第3話 常識ってご存知?


 小鳥のさえずりと、眩い朝日が瞼をくすぐる。まだ眠たいわ、だって昨日は嵐のような一日だったのだもの……


 寝返りを打ち、重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。


「おはようございます、エヴェリーナ。寝起きの君も可憐ですね」


 視界に飛び込んできたのは、私のベッドサイドのソファに肘をつきながらこちらを眺めている、嫌味なくらい顔の整ったエルフの男。アルサリオンだった。


「きゃああああ!」


 素っ頓狂な雄たけびを上げ、慌ててずり落ちた布団を持ちあげる。ここは上流階級がこぞって使用する、ロンドンで一番高級なランガムホテル――ではなく、慣れ親しんだ私の部屋。


 少し古びたリバティ社のリリベット柄のカーテンに、お母様が作ったパッチワークのベッドカバー。産まれた時から一緒にいるくまのぬいぐるみを抱き上げて、私は金切り声を上げた。


「なっなんで!どうして私の部屋にいるのよっ!」


「……魔法って便利ですよね」


 うっとりと微笑む彼を睨みつけ、私は瞳に涙を浮かべて人差し指を突き付けた。


「貴族令嬢の寝室に断りもなく入るだなんて失礼だわ!っていうか、貴方いつからこの部屋にいたの!?」


「え、婚約者なのにだめなんですか?いつからでしょう。月の光に照らされて眠りにつく貴女も、大変美しかったですよ」


「一晩中じゃない!寝てないの!?」


「まぁ、エルフですから」


 ……絶句。

 

 拝啓、天国のお母さま。エルフって何でもありなんですか?私、早速貞操の危機です。


 寝起きの頭で昨日のできごとを整理した。昨日は私の婚約式で、愛してもいない男と婚約を交わしそうになった。そこに通りすがりのエルフと名乗る男が乱入して、コナーの悪事を暴き、婚約を無効にする。そして私はこの男と、一年間の賭けを約束した――うん、ここまでは大丈夫。記憶は正確。それからどうなったんだっけ?



 ♢♢♢


 あわやドレスを燃やされそうになった私は、メアリーと共に控室に逃げ込んで、慌ててお母様のドレスに着替えた。この数十分でやつれた私は鏡の中の自分を見つめる。


 やっぱり私にはこの色がよく似合う。乱れた髪を整え、深呼吸をした。


「お嬢様にはやっぱり奥様のドレスがよくお似合いです」


「ええ、それは私もそう思うわ。それにしてもあの男、頭おかしいわよね?まるで狂人だわ……もし出会ってたなら絶対忘れないわよ」


「それはそうですわね、でももしかしたら、どこかですれ違ったお嬢様のことを見初めたのかもしれませんよ」


「そんな訳ないじゃない……でもいいわ、借金は肩代わりしてもらえるし、一年間の猶予がある。私はあんな変人のこと、絶対に好きにならないわ。お金だけ搾り取って、エルフの国にのしつけて返却よ!」


 ボールルームに戻ると、何やらお父様と楽しそうに話している。二人の間には丸い鏡。映っているのは幼い頃の泣きじゃくっている私。


「これはエヴェリーナが三歳の時だね、この時確かお気に入りのぬいぐるみが見つからなくて大変だったんだよ」


「エヴェリーナ嬢はこの頃から天使のような可愛らしさをお持ちですね」


 愛娘を褒められて気を良くした父はいそいそと懐からロケットペンダントを取り出し、彼に開いて見せた。

 

