序章:内乱前夜
第一章:最後の平原
紀元前五一年、晩夏。八年にわたりガリア全土を焼き尽くした戦火は、今、最後の熾火(おきび)となって燻っていた。
鉛色の雲から降り注ぐ霧雨が、ローマ第9軍団の兵士たちの革鎧と鉄兜を、まるで涙のように濡らしている。
ぬかるんだ大地には、この地で果てた幾多の命を飲み込んだかのような、湿った土と鉄の匂いが立ち込めていた。
野営地のあちこちで炊かれる焚火の煙が、雨に混じって低く垂れ込めている。
兵士たちの顔に浮かぶのは、長き戦役の疲労だけではない。
その瞳の奥には、故郷への渇望と、最後の戦いを生き延びてみせるという、鋼のような決意が宿っていた。
彼らは、ローマ最強の男が率いる、勝利を約束された軍団であった。
「閣下、斥候より最終報告。敵、動きます。予見された通り、平原中央へ全軍を向ける構えです」
小高い丘に設えられた司令部で、副官ティトゥス・ラビエヌスが地図盤から顔を上げて告げた。
その声に焦りの色はない。彼の視線の先、湿地と森に挟まれた平原の向こう岸で、ガリア最後の組織的抵抗を続ける**「嵐を呼ぶ民」(ベッロウェルキ族)が、大地を揺るがす鬨の声を上げていた。
彼らは人間族を中心としながらも、その軍勢の先頭には、一際屈強な者たちが陣取っている。
ライン川の向こう、理念を持たずただ力と実利のみを信奉する魔族**の領域から来た傭兵たちだ。
「ようやく誘いに乗ったか」
総司令官ガイウス・ユリウス・カエサルは、盤上の駒の動きを確かめるように冷静に頷いた。
「奴らの狙いは中央突破。魔族の天賦の膂力を信じ、我々の陣形を力ずくでこじ開けるつもりだろう。単純だが、それ故に厄介な手だ」
「ですが、それこそが我々の計算の内。彼らが最も力を発揮する場所こそ、我々が最も効率的にその力を殺げる場所です」
ラビエヌスが静かに応じる。八年間、常にカエサルの傍らで戦い続けてきた彼は、主君が描く戦術の意図を、言葉を尽くさずとも完璧に理解していた。
それは崇拝ではない。戦場の呼吸を知り尽くした者同士が共有する、絶対的な信頼の証だった。
「嵐を呼ぶ民」の突撃は、まさしく嵐そのものだった。
先頭に立つ魔族の戦士たちが大地を蹴るたびに地響きが鳴り、その後に続くガリアの戦士たちの雄叫びが空気を震わせる。
ローマ軍の前衛が構える大盾(スクトゥム)の壁が、その圧力に軋みを上げた。
敵の先鋒がローマ軍の第一陣に喰らいついた、その瞬間。
カエサルの冷徹な声が響き渡った。
「魔術師団(マギ・コホルス)、第一大隊を支援。敵陣を中央から食い破れ」
号令一下、ローマ軍本陣の後方に控えていた一団が、機械のような精度で前進を開始する。
彼らは他の兵士と同じく、右手には剣(グラディウス)、左手には盾を携行している。
ただ一つ違うのは、全員の左腕に、輝石がはめ込まれた革と金属製の**「詠唱補助の腕輪(キャスティング・ブレイサー)」**が装着されていることだった。
彼らこそ、ローマが誇るエリート突撃兵科、魔術師団である。
「詠唱開始!」
百人隊長の号令と共に、魔術師団の兵士たちが右手を左腕の腕輪にかざす。
腕輪の輝石が一斉に青白い光を放ち、彼らはまるで複雑な数式を暗唱するかのように、無感情な声で呪文を唱え始めた。
練り上げられた魔力は、味方である第一大隊の兵士たちの足元へ、まるで生き物のように流れ込んでいった。
第一大隊の兵士たちを、淡い光のオーラが包み込む。重装歩兵の全身を覆う鎧が、まるで羽のように軽くなったかのような錯覚。
一歩踏み出すごとに、大地から凄まじい反発力が生まれ、その体が前方へと押し出される。
「第一大隊、突撃!」
筆頭百人隊長の絶叫が響く。次の瞬間、約五百名の重装歩兵の一団が、信じがたい速度で前方へ殺到した。
それはもはや人の走る速さではない。一塊の鋼鉄となって敵陣へ突撃する、人間による攻城槌だった。
魔術師団の兵士たちも、その強化された味方部隊と並走し、右手の剣を抜いて突撃に加わる。
先頭に立っていた屈強な魔族の戦士たちが、その圧倒的な質量と速度の奔流の前に、為す術もなく弾き飛ばされる。
鉄壁を誇った密集突撃陣形は、その推進力と秩序を完全に失い、ただの混乱した烏合の衆へと変貌した。
「全軍、前進」
カエサルの最後の命令が下る。
魔法によってその牙を砕かれた敵陣へ、ローマ軍団の分厚い歩兵戦列が、分厚い鋼鉄の津波となって飲み込んでいった。
この勝利を盤石のものとした男、ガイウス・カニニウス・レビルスは、この戦場にはいなかった。
彼はカエサルからの別命を受け、ガリア最後の抵抗拠点を沈黙させるべく、自らが率いる軍団と共に別の戦場で戦っていた。
剣でも魔法でもない、数字と情報という名の武器を手に。彼の戦いが、このガリア戦争に真の終止符を打つことになる。
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