事件現場となったのは、警視庁からも車で二十分ほどの距離に位置する住宅街だった。


 都内にしては閑静な印象を受ける民家の一角。

 表札には「里見家」とだけ記されており、ポストには数日分の新聞や郵便が溜まっている。


 しかしそれ以外は、整った門構えと宅配ボックスがあり、いかにも現代風な家という印象だ。


 坂下は高峰とともに現着しつつ、先んじて現場を保存していた警察官らへ状況を確認する。

 すると、鑑識の腕章をつけた男が頭を下げた。


 男は「お早いご到着で」と、真剣な眼差しを向ける。

 言葉遣いとは裏腹に、その声音は張り詰めた様子である。


「坂下さんが担当ですか」

「よー柏木。まぁ、偶々だがな。今は新人の研修中さ」


 柏木と呼ばれた男は、童顔で侮られることが多いものの、優秀な鑑識官である。

 この佇まいで自らとさほど変わらない齢だ。


 そんな柏木へ坂下は、自らの後方を歩く高峰のことを紹介する。


「こっちは本日付で配属された高峰警部補、未来の官僚様さ」

「そうだったんですね。柏木と申します。以後、お見知りおきを」


 高峰は小さく会釈をして「よろしくお願いします」と、坂下の背後を維持している。

 そんな高峰へ、忠告と言わんばかりに白手袋を投げ渡した。


「既に鑑識が現場保存している。

 そろそろ終わるが、鑑識が終わるまで、捜一の俺たちはそこのビニールシートの上しか歩けねぇ」

「承知しました」

「それと靴カバーとヘアキャップも忘れるな。髪の毛一本でも現場に落とす無能はいらねぇからな。

 鑑識の目が血走ってる。相当な現場なのは覚悟しておけよ」


 坂下の弁を聞き取りながら、高峰は革手袋の上から白い手袋をはめている。


 変わった趣味の男だ。

 そんなことが頭の片隅に残りながらも、家屋から漂ってくる強烈な血と腐敗の臭いに顔を顰めさせられる。


 九月を少し過ぎているとは言え、残暑の厳しい季節。

 それが骸となった人間の肉を腐らせているらしい。


 強行犯係の刑事として仕事をして久しいが、未だこの臭いには慣れなかった。


 だがそれを態度に見せることはなく、そそさくと現場となったリビングへと足を運ぶと、そこはまさに地獄絵図である。


「これは酷いな。絵画でも見てる気分だ」


 坂下は悪態をつくように、部屋中に飛び散った大量の血液に視線を向ける。

 ほとんど乾いた血の模様。色彩はまだら模様に近く、濃はっきりとした淡壁が床に飛び散っていた。


 血液にこれほどの濃淡が現れるのは、静脈や動脈それぞれの血液が混じっていることを意味している。


 残忍な事件と遭遇することの多い強行犯係とはいえ、これほどの現場を目にすることは中々ないだろう。

 更に、これは序章と言わんばかりに、被害者はそこにはいなかった。

 視線で被害者の骸を探していると、柏木は釘を差すように声を掛ける。


「残念ながら、被害者はここじゃありません。

 通路を抜けた先、湯船の中です」


 聞きたくもないことを聞いてしまい、坂下はそそくさと踵を返して、言われた通り通路先の脱衣所へと入っていく。


 道中は変わりなく、血の海だった。

 というより、リビングで殺害した後、ここまで引きずっていった、という印象がある。

 家具や衣服はぞんざいな扱いで道を譲っており、足跡のように血が続いていた。


 しかしそれ以上に、強まってくる強烈な死臭が鼻を突く。

 流れ落ちる水道水の臭いと相まって、人が住んでいたと思えない異様な臭気を放っている。


 いそいそと風呂場に視線を向けると、それはまさに悪魔の所業だった。


 足を伸ばせる程度の広さのバスタブ。

 そこを食いつぶすが如く、体積一杯に人間の肉が埋まっていた。


 坂下は直感的に、その肉の山が一人分の死体であるとは思えなかった。

 おそらくは二人分はある肉の塊には、直感を裏付けるように四つの手首と足首が顔をのぞかせていた。


「あー、こいつは最悪だな。しばらくサイコロステーキは遠慮願いたい」

「恐らくは、家主の里見ご夫妻と思われます」

「家族構成は確か、夫婦と一人息子だろう? まさか、ガキまでくたばっちゃいねぇだろうな?」

「それはまだ分かりませんが、確認できるうえではお二人のご遺体かと」


 坂下は柏木と共にすぐに状況の確認を行っているが、そこで高峰がいたことを思い出す。


 流石に新人が見るには適さない現場ではあるが、刑事をしている以上は避けることのできない道である。

 そう思い返しつつも、高峰へ声をかけた。


「おい、大丈夫か? 戻しそうなら外でしろよ」


