第3話 木漏れ日の台所
朝の陽は、森の枝葉を通して、細い線になって差し込んでいた。
小屋の窓辺には、まだ乾ききらない洗濯物が揺れている。
遙馬は手を洗い、深い皿を二つ用意した。
ひとつは自分のもの。
もうひとつは、アカアサのもの。
「昨日の分、干し肉ちょっと戻しといたんだ。スープにする。」
アカアサは、床の上に座り、首をかしげている。
羽根の根元が もふ…… とふくらんでいるのは、完全に期待しているときの仕草だ。
「わかりやすっ……。」
遙馬は笑いながら、鍋に水を張った。
薪に火を点けると、ぱち……ぱち…… と、落ち着いた音が生まれる。
森には音が多い。
でも全部がうるさくない。
風。
葉ずれ。
細い小川の流れ。
鳥の羽ばたき。
木が軋む声。
街では聞こえなかった音ばかりだ。
◆
干し肉が湯に溶け、香りが立ちはじめた頃。
遙馬は、台所の隅の棚を見た。
昨日拾った、小さな白い羽根。
遙馬はそれを、ひもと組んで、壁にかけた。
「これさ……合図にしよう。」
アカアサは目をぱちぱちさせた。
「ここに羽根があったら、『戻ってくる場所がある』ってこと。
俺が森に出ても、狩りに行っても。
お前が空を飛んでも。」
遙馬は壁を指さす。
「ここに羽根がある限り、帰ってきていい。」
アカアサは、静かに皿の前へ歩み寄り、
遙馬の肩にそっと額を寄せた。
「ありがとう」と言わなくても、伝わる。
◆
朝食を終えると、二人は外へ出た。
日陰で土はまだ冷たく、空気は澄んでいる。
遙馬は鍬を握り、畑の区画を少しずつ広げていく。
ざく。
ざく。
同じリズムで、ゆっくり。
アカアサはその横で、
葉っぱを運んだり、邪魔な小枝をつついてどけたりしていた。
「お前……手伝い、してるつもりだよな。」
「カァ!」(そうだ!)
という声が返ってきた。
遙馬は笑って、少しだけ鍬を止める。
「なあ、俺さ。」
土の匂いが、懐かしい記憶みたいに胸へしみる。
「“生きてる音”がする仕事が、好きだったんだな。」
アカアサは、首を傾ける。
「街にいた頃は……音が多かったけど、全部、“急かす音”だった。
ここは……違うな。」
鍬を握り直す。
「ここは、“待ってくれる”。」
アカアサは、その言葉に、
ただ、そっと羽根の先で遙馬の背を触れた。
わかってる。
ここはお前の居場所だ。
そういう触れ方だった。
◆
昼下がり。
畑はまだ小さいけれど、形になりはじめている。
遙馬は切り株に腰掛け、汗を拭った。
アカアサは木陰で羽を休めている。
風が吹き、
葉が揺れ、
影が揺れる。
のどかだ。
本当に、静かで、満ちている。
「……今日も生きれたな。」
ぼそりと出た言葉に、
アカアサは目を細め、 「コロ……」 と応えた。
それはまるで、
“うん。ちゃんと、生きてる。”
と肯定する声だった。
昼の光は、森をやわらかく透かしていた。
遙馬は、小さな鍋に野草と干し芋を入れ、弱火で煮込んでいく。
香りは控えめだが、どこかほっとする匂い。
アカアサは、切り株の上で丸くなりながら、
じっと遙馬を見ていた。
ただ見ている。
でも、それは退屈ではなく、
「ここにいる時間が好きだ」 という、静かなまなざし。
「お前さ。」
遙馬は木の匙で鍋をゆっくりとかき回しながら言う。
「俺の名前、まだちゃんと呼べないよな。」
アカアサは、ぱちりと目を瞬かせた。
わからないわけではない。
ただ、音がまだ形にならないだけだ。
遙馬は、胸に手を置く。
「遙馬(ようま)。
“はるか”でもいいし、“よま”でもいい。
