第3話 木漏れ日の台所

 朝の陽は、森の枝葉を通して、細い線になって差し込んでいた。

 小屋の窓辺には、まだ乾ききらない洗濯物が揺れている。

 遙馬は手を洗い、深い皿を二つ用意した。


 ひとつは自分のもの。

 もうひとつは、アカアサのもの。


「昨日の分、干し肉ちょっと戻しといたんだ。スープにする。」


 アカアサは、床の上に座り、首をかしげている。

 羽根の根元が もふ…… とふくらんでいるのは、完全に期待しているときの仕草だ。


「わかりやすっ……。」


 遙馬は笑いながら、鍋に水を張った。

 薪に火を点けると、ぱち……ぱち…… と、落ち着いた音が生まれる。


 森には音が多い。

 でも全部がうるさくない。


 風。

 葉ずれ。

 細い小川の流れ。

 鳥の羽ばたき。

 木が軋む声。


 街では聞こえなかった音ばかりだ。



 干し肉が湯に溶け、香りが立ちはじめた頃。

 遙馬は、台所の隅の棚を見た。


 昨日拾った、小さな白い羽根。


 遙馬はそれを、ひもと組んで、壁にかけた。


「これさ……合図にしよう。」


 アカアサは目をぱちぱちさせた。


「ここに羽根があったら、『戻ってくる場所がある』ってこと。

 俺が森に出ても、狩りに行っても。

 お前が空を飛んでも。」


 遙馬は壁を指さす。


「ここに羽根がある限り、帰ってきていい。」


 アカアサは、静かに皿の前へ歩み寄り、

 遙馬の肩にそっと額を寄せた。


 「ありがとう」と言わなくても、伝わる。



 朝食を終えると、二人は外へ出た。


 日陰で土はまだ冷たく、空気は澄んでいる。

 遙馬は鍬を握り、畑の区画を少しずつ広げていく。


 ざく。

 ざく。

 同じリズムで、ゆっくり。


 アカアサはその横で、

 葉っぱを運んだり、邪魔な小枝をつついてどけたりしていた。


「お前……手伝い、してるつもりだよな。」


 「カァ!」(そうだ!)

 という声が返ってきた。


 遙馬は笑って、少しだけ鍬を止める。


「なあ、俺さ。」


 土の匂いが、懐かしい記憶みたいに胸へしみる。


「“生きてる音”がする仕事が、好きだったんだな。」


 アカアサは、首を傾ける。


「街にいた頃は……音が多かったけど、全部、“急かす音”だった。

 ここは……違うな。」


 鍬を握り直す。


「ここは、“待ってくれる”。」


 アカアサは、その言葉に、

 ただ、そっと羽根の先で遙馬の背を触れた。


 わかってる。

 ここはお前の居場所だ。


 そういう触れ方だった。



 昼下がり。


 畑はまだ小さいけれど、形になりはじめている。


 遙馬は切り株に腰掛け、汗を拭った。

 アカアサは木陰で羽を休めている。


 風が吹き、

 葉が揺れ、

 影が揺れる。


 のどかだ。

 本当に、静かで、満ちている。


「……今日も生きれたな。」


 ぼそりと出た言葉に、

 アカアサは目を細め、 「コロ……」 と応えた。


 それはまるで、


 “うん。ちゃんと、生きてる。”


