【第1話】 裁かれぬ罪

――カンッ。


乾いた音が、世界の終わりを告げた。

法廷に響いたその一撃で、俺の人生は崩れ落ちた。


「被告人を――無罪とする。」


誰かが泣き崩れる音。

自分の声かどうかも分からない。


「心神喪失……刑事責任能力を欠く……」


天井が低い。空気が薄い。

前列で青いスーツの弁護士が口角だけで笑った。


その瞬間――胸の奥を、釘が打ち込まれるような痛みが貫いた。

カンッという音が、頭の裏で再び響く。

その響きは、空気を裂くように冷たかった。


そこで、冷たい何かが頭の裏側を走った。

映像でも声でもない。意味だけが、脳に滑り込む。


この世は法がすべて。

法に従う者の魂は、すべて平等である。


視界がにじむ。まぶたの裏に赤い帯。

秒針が一拍だけ早まった気がした。



産声。小さな手が、空を掴むように開く。


初めての子育てで、夫婦ともに戸惑っていた。

泣く理由も分からず、夜中に交代であやした日々。


「大丈夫、きっとこれでいいわ」

妻の声に救われ、俺はうなずいた。


日々の成長に、驚きと喜びがあった。

寝返りを打ち、なんとも言えない表情で離乳食を食べ、

一歩を踏み出そうと、何度も転びながら立ち上がった。


玄関の扉を開けた瞬間、

小さな声が言った。


「パパ」


その二音で、胸の奥に溜まっていた疲れが、静かにほどけた。


……それらは、交差点で途切れた。



帰宅。静寂。テーブルに開いたままの絵本。

足元に近づく小さな重み。


「……ただいま、小鉄」


鳴かずに、足首に顔を押しつける。

その重みで、ようやく自分が立っていると分かる。


コートを脱ぎ、流しに弁当箱を置く。

冷めた白米が固まり、箸の跡だけが残っていた。

仕事は、ただ“日常”を装うための儀式になっていた。


ポケットから、くしゃくしゃの紙を取り出す。

判決の写し。


白い紙、黒い文字。

——被害者:那智由佳・那智蘭。


その瞬間、頭の奥に誰かの声が響いた。



この世は法がすべて。


法に従う者の魂は、すべて平等である。



紙の一行が、ゆっくりと赤く滲みはじめる。

熱が掌を伝い、視界の端が歪む。


その瞬間、脳の奥で微かな電流が弾けた。

まぶたの裏が白く光り、息を呑む。


気づけば、指先が紙の上にあった。

ほんの一瞬、なにかをなぞったような感触が走る。


……今、俺の指が動いた?

俺が指を動かしたのか?


そう思ったときには、もう赤は静まり返り、

さっきまでの脈動が嘘のように消えていた。


「……気のせいか。疲れてるな。」


小鉄が、ふいに耳をピクピクさせた。

部屋の隅をじっと見つめている。

何もない空間に、ただ静かに視線を置くように。


「……どうした」


声をかけても、反応はない。

しばらくして小鉄は膝に跳び、丸くなった。

喉の音が、部屋の静けさに小さな波紋をつくる。


暗闇の奥で、あの言葉が静かに、しかし確かに胸に沈み込んでいった。


――何が平等だ。

……こんな法なら、俺が壊してやる。


――カンッ。


胸の奥で、またひとつ、世界が鳴った。

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