「あっ見てくれたまえ、これは四歳の時に町の画家に書かせた肖像画なんだ。よく描けているだろう?」


「大変素晴らしいです、言い値で買い取ります」


 お父様、なぜエルフに懐柔されていますの?私は父と彼の間に割って入りこんだ。


「ミスターアヴァロン、私たち疲れておりまして。そろそろ失礼させていただきたく存じますわ!」


「そうだね、ロンドンは空気が悪いし、人も多くて疲れてしまう。それでは今すぐみんなでエイヴェリー領に帰りましょうか」


「そうね、今すぐみんなで……みんなで?」


 みんなって誰かしら。お父様とメアリ―、そして私の三人よね?そこに貴方はいないわよね?私はとてつもない勢いで顔を父に向けた。


「ミスターアヴァロンはしばらく我が家に滞在してもらおうと思っているんだ」


「た、滞在!?お父様正気ですか!?」


「だって彼はこちらの世界に来たばかりだと言うし、エルフだから都会よりも田舎の空気が綺麗な場所の方がいいらしいじゃないか。恩人を一人ロンドンに取り残すほど、我が家は落ちぶれていないよ」


 そう言われてしまえばぐうの音も出ない。アルサリオンは柔和な微笑みを浮かべて私に握手を求めた。


「というわけです。どうぞよろしくお願いいたします」


 よろしくお願いしたくありません。そんなことを貴族令嬢は言えません。腹立たしい気持ちを押し殺し、笑顔の仮面を貼り付ける。


「こちらこそよろしくお願いいたします」と握手を返した私を、誰か褒めて欲しい。


 その後アルサリオンの魔法で、気付けば私たちはエイヴェリーマナーハウスの前に立っていた。ライムストーンで作られた、由緒正しきお屋敷だ。


 お父様もメアリーも、「魔法凄いっ」とはしゃいでいる。ああ、私だけは領主の娘としてしっかりせねば、と固く心に誓った。

その日は酷く疲労困憊して、私はベッドにもぐりこむとすぐに夢の中へと旅立った。


 

 ♢♢♢



「大変失礼しました、何分エルフなもので、こちらの世界の常識を存じ上げず」


 アルサリオンはその場に立つと、胸に手を当てて丁寧に腰を折って頭を下げた。エルフでも人間でも、嫁入り前の女性の寝室に無断で入るだなんて非常識ではないだろうか?抗議の目で見つめれば、彼は申し訳なさそうな顔で眉を下げていた。心なしか、耳も下に垂れ下がっている。


「……分かってくれればいいわ。はやく出て行ってくださる?」


「分かりました。また後ほど」


 意外にもすんなりと私の言い分を聞いてくれたアルサリオンは、扉をゆっくりと閉めて部屋を後にした。話せば分かってくれるのだろうか?


 とにかく、一つ屋根の下で暮らすのならば、相互理解が大切だ。彼には人間の文化や常識を叩きこまねば。


 ♢♢♢


 階段を降りてダイニングに向かうと、お父様とアルサリオンが談笑している。平常心を保ち、父の左隣に着席した。


「おはようございます、お父様」


「おはようエヴェリーナ、昨日はよく眠れたかい?」


 今朝の雄たけび声は誰にも聞かれなかったのだろうか。ちらりとアルサリオンの顔を盗み見ると、彼は機嫌がよさそうに紅茶を片手に笑っていた。


「……ええ、とても。朝までぐっすりでしたわ」


 うふふと手を口元に当てて微笑んで見せれば、メアリーが朝食を運んでくる。メアリーお手製のスコーンに、冬に作ったリンゴのジャム。裏の畑でとれた朝摘み野菜のサラダに、スクランブルエッグ。そして、お客様用にわずかに残してあった。フォートナム&メイソンの紅茶。困窮した我が家では滅多にお目にかかれない、贅沢な朝食だった。


「それでは、主よ、今日の恵みに感謝します。家族と客人の健康と幸福を祈って――アーメン」


「アーメン」


 目を閉じ、手を組んで祈りを捧げる。薄目を開けて見れば、彼も同様に目を閉じ手を組んでいた。


 エルフの国でも食事の前に祈り捧げるのだろうか。私は目の前の男のことを何一つ知らないのだ。注意深く観察して、見極めなければ。家長のお父様は優しい心の持ち主ではあるが、人を見る目はないのだから。