 と肯定する声だった。


 昼の光は、森をやわらかく透かしていた。

 遙馬は、小さな鍋に野草と干し芋を入れ、弱火で煮込んでいく。

 香りは控えめだが、どこかほっとする匂い。


 アカアサは、切り株の上で丸くなりながら、

 じっと遙馬を見ていた。


 ただ見ている。

 でも、それは退屈ではなく、

 「ここにいる時間が好きだ」 という、静かなまなざし。


「お前さ。」


 遙馬は木の匙で鍋をゆっくりとかき回しながら言う。


「俺の名前、まだちゃんと呼べないよな。」


 アカアサは、ぱちりと目を瞬かせた。

 わからないわけではない。

 ただ、音がまだ形にならないだけだ。


 遙馬は、胸に手を置く。


「遙馬(ようま)。

 “はるか”でもいいし、“よま”でもいい。

 呼びやすい方で呼んでいいから。」


 アカアサはしばらく沈黙した。

 鳴かず、動かず、ただ考えるみたいに静止する。


 鳥に「考える」という表現が正しいかはわからない。

 けれど——そうとしか思えない時間だった。



 やがて。


 アカアサは、ゆっくり首を伸ばし、

 くちばしをほんの少し開いた。


 「……ヨ……」


 遙馬の指が、わずかに震えた。


 音はたどたどしい。

 名前の半分にも満たない。

 けれど。


 森の空気がやわらかく揺れる。


 アカアサは、再び、ゆっくりと。


 「……ヨ……マ……」


 その瞬間。


 遙馬は、息を吸うことを忘れた。


 声量も安定していない。

 形も不格好。

 でも。


 呼ばれた。


 はじめて。

 誰かに。

 心の奥の名前を。


「……そうだ。俺だよ。」


 声は小さく、小屋に落ちる影のようにやわらかい。


 アカアサは、胸を張った。

 誇らしげでもなく、威張るでもなく。


 「覚えた」

 そう伝えるためだけに。


 遙馬は、小さく笑った。


「ありがとな。」


 笑うと、胸の奥がすこし温かく痛んだ。

 泣くほどじゃない。

 でも、ちゃんと “生きてる痛み” だ。



 スープができた。


 いつものように、皿を二つ。

 いつものように、外の切り株で並んで食べる。


 でも、今日は違った。


 沈黙が「距離」ではなく、

 **「同じ時間をわけあっている沈黙」**になっていた。


 日差しが葉の隙間から落ち、

 影がふわりと二人の上を流れる。


「……なぁ、アカアサ。」


 呼びかけると、

 アカアサは、すぐに、迷わずそちらを向いた。


 信頼は、もうそこにあった。


「一緒に生きような。」


 返事は言葉ではなく、

 そっと遙馬の肩に触れた羽。


 それで十分だった。


 朝が来ると、森は深く息をする。

 まだ冷たい光が、葉の間をすり抜けて、細く揺れながら小屋に落ちてきた。


 遙馬は、いつものように水場へ向かう。

 川面には霧が残り、指を浸せばひんやりとして、夜の名残が溶けていくようだった。


 アカアサは、川岸の岩の上に止まっている。

 翼を半分ひろげ、ゆっくりと乾かすように動かしていた。


 黒い羽根が朝日に縁取られると、

 それは深い闇ではなく、やさしい墨のようだった。


「今日、少し畑広げような。」


 声をかけると、アカアサは 「カァ」 と短く鳴いた。

 それはもう返事というより、日課に対する了解 だった。



 小屋に戻ると、台所には木の匂い。

 昨日干しておいた野草の香りがまだ残っている。


 遙馬は鍋に水を張り、細かく裂いた干し肉を入れる。

 薪に火をつけると、ぱち……ぱち…… と火の音が空気をやさしく叩く。


 アカアサは小屋の入口から覗き込み、

 羽根の根元を もふっ と膨らませて座りこんだ。


「わかってるよ、もうすぐ。」


 スープが温まりはじめると、

 暖かい香りが足元から満ちていく。


 その香りに誘われるように、アカアサが一歩、二歩と近づいてくる。

 けれど、火の近くまでは来ない。


 怖いからじゃない。

 料理の邪魔をしないことを知っているからだ。


 それは、暮らしを共有している者の動きだった。



 朝食を終えると、二人は畑へ。


 鍬が土を割るたび、

 湿った土の匂いが、深く、ゆっくりと広がる。


 ざく。

 ざく。

 ゆっくり。

 急がない。


 アカアサは、倒れた細枝を口で運び、

 邪魔な石を爪でどかしていく。


「お前、それうまいよな……。」


 遙馬が言うと、

 アカアサは胸を張り、尾羽もない身体全体で どやっ と誇らしげになる。


 その姿に、遙馬は声を出して笑った。


 笑うのは、本当に久しぶりだった。



 昼になり、小屋に戻る。


 窓から差す光は少し強くなり、室内を金色に染めている。

 遙馬は野草と芋を刻み、ゆっくりと煮る。


 その間、アカアサは切り株の上で、ただ遙馬を見ていた。


 見張るでも、催促でもない。

 “この時間が好きだ” と言っている、静かな視線。


「なあ。俺の名前、呼んでいいからな。」


 アカアサは、しばらくじっと遙馬を見る。

 その金の瞳には迷いがなかった。


 そして、ゆっくりとくちばしが動く。


 「……ヨ……マ……」


 それは、拙くて、弱くて――

 でも、何よりも まっすぐ だった。


 胸が、じん、と熱くなる。


「そうだよ。俺だ。」


 アカアサは嬉しそうに羽根を膨らませ、

 そっと遙馬の肩に触れた。


 抱きしめるでもなく、覆うでもなく、

 ただ、ここにいるよ と伝えるためだけに。


 その温度が、心の奥にやわらかく落ちた。



 二人は並んで昼食をとる。

 言葉は少ないが、沈黙は心地よい。


 日差しが落ち葉に揺れ、

 風が影を散らす。


「……今日も生きられたな。」


 遙馬がつぶやくと、


 アカアサは、迷わず返す。


 「コロ」


 “うん、ちゃんと生きてる。”


