出た影が答えた。


「朝のご挨拶だ。森の人。」


 ガランだった。

 猟兵頭の男は、斧を背に、手は空のまま。

 左右に若い猟師が二人。

 彼らの目は鋭いが、むやみに荒れてはいない。

 “試し”に来た目だ。


「ここが、お前たちの境だと、そう見せたいのだろう?」


 ガランは言い、足下の枝を見た。

 踏まなかった。

 少しだけ斜めに立ち、風を受ける角度に体を合わせた。

 森を知らぬ者の立ち方ではない。


「俺は、話せるなら話したい。」


 遙馬は真っすぐ言う。

 嘘は混ぜない。混ぜれば、風が乱れる。


「だが、話す前に確かめたいことがある。」

 ガランは、わずかに首を上げ、アカアサを見る。

 紅が光の底で揺れた。


「黒紅の翼。お前は、いまここに立っている。

 均衡の名を名乗るなら、森と人との“境”を立たせることはできるか?」


 アカアサは、喉を低く鳴らした。

 カァ……

 威圧ではない。了解の音。


 遙馬は、小さく息を整える。

 昨日までの稽古の全部が、ここで一歩の形になる。


「やってみよう。……少しだけだ。」


 アカアサは一度、羽根を伏せ、背を弓のように撓(しな)らせる。

 呼吸が、遙馬の胸の奥と、アカアサの胸郭を見えない紐で結んだ。

 吸う。吐く。吸う。

 背の“面”が、音を立てずに起きる。

 葉のいちばん薄いところから始まる震えを、背で受け、翼の表で撫で返す。


 ふわ。


 風が生まれた。

 乱さない。起こさない。

 森の浅い層流を少しだけ太らせる。

 前庭の枝が同じ方向へ揃い、露が枝の先に寄って重さを持つ。


 ガランの片眉がわずかに上がる。

 左右の猟師が、無言で足の重心を変えた。

 押し出されていない。

 ただ、境の形が見える。


「……たしかに“立って”いるな。」

 ガランは低く言った。


「森の内側に風が集まり、外側は流れが浅い。

 境が曖昧ではないという、物言わぬ印だ。」


 遙馬は、胸の奥で強く呼吸を吐く。

 まだだ。これで十分だ。

 アカアサの羽根は“面”を保ったまま、喉だけを柔らかく保っている。

 やりすぎれば、風は“押し”になる。

 押しは、戦いの始まりだ。


「改めて名乗る。」

 ガランが一歩だけ前へ。

 境の手前、白い朝と緑の濃さのその継ぎ目で足を止める。


「この村の猟兵頭、ガラン。

 俺は、奪いに来たのではない。

 守るために“試す”。」


 遙馬は頷き、同じように言葉を置く。


「俺は、遙馬。

 ここでアカアサと生きている。

 俺も、守りたい。

 生きたい場所を、守るために立っている。」


 言葉はそこで止めた。

 説明を重ねない。

 森の空気に、言葉は少ないほどいい。



「……ならば、二つ確かめたい。」

 ガランは指を二本立てた。


「一つ。

 黒紅の翼は、怒らずに“止める”ことができるか。

 人が境を越えようとしたとき、血を流さず、しかし踏ませない技量を持つか。」


 遙馬は、アカアサと目を合わせる。

 喉の奥で、コロと短い返事。

 できる。

 昨日までの稽古は、そのためにやってきた。


「二つ。

 黒紅の翼は、風で“返す”ことができるか。

 押し退けるのではない。

 **帰るべき場所に“戻す”**風を。」


 遙馬の腹の奥で、重い鐘が鳴った気がした。

 戻す風。

 “追い払う風”ではない。

 帰れるように返す風。

 あの大鴉が見せた着地の“無音”と同じ、暴力のない作用。


「受ける者が壊れない風で、境を保てるなら……」

 ガランはそこで言葉を切り、斧の柄へ視線だけを落とした。

「俺は、刃を動かさない。」


 遙馬は頷いた。

 風に体を委ねるための、短い祈りのような頷きだった。


「いくぞ、アカアサ。」


 アカアサは翼を半ば。

 背中の面が、朝の白の上に、薄い舟の影を作る。


 ガランが若い猟師に顎をしゃくる。

 左の若者が、半歩、境へ近づいた。

 足は軽い。重心は踵に残し、急に前へ倒れない狩人の足。

 境の枝が、彼の膝の手前で風に揺れる。


 遙馬は息を吸い、地の風を探る。