呼びやすい方で呼んでいいから。」
アカアサはしばらく沈黙した。
鳴かず、動かず、ただ考えるみたいに静止する。
鳥に「考える」という表現が正しいかはわからない。
けれど——そうとしか思えない時間だった。
◆
やがて。
アカアサは、ゆっくり首を伸ばし、
くちばしをほんの少し開いた。
「……ヨ……」
遙馬の指が、わずかに震えた。
音はたどたどしい。
名前の半分にも満たない。
けれど。
森の空気がやわらかく揺れる。
アカアサは、再び、ゆっくりと。
「……ヨ……マ……」
その瞬間。
遙馬は、息を吸うことを忘れた。
声量も安定していない。
形も不格好。
でも。
呼ばれた。
はじめて。
誰かに。
心の奥の名前を。
「……そうだ。俺だよ。」
声は小さく、小屋に落ちる影のようにやわらかい。
アカアサは、胸を張った。
誇らしげでもなく、威張るでもなく。
「覚えた」
そう伝えるためだけに。
遙馬は、小さく笑った。
「ありがとな。」
笑うと、胸の奥がすこし温かく痛んだ。
泣くほどじゃない。
でも、ちゃんと “生きてる痛み” だ。
◆
スープができた。
いつものように、皿を二つ。
いつものように、外の切り株で並んで食べる。
でも、今日は違った。
沈黙が「距離」ではなく、
**「同じ時間をわけあっている沈黙」**になっていた。
日差しが葉の隙間から落ち、
影がふわりと二人の上を流れる。
「……なぁ、アカアサ。」
呼びかけると、
アカアサは、すぐに、迷わずそちらを向いた。
信頼は、もうそこにあった。
「一緒に生きような。」
返事は言葉ではなく、
そっと遙馬の肩に触れた羽。
それで十分だった。
朝が来ると、森は深く息をする。
まだ冷たい光が、葉の間をすり抜けて、細く揺れながら小屋に落ちてきた。
遙馬は、いつものように水場へ向かう。
川面には霧が残り、指を浸せばひんやりとして、夜の名残が溶けていくようだった。
アカアサは、川岸の岩の上に止まっている。
翼を半分ひろげ、ゆっくりと乾かすように動かしていた。
黒い羽根が朝日に縁取られると、
それは深い闇ではなく、やさしい墨のようだった。
「今日、少し畑広げような。」
声をかけると、アカアサは 「カァ」 と短く鳴いた。
それはもう返事というより、日課に対する了解 だった。
◆
小屋に戻ると、台所には木の匂い。
昨日干しておいた野草の香りがまだ残っている。
遙馬は鍋に水を張り、細かく裂いた干し肉を入れる。
薪に火をつけると、ぱち……ぱち…… と火の音が空気をやさしく叩く。
アカアサは小屋の入口から覗き込み、
羽根の根元を もふっ と膨らませて座りこんだ。
「わかってるよ、もうすぐ。」
スープが温まりはじめると、
暖かい香りが足元から満ちていく。
その香りに誘われるように、アカアサが一歩、二歩と近づいてくる。
けれど、火の近くまでは来ない。
怖いからじゃない。
料理の邪魔をしないことを知っているからだ。
それは、暮らしを共有している者の動きだった。
◆
朝食を終えると、二人は畑へ。
鍬が土を割るたび、
湿った土の匂いが、深く、ゆっくりと広がる。
ざく。
ざく。
ゆっくり。
急がない。
アカアサは、倒れた細枝を口で運び、
邪魔な石を爪でどかしていく。
「お前、それうまいよな……。」
遙馬が言うと、
アカアサは胸を張り、尾羽もない身体全体で どやっ と誇らしげになる。
その姿に、遙馬は声を出して笑った。
笑うのは、本当に久しぶりだった。
◆
昼になり、小屋に戻る。