 と肯定する声。


 遙馬は、ふっと笑った。


 ここは逃げ場所じゃない。

 後ろじゃなく、前だった。


 生き直す場所だ。


 昼食を終えると、日射しはやわらかく傾いていた。

 森の風は緑の匂いを含んで、肌にそっと触れていく。


「少し休むか。」


 遙馬は、切り株に腰をおろした。

 アカアサもその隣に、どさり、と大きな体を落ち着ける。


 黒い羽毛は、陽に照らされると深い紫の光を帯びる。

 闇ではなく、深い森の色。


 遙馬はナイフを取り出し、

 拾ってきた木の枝を静かに削り始めた。


 しゃり、しゃり。


 小さな音が、風と同じ速度で流れていく。


 削るたび、木の香りがふわりと広がる。

 道具が手に馴染んでいく感覚が、身体に生活を戻していく。


 アカアサは、じっとそれを見ていた。

 見張っているわけではない。

 ただ、**「その音が好きだ」**という静かな視線。


「街にいた頃はさ。」


 遙馬は言葉を繋ぐ。


「手を動かしても、何も残らなかったんだ。

 成果とか、数字とか、そういうのばかりで。」


 削った木片が膝に落ちていく。


「でも今は……ほら。」


 木の枝は、少しずつ“かたち”になっていく。

 無骨だけど、確かに手の跡がある。


「なんでもいい。

 こうして、使うものを自分で作れるって……生きてる感じがする。」


 アカアサは、その言葉に応えるように、

 そっと遙馬の腕に 羽根の先 を触れた。


 言葉はいらない。

 わかってる。

 一緒にいる。


 そういう温度だった。



 日が高く上がる頃、遙馬は川へ歩いた。


「洗っとかねえとな。生活は続くしな。」


 アカアサはすぐ後ろをついてくる。

 水の音が近づくと、黒い羽を少し膨らませた。


 川は浅く、すべらかな石が光を反射している。

 遙馬は靴を脱ぎ、裾をまくった。


 アカアサは、川の縁まで近づき——

 そっと、片足を水に触れさせる。


 水が跳ねる。

 その小さな仕草が妙に慎重で、愛おしい。


「寒いけど、気持ちいいぞ。」


 遙馬が顔を洗うと、

 アカアサは真似をするように、頭を低くして水にくちばしを浸した。


 ちろ……


 少し水を飲む。

 それから、翼をふわりと広げて、川風を受ける。


 水を浴びるでもなく、誇示するでもなく、

 ただ、その場にいるための動き。


 生活に馴染んだ身体の動かし方だった。



 小屋に戻ると、日差しは夕方の色に変わりはじめていた。


 アカアサは、部屋の隅の丸太の上にとまった。

 そこがいつの間にか、“自分の場所” になっていた。


 遙馬は、火を起こしながら言う。


「なんか……いいな。

 “居場所がある生き物”って、安心してる顔をするんだな。」


 アカアサは目を細めて、

 「コロ……」 と低く喉を鳴らした。


 うれしさと、眠気と、信頼のまじった音。



 夕食は簡素な粥だった。

 味は薄いけれど、温かい。


 二人は同じ火を見つめる。


 炎は小さく揺れ、薪は静かに燃える。

 その音は、心臓の鼓動と同じ速度だった。


「今日も、ちゃんと生きられたな。」


 遙馬が呟く。


 アカアサは、迷いなく返す。


 「……ヨマ。」