 足裏を薄くし、苔の柔らかさの下で土が吐く息を拾う。

 その吐息が枝の影を薄くする。

 アカアサの背が、ふわと起きた。


 すっ。


 空気が、透明の膜になって境に立つ。

 若者の膝の手前、薄い水面に触れたみたいに足が止まる。

 押し返していない。

 先へ行く“意思”が、すこしだけ持ち上げられる。


 若者は驚き、しかし怯えない。

 片足を引く。

 足跡は、境の外で止まった。


 ガランの目が、わずかに細くなる。

 右の猟師が、今度は一歩を大きく。

 踏み越えるつもりの足だ。

 遙馬の背中に寒気が走る。

 アカアサの喉が広がり、面が厚くなる。

 だが、押してはいけない。

 押せば、男は転ぶ。

 転べば、刃は言い訳を手に入れる。


「——返す風。」


 遙馬が小さく囁いた。

 アカアサの翼の縁が一度だけ角度を変える。

 地の吐息を、境の外へ回す。

 足の裏の下で、土の息がひゅと滑っていく。

 男の足は、前へ出るかわりに自分の位置を思い出す。

 置かれる。

 境の外に。

 ひざも腰も崩れず、ただ、戻る。


 右の猟師が、息を吐いた。

 顔には、怒りはなかった。

 **“驚きと、納得”**があった。


 ガランの目に、わずかな光が入る。

 彼は、斧に触れなかった。


「……なるほどな。」


 低く、短く。

 認める声。


 風は細く、しかし切れなかった。

 境は、起き続けた。



 そこで終わっていれば、朝は穏やかに終わったのかもしれない。

 だが、境の向こうに、もう一つの影が増えた。

 リクだ。

 息は乱れていない。目だけが、急いでいる。


「ガランさん、ソウマ様が——」


 言いかけて、リクは境の“立ち姿”を見て、言葉を飲んだ。

 風が境に起き、猟師たちが刃を抜かずに足を戻し、アカアサが喉だけを柔らかく保っている。

 争いになっていないと理解するのに、一瞬もかからなかった。


「……間に合ったか。」


 リクは胸に手を当てて、ガランに向き直る。


「長(おさ)は“話を先にしろ”と言ってる。

 村の水路(みずみち)が細ってきた。上流の分水路の石が崩れたらしい。

 人手がいる。交渉の使いをすぐに送る、と。」


 遙馬は、リクの目を見た。

 嘘ではない。

 森と村の用事が、同じ朝に重なった。


 ガランは、遙馬にだけわかるほどの小さな苦笑を浮かべた。


「……運命は、いつも忙しいな。」


 彼は半歩、境から離れた。

 若い猟師たちも、足を引く。

 境の風は、アカアサの呼吸に合わせて薄くなり、森の奥へ帰っていく。


「黒紅の翼。」

 ガランはアカアサへ向き、短く頭を垂れた。

 敬礼でも、服従でもない。

**“見た。理解した。”**という合図。


「今日、刃は動かさない。

 代わりに、村は話を持ってくる。

 水路は森の沢に触れている。境をまたがねば手当てができん。

 ——お前たちが“門”なら、通し方を教えてくれ。」


 遙馬は、喉の奥で固いものがほどけるのを感じた。


「できる範囲で、やる。

 森を傷つけず、村が生きられる通り道を、一緒に考えよう。」


 アカアサが、短く鳴く。

 コロル。

 賛成の音。

 黒い翼の面は、もう“構え”ではなかった。

 迎える形になっていた。



 ガランたちが引いていく背を見送る。

 風はまだ白く、日差しは柔らかい。

 境の枝を元の向きに戻しながら、遙馬はアカアサと目を合わせた。


「……やれたな。」


 アカアサは、もふと肩を膨らませ、遙馬の肩を羽先でぽんと叩いた。

 うまい。

 その音が、確かに聞こえる。


 “返す風”。

 押し退けないのに、戻るべき場所に戻す風。

 それは、力ではなく、関係の技だった。



 昼前、森の上を薄い雲が流れた。

 光は散り、風は緩む。

 前庭の枝は元の疎(まば)らな散らばりに戻し、苔の乱れは指先で優しく撫でて整える。

 森へ借りたものは、森へ返す。


 小屋へ戻る途中、遙馬は一度だけ振り返った。

 境はもう見えない。

 見えないけれど、立っている。