 特になんの気なしに言い放った坂下は、言い終わってから初めて高峰の顔を見る。

 そこには、顔は蒼白ながら、何か物言いたげな表情があった。


 坂下は驚いた。

 これが、新人が見せる反応だろうか。


 このレベルの惨状を見れば、熟練の刑事すらも拒否反応を示す人間も出てくるはずだ。

 にも関わらず、この男は、別の感情が勝っているように見える。


 勿論、それは不快な感情であろう。


 ただそれ以上に、悲しげだった。

 一体その腹のそこにはなんの感情が渦巻いているのか。


 とっさに気にかかったが、高峰の言葉で我に返らされる。


「……失礼、驚いておりまして。気分が悪くなれば外に行きますので」

「あぁ。まぁ、そうだな、ひとまず流れは見ておけ。

 柏木、現状分かってることは?」


 坂下は雑念を切り離すように、柏木へ状況の報告を促した。

 対してその微妙な空気を柏木も理解していたらしく、ワンテンポ遅れて現状を報告する。


「被害者は二名、里見光一とその妻の朝霞。

 勤め先の証券会社からの連絡や、息子である光と連絡がつかなくなったことから学校が訪問したことで事件が発覚しました。

 詳しい死因は現在調べている状態です」

「ガキの方も行方不明だって? 捜索は?」

「駐在が中心に捜索しています。こちらは状況から刃物での刺殺後に、遺体をバラバラにしたものかと思われます」

「分かり次第、息子の方は迅速に共有する。仏の方は見りゃ分かるが、この黒い物体はなんだ?」


 坂下はバラバラ遺体に紛れている黒い物体を指さした。

 数個程度ではない。ともすれば遺体と同じくらいの量がありそうである。


 柏木は既にこの物体を確認しているのか、袋に入れた状態のものを坂下に手渡した。


「活性炭だそうです。

 恐らく、死体の消臭目的で使われていた可能性があります」

「……変わったことをするな。詳しい死亡推定時刻は?」

「遺体の損壊が極めて激しく、死斑や硬直状態からの判断は困難であるとされています。


 それ以外にも、このバスタブ、活性炭と一緒に大量の水が出しっぱなしの状態になっていました。


 バラバラになった状態を含めて、血抜きされたような状態になっている上、直腸内部に大量の氷が詰められ、正確な体温の判別ができません」


 聞いているだけで頭が痛くなってくるような状態だった。


 バラバラになった死体をバスタブにいれ、そこに大量の水を流す。

 普通ならそんなことで血抜きなどされないだろうが、この死体のバラバラ具合を見ればそれも納得がいってしまう。


 それに加えて、直腸内部に詰められた大量の氷。

 一般的に遺体から死亡推定時刻を割り出すのは、複数の要素から統合的に考えることになる。

 遺体の硬直状態から、死斑、直腸温度、複数の要素を、この状況はまんべんなく狂わせることができた。


 バラバラになったパーツはそれぞれ、一定の浮力を得て水に浮かぶ。

 更に加えられる水流によって絶えず動き続けることになるだろう。

 そうなれば死斑の信頼性は期待できず、水によって硬直状態の判別もつかなくなる。


 正確な死亡推定時刻を割り出すための情報がことごとく潰されているらしい。


 単純に遺体をバラバラにするだけではなく、しっかりと要点を押さえていることに、坂下は顔に皺を浮かばせる。


「こりゃ切れ者だな。徹底的に情報を洗って報告をしてくれ」

「勿論です。それが我々の仕事ですから」


 坂下は柏木とそんなやり取りをしてから、高峰へと声を掛ける。


「おい、俺たちはひとまず初動捜査だ。

 近くの住人に、被害者のことや不審人物を聞き取りする。住宅前の監視カメラも全部確認するからな」

「あの、坂下警部補、お聞きしたいことがあるのですが」


 高峰はここに来て初めての質問を切り出した。

 特にそれを拒否するわけもなく、「なんだ?」と切り返すと、彼は意外な事を口にする。


「この家、もっと調べたりは、できないんですか?」

「今の現場鑑識の管轄になっている。

 俺たちが調べられるのは、現場検証が終わってから捜一の領分になってからだ。なにか気になることでもあるのか?」


 坂下の言葉を介した高峰は、「そうですか」と少々表情を曇らせるが、すぐに態度は変わる。


 初動捜査への切り返しも素早く、ほんの微かに二階を一瞥するのみで家の外へと出ていってしまう。

 本人なり気になることがあるのか、いくつか疑問が逡巡するも、今は初動捜査が優先であることは変わりない。


 凶悪犯罪において、初動捜査はこれから先の事件の動きを決定づけると言っても過言ではないだろう。


