再び廻る時
第2話
*
「……! …!!」
真っ暗闇の中、なにか、怒鳴り声が聞こえる。次の瞬間、腹に痛烈な痛みが走った。
「……っ!」
朱音は咳込み、瞼を空けた。視界には男性のものと思しき着物の裾と、真っ白な足袋を履いた足元が見える。
「朱音! いつまで寝てるつもりだ! さっさと仕事をしないか!」
鬼の形相をした男性はもう一度足を上げ、朱音の腹を蹴った。圧迫感にごほっともう一度咳込む。しかし。
(えっ……? ここは……。というか、私、生きているの……?)
男性に睨まれながら、朱音は起き上がって辺りを見渡す。そこはかつて朱音が生活していた屋敷の使用人部屋だった。朱音はおもむろに自分の顔を両の掌でぺたぺたと触る。触れた頬はあたたかく、とても自分が死人だとは思えない。それに。
「なにをやっている、朱音! 食事の支度がまだだ! 一華も学校に行かなければならん! お前の身分で自分の身支度をする暇があると思うな!」
怒鳴って、もうひと蹴りするのは、確かに父だ。蹴られているのだから、父には朱音が見えているし、触れるのだ。この状態で自分が魂だとは思えない。
「お……、お父さま、あの、私は……」
私は生きているのですか。
そう問おうとした時、もう一度蹴られる。
「父などと呼ぶなと言っただろう! 能無しのくせにぐずぐずするな! お前は言われたことだけ黙ってやっておればいい!」
最後に一喝して、父は薄暗い部屋を出て行った。ぽかんと見送る視線の先の開け放しの襖の向こうには、一華の楽しそうな声やそれに相槌を打つ母の声など、高槻家の日常の音が溢れていて、そこで朱音は漸く我に返った。
(よ……、よく分からないけど、兎に角私は生きているんだわ……。でも、確かに幽世で死んだと思っていたのに、高槻家に戻って来ている……?)
疑問は尽きないが、兎に角いま、高槻に居るのだったら、やることは決められている。朱音は急いで部屋を飛び出た。
食堂では父や母、一華が楽しそうにおしゃべりをしながらテーブルに着いていた。使用人に混じって、朱音も家族に食事を配膳していく。一華がおしゃべりに興じながら腕を引こうとしたため、みそ汁を配膳しようとした朱音は手を引っ込めると、みそ汁が朱音の手に被った。すごい剣幕で怒ったのは、一華だ。
「なにをするの! やけどするじゃない!」
「も、申し訳ありません」
一華の手にはみそ汁のひとしずくも掛かっていない。椀を持った手を引いた時に椀の口がやや朱音に向いたため、朱音の右手と袖、着物はみそ汁でべったり濡れたが、一華はそれには頓着しない。
「今夜は大事な夜会だというのに、朝から気分が台無しだわ」
「も……、申し訳ありません」
夜会、という言葉が一華から出て、朱音は己の記憶を手繰り寄せた。一華が夜会好きなので、よく両親に連れられて華族の集まりに参加していた。朱音は連れて行ってもらったことはないが、一華から、それはもう楽しい時なのだと何度となく聞かされていた。
「本当にお姉さまは何をやらせても駄目なんだから」
え、と思う。一華は朱音の姉ではなかったか。姉の一華の才があったため、妹の朱音はいつも無能の厄介者として扱われていたのだと思ったのだが……。
「仕方ないよ、一華。双子とはいえ、これとお前では出来が違うのだからね」
「そうよ、一華。それにあなたは代々の高槻家の中で一番魅了の才が強いから、今夜の夜会ではきっと良いご縁がある筈。宮さまに見初められて頂ければ、お母さまはとても嬉しいけど……」
母の言葉に一華も微笑んで、そうですね、と返す。
「今日の夜会は、國を治める神々も降臨されるとか。宮さまは帝のお許しがなければご縁は繋がりませんけど、私のこの魅了の力なら、神さまだって魅了できますわ」
「まあ、そうなったとしたら、帝も高槻を重んじてくれるようになるでしょうね。一華は本当に良い娘だわ。それに比べてお前は、本当に役に立たない愚図ね」
じろりと母に睨まれて、朱音は部屋の隅に控え直した。しかし、父が口を継ぐ。
「しかし今日は、朱音にも参加してもらおうと思っている」
父の発現に、母も一華も目を向いた。