 風で見えるものは、風が去っても残る。

 それが、見えない秩序というものだ。


「午後は、“返す風”の練習だな。」


 遙馬が言うと、アカアサは喉でコロルと鳴いた。

 谷の縁で、滑らず、押さず、置く。

 帰るべき場所に“置き直す”。

 人にも、獣にも、風にも、そうできるなら——

 森と村は、もう少しだけ長く隣り合っていられる。



 その頃、村の集会所では、老人ソウマが水路の図を広げ、石工と農の代表たちが真剣な顔で覗き込んでいた。

 紙の上で線が交わるたび、誰かが息を呑み、誰かが唇を噛む。

 リクは入口に立ち、息を整えながら簡潔に告げた。


「境は、立っていた。

 刃は要らなかった。

 黒紅は“返す風”で人を戻し、怒りはなかった。

 長、俺たちは“通し方”を習うべきだ。」


 老人は頷く。


「ならば礼を持って行け。

 俺たちは“通る”。

 通らせてもらうのではない。通らせるに値するやり方で通る。

 森に恥じぬようにな。」


 ガランは、斧の柄から手を離し、深く一礼した。

 彼の目の底から、長い十年の疲れが、ほんの少しだけ浮かび上がっては消えた。


「……黒紅は、怒らなかった。」

 彼は低く言った。

「なら、俺たちも怒りを道具にするのはやめよう。」



 午後、風は少しだけ湿りを帯びた。

 遙馬とアカアサは谷の縁に立ち、繰り返し、繰り返し、短い“置き直し”を重ねる。

 滑らない。

 押さない。

 置く。

 地の吐息を、ほんのひとかたまり、質のよい場所へ戻す。

 苔の上に風を置く。

 葉の裏に光を置く。

 自分の足も、心も、置き直す。


 ふわ。

 ぴょん。

 すっ。

 ……無音。


 何度目かの着地で、遙馬は不意に笑ってしまった。

 涙が出たわけではない。

 ただ、生きていると思えた。


 アカアサが、頬をくちばしでこつとつついた。

 照れるな。

 そんな風に聞こえた。



 夕方、森は金の粉を空に溶かし、影は長くなった。

 小屋の前に座り、焚き火を小さく熾す。

 野草の香りが湯気に乗り、干し肉の塩気が甘く変わる。

 遙馬は木の皿を二つ用意し、アカアサの分は浅く、取りやすい縁の皿に盛った。

 同じものを、別の形で分け合う。

 それが、暮らすということだ。


「なぁ、アカアサ。」

 火を見ながら、遙馬は言う。

「今日の“試し”、怖かったか。」


 アカアサは、喉で短くコロと鳴いた。

 少し。だが、行けた。

 そういう音。


「俺も、少し怖かった。

 でも、怖さの中で、押さずに立てた。

 多分、それでよかった。」


 アカアサは皿から顔を上げ、空を見た。

 雲はゆっくりで、風は甘い。

 森は、今日を認めていた。



 夜、星は多くなかったが、よく光った。

 遙馬は毛布を肩にかけ、小屋の戸口に腰をかける。

 アカアサはいつもより低い枝にとまり、遙馬の手が届く位置にいた。

 指先で羽根の面を確かめる。

 朝より、静かに起きる。

 少しだけ、力が戻っている。


 目を閉じると、風の層の向こうで、遠い呼吸が聞こえた。

 森のさらに奥。

 あの、大きな影。

 紅の瞳。

 ——見ていたのだ。

 無音で、こちらの“立ち姿”だけを。


「いつか、あいつとも話すのかな。」


 遙馬が呟くと、アカアサは羽先で遙馬の肩をちょんと突いた。

 その時は、もう少し高いところで。

 そんな風に、聞こえた。


 遙馬は笑って、うなずいた。


「わかった。

 そのために、明日も置かれて進もう。」


 焚き火がぱちと小さく鳴った。

 風はやさしく、夜は深く、森は長く。

 境は見えないのに、しっかりと立っていた。


 ——今日は、刃が動かなかった。

 ——明日も、そうであるように。

 **“返す風”**が、通るべきものを通し、戻るべきものを戻すように。


 遙馬は、静かに目を閉じた。

 黒い翼の呼吸と自分の呼吸が、ひとつの面の上で重なり、

 森は、二人の眠りを無音で受け止めた。

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