窓から差す光は少し強くなり、室内を金色に染めている。
遙馬は野草と芋を刻み、ゆっくりと煮る。
その間、アカアサは切り株の上で、ただ遙馬を見ていた。
見張るでも、催促でもない。
“この時間が好きだ” と言っている、静かな視線。
「なあ。俺の名前、呼んでいいからな。」
アカアサは、しばらくじっと遙馬を見る。
その金の瞳には迷いがなかった。
そして、ゆっくりとくちばしが動く。
「……ヨ……マ……」
それは、拙くて、弱くて――
でも、何よりも まっすぐ だった。
胸が、じん、と熱くなる。
「そうだよ。俺だ。」
アカアサは嬉しそうに羽根を膨らませ、
そっと遙馬の肩に触れた。
抱きしめるでもなく、覆うでもなく、
ただ、ここにいるよ と伝えるためだけに。
その温度が、心の奥にやわらかく落ちた。
◆
二人は並んで昼食をとる。
言葉は少ないが、沈黙は心地よい。
日差しが落ち葉に揺れ、
風が影を散らす。
「……今日も生きられたな。」
遙馬がつぶやくと、
アカアサは、迷わず返す。
「コロ」
“うん、ちゃんと生きてる。”
と肯定する声。
遙馬は、ふっと笑った。
ここは逃げ場所じゃない。
後ろじゃなく、前だった。
生き直す場所だ。
昼食を終えると、日射しはやわらかく傾いていた。
森の風は緑の匂いを含んで、肌にそっと触れていく。
「少し休むか。」
遙馬は、切り株に腰をおろした。
アカアサもその隣に、どさり、と大きな体を落ち着ける。
黒い羽毛は、陽に照らされると深い紫の光を帯びる。
闇ではなく、深い森の色。
遙馬はナイフを取り出し、
拾ってきた木の枝を静かに削り始めた。
しゃり、しゃり。
小さな音が、風と同じ速度で流れていく。
削るたび、木の香りがふわりと広がる。
道具が手に馴染んでいく感覚が、身体に生活を戻していく。
アカアサは、じっとそれを見ていた。
見張っているわけではない。
ただ、**「その音が好きだ」**という静かな視線。
「街にいた頃はさ。」
遙馬は言葉を繋ぐ。
「手を動かしても、何も残らなかったんだ。
成果とか、数字とか、そういうのばかりで。」
削った木片が膝に落ちていく。
「でも今は……ほら。」
木の枝は、少しずつ“かたち”になっていく。
無骨だけど、確かに手の跡がある。
「なんでもいい。
こうして、使うものを自分で作れるって……生きてる感じがする。」
アカアサは、その言葉に応えるように、
そっと遙馬の腕に 羽根の先 を触れた。
言葉はいらない。
わかってる。
一緒にいる。
そういう温度だった。
◆
日が高く上がる頃、遙馬は川へ歩いた。
「洗っとかねえとな。生活は続くしな。」
アカアサはすぐ後ろをついてくる。
水の音が近づくと、黒い羽を少し膨らませた。
川は浅く、すべらかな石が光を反射している。
遙馬は靴を脱ぎ、裾をまくった。
アカアサは、川の縁まで近づき——
そっと、片足を水に触れさせる。
水が跳ねる。
その小さな仕草が妙に慎重で、愛おしい。
「寒いけど、気持ちいいぞ。」
遙馬が顔を洗うと、
アカアサは真似をするように、頭を低くして水にくちばしを浸した。
ちろ……
少し水を飲む。
それから、翼をふわりと広げて、川風を受ける。
水を浴びるでもなく、誇示するでもなく、
ただ、その場にいるための動き。
生活に馴染んだ身体の動かし方だった。
◆
小屋に戻ると、日差しは夕方の色に変わりはじめていた。
アカアサは、部屋の隅の丸太の上にとまった。
そこがいつの間にか、“自分の場所” になっていた。