 なにせ人間に情報を尋ねるのだから、時間とともにその記憶は薄れていってしまう。

 厄介なことに人間は、薄れてしまった記憶を自らの主観で補完してしまう生き物だ。

 そのため、できるだけ素早く、大量の情報を集めることが求められる。


 まず第一に、自宅の周辺から。


 ここは住宅街であるため、近隣家屋に設置されている簡易的な防犯カメラもあり、有用な情報が浮かんでくる可能性もある。

 不幸中の幸いであるが、里見家のちょうど向かい側の一軒家は、防犯カメラを道路側に向けていた。


 玄関までは確認できずとも、里見家に向かう人物くらいは映し出すことができるだろう。


 表札を確認した坂下は、早速インターホンを鳴らして高峰へと耳打ちをする。


「最初は手本を見せるが、あまり教科書的なことは期待するな。

 初動捜査は鮮度が命。時間も惜しい」


 今後の方針をざっくりと高峰へ示した坂下は、すぐに警察手帳を手に取りつつも、インターホン越しで自らの身分を明かす。

 すると家主は血相を変えて玄関先に出てきて、興奮した面持ちで続けた。


「どうされたんです?」

「実は向かいの里見家で事件がありまして。ここ最近、不審な出来事などはありませんでしたか?」

「最近って……いえ、私には心当たりがありませんわ。

 強いて言うなら、普段学校を一緒に行っている、千尋君との登下校を見ないことくらいかな」

「千尋君、というのは、里見家の一人息子である光君の同級生ですか?」

「えぇ。

 いつも一緒に登下校するくらい仲の良い子ですよ。

 ほら、そこのご自宅が中村さんのご自宅です」


 家主の婦人は、里見家の三軒隣にある大きな家屋を指差した。

 どうやら、被害者の息子の友達である「千尋」という人物は、近隣に暮らしているらしい。


 坂下は自身が求めている情報とは程遠いことはさておき、それらの情報はメモに落としていく。

 相手が気持ちよく話してくれると分かった時点で、お決まりの質問を繰り出す。


「里見さんはどんなご家庭で?」

「さぁ……向かいは向かいですけど、あんまり近所付き合いもなくって。

 ご主人が証券会社に勤めていてってお話は奥様から知っていますけど」

「失礼ですが、里見さん夫婦に恨みを抱えるようなことは?」

「さぁ……、私は関わりもなかったから。

 そもそも、そこまで関わる関係にある方なんていないんじゃないかな」

「あまり、町内の関わり等はなかったと?」

「そうそう、あんまりないどころか顔すら知らない人もいるんじゃないかしら。

 最近じゃ多いんですよ。町内会に入らないことだって珍しくないし」


 坂下はそれ以降も、里見家のことについて聞いて回るが、どうやらこの家とは全く接点がなかったようだ。

 それよりも、話は「事件は何が起きたのか?」などにシフトしてしまい、有効な情報を取ることは難しい。


 早々に話を切り上げて、必要であれば監視カメラの映像も提供を頂く可能性を話して終了となった。


 一連の流れを見ていた高峰に対して、坂下は溜め息を付きながら続ける。


「あー……まぁ、こういうことが多いから、基本的に聞かなきゃいけねぇのは、不審な人物と里見家に関わる情報が主だ。まずは実践あるのみ。いくぞ」


 坂下は高峰へそう命じながら、自らもこの周囲一体に聞き込みを行っていく。



 あの事件の凄惨さ、手口。

 坂下の見立てでは「怨恨による殺人」である。

 その場合は被害者家族と何かしらのトラブルがあることがほとんどだった。


 だからこそ、初動における周囲の聞き込みは徹底する。

 殺人に至るほどの強い怨恨の場合は、必ず周囲の人間がそれを見ているという経験則があるからだ。


 しかし、今回の場合は違った。


 不審な人物はおろか、里見家と関わりのある人間は極端に少ないことが分かってくる。


「もうあそこに越してきて何年も経っていると思うけど、あんまり関わりがない」

「町内会にも入ってないため、家族構成すら知らない」

「昔は子どもの泣く声が酷かったが、今は落ち着いている」

「誰かが家を訪れるのは、子どもの友人か宅配業者くらい」


 事件に対して調べれば調べるほど、自身の考えから逆行するようだった。


 おかしい。坂下は驚いていた。


 これほどまでに、初動での自身の見立てがずれる経験を、今までしたことがなかった故である。


 以降も日没になるまで周囲の聞き込みを続けていたが、ついぞ有益な情報が確認されることはなく、そのまま初動捜査が終了となった。


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