第二章 名取総司、中学二年の秋
第5話 まだ名前のない午後
夏の大会が終わり、季節は夏から秋へ、そして冬へ。
その間に、僕と北村くん――いや、仁との距離はさらに近くなった。
互いを下の名前で呼ぶようになり、練習も課題も、だいたい一緒にいる。七瀬さんとも話す回数は増え、前よりは確実に仲良くなっている。……ただ、残念ながら名前呼びまでは至っていない。僕が「栞ちゃん」と呼ぶ勇気はなく、彼女も「総ちゃん」とは呼んでくれなかった。
理由は簡単だ。
七瀬さんは誰にでも優しい。僕だけに特別な顔を向けることはない。
一方の水樹さんは相変わらずクールで辛口。気遣いが足りないのではなく、要らない飾りはつけないだけだ。超絶美人で、切れ長の目は鋭い。だから男子からは「怖い」と誤解されがちだけど、人格を貶める言葉は決して口にしない。
そして、七瀬さんの周りには大抵、水樹さんがいる。
近づく男子に向かって「なに、栞が好きなの? 度胸あるじゃない」と、平然と言うから、自然と牽制になる。もしかして僕の気持ちも、とっくに見抜かれているのかもしれない。
ただ、不思議なことに、僕は水樹さんと二人で普通に話せる。
趣味も合う。結果、七瀬さんと話している時間より長くなることすらある。なにより、あの夏の仮病の件を、今も誰にも漏らしていない。
彼女にとってはとうに忘れた小事かもしれない。けれど僕には、確かに救いだった。
仁も水樹さんを苦手にしていない。
俺はわかりやすくていいな。表ではニコニコ、影で悪口言うやつの方が俺は無理だわ――仁らしい一言だ。
だから男子に「よく水樹と話せるな」と驚かれるたび、僕と仁は顔を見合わせて笑う。
ちなみにこれは余談だけど、社交的になった仁は爆発的にモテ始めた。
見た目は整っている、部活でも結果を出す。今までモテなかったのが不思議なくらいだ。
そしてなぜか、僕が連絡係に指名される。
「これ、北村くんに渡して」
同級生だけじゃない。上級生や下級生からもラブレターを託される。渡すたびに胸が少しだけ凹む。一通くらい、僕宛てでもいいのに――なんて。
やがて「直接、渡せないなら名取くんへ」という妙な噂が広まり、僕は完全に集配ポストになった。
ラブレターを律儀に手渡すと、仁は毎回あきれ顔だ。
「お前な、そういうのは突っぱねるか、せめて睨むとかさ」
「仁。僕にそれができると思う?」
「……まあ、無理だろうな」
「でしょ。僕は人に強く出られない小心者ですよ」
「は? 違うだろ。総司は優しいんだよ。俺、お前のそういう不器用なとこ好きだぜ」
「……仁。そういうとこ言わないで」
僕まで『惚れてまうやろー!!』って言いそうになったわ。気をつけなはれや。
結局、仁は誰とも付き合わなかった。
目標は来年の夏、全国と公言し、夏が終わっても地獄の朝練は続行。僕も負けたくなくて付き合っているうちに、自分でもわかるくらいサッカーが上達していった。
――たぶん、僕はループに罪悪感がある。
だからこそ、正面から積み上げた力には素直に誇りを持てる。
やり直しの効かない朝のグラウンドで、白い息が立つたびに、そんな当たり前が少しずつ好きになっていく。
放課後。今日は日直で、HRで集めたプリントを担任に渡し、職員室を出た。部活は休み。いつも一緒の仁は別件で先に帰っている。
廊下の窓から外を見る。十二月の空気は冷たいけれど、今日はよく晴れている。どこか寄り道でもして帰ろうかな。
「ヤッホー、名取くん」
背中越しに声。肩をつんと突かれて振り返ると、七瀬さんが立っていた。
「ねえ、今日、部活休みでしょ?」
「え、ああ、そうだね」
「北村くんは?」
「用事があるみたいで、先に」
「本当? それは、たいへん好都合だね」
たんたんと始まった会話は、次の瞬間で一気に甘くなる。
七瀬さんは上目づかいで手を合わせ、
「実はね、お願いがあるんだけど」
と言って、ウィンクする。
うわ、やめて。死んじゃう。
「うわー、やめて。死んじゃう、死んじゃう」
「えっ!? なんで死んじゃうの、名取くん!」
びっくりして一歩下がる七瀬さん。びっくりしてるのは僕も同じだ。心の声が口から出た。
「ご、ごめん。大丈夫。持病が急に」
「名取くん、持病あるの? 大丈夫?」
「大丈夫。身体に害はないから。ときどき発症する、惚れてやろー病だから」
「???」
「で、お願いって何?」
はっとする。そうだ、お願いって言ったよな。
「まさか、ラブレターじゃないよね?」
「ラブレター?」
「ブルータス、お前もか!」
「え、ブルータス? 私は栞だよ?」
自分で言っておきながら我に返る。大人気なかった。深呼吸。
「ごめん。最近、仁宛ての手紙を『渡して』って頼まれることが多くて……てっきり七瀬さんもそうなのかなって」
「あー、そういうことね」
七瀬さんはぽんと手を打ち、ウィンクして親指を立てた。
「安心して。名取くんから北村くんは奪わないから!」
なにが安心なのかは分からないが、嫌な予感が外れたのは良かった。
「それでお願いなんだけど、買い物に付き合ってほしいの」
「買い物?」
完全に予想外だった。七瀬さんは僕のシャツの裾をつまんで、にこっと笑う。
「続きは歩きながら話そっ」
そう言うなり、半ば強引に手を引かれる。
冬の光が廊下に長く伸び、二人分の影が重なった。
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