 呼ばれる。

 はっきりと。

 まっすぐに。


 遙馬は目を閉じた。

 胸の奥に灯った火が、ゆっくりと広がる。


「……ああ。呼んでくれて、ありがとう。」


 アカアサは、翼の先を遙馬の肩にそっと触れさせた。

 それは抱擁ではない。


 一緒にいると示すための、ただの温度。


 夜の森は静かだった。


 二人は並んで横になり、

 呼吸だけを重ねる。


 ほんとうに大切なものは、声が小さい。


 夕暮れが近づくと、空気は少しひんやりしてくる。

 遙馬は鍬を小屋の壁に立てかけ、腰を軽く叩いた。


「……ちょっと、疲れたな。」


 ほんの少し、息が白くなる。

 森の朝と夜の境目は短い。

 昼の温度はもう残っていなかった。


 アカアサは、遙馬の様子をじっと見ていた。

 その目は、ただの観察ではなく、気遣いを含んでいる。


「大丈夫、大げさに倒れたりしないよ。」


 そう笑ってみせると、アカアサは 「カァ…」 と、低く短く鳴いた。

 それは “無理はするな” の音だと、すぐにわかった。


「……心配する立場、逆になってる気がするけど。」


 冗談めかして言うと、アカアサは羽根を膨らませて、

 “わかっている” と言うように胸を張った。


 夕日が黒い羽根に反射し、赤い光がうっすらと縁取る。


 その姿は、強いのに、どこかあたたかかった。



「よし……今日は火を強めに焚こう。」


 小屋の前に置いた焚き火台に薪を足す。

 火が息を深くし、ぼっ…… と赤い光が広がった。


 アカアサは焚き火に向かってすっと座り、

 火の温度を胸で受け止めるようにしていた。


 火を見る時間は、言葉がいらない時間だった。


 遙馬もその隣に腰を下ろす。


「……昔さ。」


 火がはぜる音に混ぜるように、遙馬はゆっくりと声を落とした。


「帰っても電気の光ばかりで。

 あれは明るかったけど……温かくは、なかったな。」


 ゆっくりと息が白く抜ける。


「光って、本当は……あったかい方がいいよな。」


 アカアサは何も言わない。

 けれど、羽根の内側をほんの少しだけ膨らませ、

 遙馬の肩へ すり…… と寄せた。


 それは、

 “その考えでいい”

 と、肯定する触れ方だった。



 夜が落ちると、小屋の中は焚き火の余熱でほのかに暖かい。


 遙馬は布団に横になる。

 そのすぐあとを追うように、アカアサも身体を沈めた。


 今日は——


 距離が、昨日より近かった。


 遙馬の背中に、ふわりと羽根が触れる。

 押しつけるのでも、抱えるのでもない。

 ただ、そこにいる。


 その温度が、今日一日の終わりをやさしく包む。


「……ありがとう。」


 誰に向けた言葉でもなく、

 確かにここに届く言葉。


 アカアサは、静かに返した。


 「……ヨマ。」


 名前を呼ばれるたびに、

 胸の奥にあたたかい火が灯る。


 その火は、

 もう消えそうにはなかった。


 森の夜は静かで、

 呼吸と呼吸が重なり、

 二人の時間は深く沈んでいく。


 この暮らしは、もう始まっている。

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