遙馬は、火を起こしながら言う。
「なんか……いいな。
“居場所がある生き物”って、安心してる顔をするんだな。」
アカアサは目を細めて、
「コロ……」 と低く喉を鳴らした。
うれしさと、眠気と、信頼のまじった音。
◆
夕食は簡素な粥だった。
味は薄いけれど、温かい。
二人は同じ火を見つめる。
炎は小さく揺れ、薪は静かに燃える。
その音は、心臓の鼓動と同じ速度だった。
「今日も、ちゃんと生きられたな。」
遙馬が呟く。
アカアサは、迷いなく返す。
「……ヨマ。」
呼ばれる。
はっきりと。
まっすぐに。
遙馬は目を閉じた。
胸の奥に灯った火が、ゆっくりと広がる。
「……ああ。呼んでくれて、ありがとう。」
アカアサは、翼の先を遙馬の肩にそっと触れさせた。
それは抱擁ではない。
一緒にいると示すための、ただの温度。
夜の森は静かだった。
二人は並んで横になり、
呼吸だけを重ねる。
ほんとうに大切なものは、声が小さい。
夕暮れが近づくと、空気は少しひんやりしてくる。
遙馬は鍬を小屋の壁に立てかけ、腰を軽く叩いた。
「……ちょっと、疲れたな。」
ほんの少し、息が白くなる。
森の朝と夜の境目は短い。
昼の温度はもう残っていなかった。
アカアサは、遙馬の様子をじっと見ていた。
その目は、ただの観察ではなく、気遣いを含んでいる。
「大丈夫、大げさに倒れたりしないよ。」
そう笑ってみせると、アカアサは 「カァ…」 と、低く短く鳴いた。
それは “無理はするな” の音だと、すぐにわかった。
「……心配する立場、逆になってる気がするけど。」
冗談めかして言うと、アカアサは羽根を膨らませて、
“わかっている” と言うように胸を張った。
夕日が黒い羽根に反射し、赤い光がうっすらと縁取る。
その姿は、強いのに、どこかあたたかかった。
◆
「よし……今日は火を強めに焚こう。」
小屋の前に置いた焚き火台に薪を足す。
火が息を深くし、ぼっ…… と赤い光が広がった。
アカアサは焚き火に向かってすっと座り、
火の温度を胸で受け止めるようにしていた。
火を見る時間は、言葉がいらない時間だった。
遙馬もその隣に腰を下ろす。
「……昔さ。」
火がはぜる音に混ぜるように、遙馬はゆっくりと声を落とした。
「帰っても電気の光ばかりで。
あれは明るかったけど……温かくは、なかったな。」
ゆっくりと息が白く抜ける。
「光って、本当は……あったかい方がいいよな。」
アカアサは何も言わない。
けれど、羽根の内側をほんの少しだけ膨らませ、
遙馬の肩へ すり…… と寄せた。
それは、
“その考えでいい”
と、肯定する触れ方だった。
◆
夜が落ちると、小屋の中は焚き火の余熱でほのかに暖かい。
遙馬は布団に横になる。
そのすぐあとを追うように、アカアサも身体を沈めた。
今日は——
距離が、昨日より近かった。
遙馬の背中に、ふわりと羽根が触れる。
押しつけるのでも、抱えるのでもない。
ただ、そこにいる。
その温度が、今日一日の終わりをやさしく包む。
「……ありがとう。」
誰に向けた言葉でもなく、
確かにここに届く言葉。
アカアサは、静かに返した。
「……ヨマ。」
名前を呼ばれるたびに、
胸の奥にあたたかい火が灯る。
その火は、
もう消えそうにはなかった。
森の夜は静かで、
呼吸と呼吸が重なり、
二人の時間は深く沈んでいく。
この暮らしは、もう始まっている。
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