 カチャカチャと銀のカトラリーが音を立てる。彼は紅茶しか飲んでいない。お父様が心配そうに、「もしや体調がすぐれませんか?」と尋ねれば、彼は初めて気が付いたと言わんばかりの顔で「エルフに食事は必要ありません」と言ってのけた。


「ほお、エルフの方は食事をしないんですね……人間界の食べ物を食べてはいけないという決まりでも?」


「そういった決まりはありませんが、空腹という感覚もありませんし。摂る必要性は感じませんね」


 私は背筋を伸ばし、カトラリーを静かに置いた。この朝食は、我が家が今できる最大限のおもてなしだった。その心を、彼は踏みにじったのだ。ここは人間界のルールや常識を、この男にはっきりと伝えなくてはいけない。


「それはあまりにも失礼ですわ、ミスターアヴァロン」


 彼の瞳が驚きで見開かれる。


「エルフの方は我が家の手料理を無礼に扱いますのね。私そんな方を到底好きになれそうにありませんわ」


「エヴェリーナ、よしなさい。失礼だろう」


 父に窘められるが、先に失礼をしたのはあちらなのだ。私は彼から目を背けなかった。彼は一瞬茫然とした顔をしたが、気を悪くする素振りは一切見せず、穏やかに微笑んだ。


「確かにそうですね。私が無礼でした。朝食、いただきます」


 内心、怒って家を出ていくのではないかと期待したが、彼は素直に私の言葉に従い、スコーンを口にした。


「とても美味しいスコーンですね、優しい味がします」


 メアリーは頬を赤らめ、嬉しそうに会釈をした。駄目だ、メアリーが陥落してしまった。その後も父とアルサリオンの弾む会話を横目に、私は朝食を紅茶で流し込むように食べ終えた。


「エヴェリーナ、私は人間界の常識を知りません。これからも貴女が嫌なことがあれば、指摘して下さいね」


「え、ええ、もちろん。私にも、エルフの国の常識を教えて下さいね」


 彼は驚くほどに従順だった。案外悪いエルフでは無いのかもしれない。



 ♢♢♢


「ミスターアヴァロン、どうしてずっとついてくるのですか!?」


「エルフの国では、恋人同士はいつも一緒なのですよ」

 

 相互理解も不可能ではないかも、と思い直した自分の浅はかさを、その日の夕方に呪う羽目になろうとは。


「恋人じゃないし、恋人でも四六時中一緒だなんて、イングランドでは非常識よ!」


 エルフの国の常識は人間の国の非常識。わざとやっているのでは?と思うほど、彼は私の行く先々に現れた。そして、距離感がおかしい。

 

「そうですか……それではお互い譲歩しませんか?」


「譲歩?」


「ええ、私は貴女の許可なく勝手についていったりしません。物理的な距離は保ちましょう。その代わり、精神的な距離は近付かせてください」


「精神的な距離……?」


 彼の青い瞳が、さあっ、と深く色付いたような気がした。


「はい、名前で呼んで欲しいのです。ミスターアヴァロンではなく、アルサリオン。アル、と」


 もっととんでもない要求をされるかと思ったが、名前で呼ぶくらいならどうということはない。


「い、いいわよ、アル」


 そう呼ぶと、彼は花が開いたかのように嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、いつもの胡散臭い微笑み方ではない。まるで長い冬を超えて初めて咲いた花を見つけた時の幸福を表した笑い方だった。


「ああ、貴方の口から私の名前が呼ばれると、自分の名前がとても尊いもののように思えます……もう一度呼んで下さい」


 恍惚とした表情で見つめられると、胸の奥が切なくなる。微かに熱を感じる頬は、あなたの瞳にはどんな風に映るのかしら。

 

「あ……アル……?」


「もう一度」


「……ちょっとしつこいわ、貴方常識ってご存知?」


「すみません、私はエルフですから」


 拝啓、天国のお母様。我が家に滞在するエルフは常識知らずで無礼で従順で、本当におかしい変人です。でも、私が名前を呼んだだけで、心底嬉しそうにする、そんな可愛らしい一面もあるようです。

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