「お父さま!? 何故こんなみすぼらしいお姉さまをお連れになるの!? お姉さまなんてお連れになったら、お父さまが笑いものになってしまうわ!」
「そうよ、あなた。今日は帝が主催の、年に一度の夜会ですもの。宮さま方や、華族のみならず、神々のみなさまのお目汚しになりましてよ。もしそうなったら、一華の足を引っ張ることにもなります。今夜は一華に全てを掛けるべきですわ」
この流れは知っている。朱音が天羽の許へ行くきっかけとなった夜会のことだ。高槻男爵家の命運をかけたこの夜会に参加することになった朱音は無能ではあったが、夜会の最中に天羽が庭で探していたアクセサリーを探し当て、それが理由で彼に見初められた。
「朱音を、とある資産家が見初めたらしくてな。引き合わせようと思っている」
「まあ!」
父の言葉に上ずった声を出したのは母だ。
「好色家で知られる老人だからな。高額の金を積んでくれたし、丁度いいと思ったんだ」
この流れも知っている。死ぬ前の人生で、天羽との会話の最中に、父から婚姻の許可を得たと言って、その御仁が割って入ってきたのだ。しかし、結果的に天羽がその老人からも救ってくれた。
朱音は自分の生前の記憶をなぞるように進んでいく事柄に、感心していた。つまり、もう一度得た生で、今度こそ天羽を幸せに出来る可能性があるのだ。
(天羽さま……。私も早く、天羽さまにお会いしたい……)
胸をときめかせる朱音に、父親は今日の仕事を言いつけた。
「そう言うことだから、朱音。お前には分不相応だが、一華のドレスを一枚貸してもらいなさい。それから、風呂に入って、髪もきれいに洗うんだ。一華の支度を終えた後、お前は自分で支度を整えるように。一華の支度を手伝っているから、手順は分かるな?」
「はい」
朱音の返答に父は、よろしい、と頷いた。
夜のとばりが降りた頃、闇夜に輝く明かりを灯した会場には多くの紳士淑女が集まってきていた。みな美しく着飾って、馬車や車から降りてくる。朱音も馬車に揺られながら、会場である建物の前まで来た。……ひとりで。
一華たちは別の馬車で先に会場に到着している。件の老人と引き合わせるときは家族として共に居てくれるようだが、そのほかの時間を朱音と一緒に過ごすのは嫌だというのが、一華と母の意見だった。それは前世でも同じ理由だったので、朱音には全く反対の意などなかった。それに。
(気にしないわ……、もともとそうやって扱われてきたんだもの……。それに、今となってはここまで馬車に載せてもらえただけでも感謝したいくらい……)
前世ではこれから件の老人に会いに行くのだと思っていたから、馬車の中でも希望はなかったが、今は天羽に会いたいという願望がある。だからと言って、家から歩いて行け、と言われたら、すこし途方に暮れてしまっただろう。
という訳で、前回も今回も、求婚者の老人に会わせたいという理由があったからこそ、朱音は馬車という便利な乗り物を借りられたことを、感謝している。
朱音は会場である建物の中には入らなかった。父から入るなと言われていたし、建物に入ったとしても、身分の高い人たちの中で学のない自分がどのように振舞えばいいか分からなかった。それを助かったと思った記憶も、朱音の中に鮮明にあったので、まるで最初の人生をもう一度なぞって生きているような感覚で、父からの言葉を聞いていた。
建物の前で馬車を下ろしてもらうと、正面玄関から逸れて、庭の方へと向かった。庭には西洋風の彫刻と、池には噴水、そして開け放たれた窓から聞こえる音楽と人々のざわめきがあった。
闇に浮かび上がる煌々とした明かりのように、朱音の心もまた、明るく照らされていた。
(もうすぐ、天羽さまが現れるんだわ……。そして私は言うの。『どうされたんですか?』って……)
そうして天羽の探しているアクセサリーを探し当て、会場で天羽に求婚される。あとは天羽のもとで、あの毒杯を手に取らなければ良い。
朱音の心の光は、しかしなかなか天羽を庭に連れて来てくれない。池の周りをぐるりと一周しても、天羽は現れなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます