平安朝 風俗変革記:下裳《げしょう》ノ儀 始末

大隅 スミヲ

序章:ノーパンの雅と安倍晴明の異議

 時は平安。四〇〇年近く続いたこの時代には、現代では考えられないような奇妙な風習が存在していた。これから語られる物語は、嘘か誠かわからないが、平安時代に存在した奇妙な風習の物語である。


 平安京の朝廷において、公卿や官人、そして后妃きさきや女房たちに至るまで、その風俗には一つの共通した「みやび」が存在していた。それは、装束の下、一切の布を下衣として身につけないという、世にも優雅な、そして後の世から見れば驚嘆すべき習慣であった。

 貴族社会において、着物や袴を何枚も重ね着する束帯そくたい十二単じゅうにひとえといった正装は、権威と階級を示す重厚な鎧であった。その豪華な衣の層の下は、広々としたとなっている。男性公卿くぎょうは分厚い袴の奥に、女性は裾や襞の奥に、股間を解放した状態こそが平安京みやこの雅であり、野蛮な地方の習俗とは一線を画する証であるとされていた。


 彼らはその感覚を何ら恥じることはなかった。むしろ、袴や衣を通してわずかに感じられる風の通り道や、布と肌が擦れる際の滑らかさを、一種の官能的な美として捉えていた。特に女性の装束においては、風が吹いた時や立ち居振る舞いの折に、重ねた衣の裾がひるがえり、ほの白い肌と肉感的な尻の曲線がわずかに垣間見えることが、一種の「秘められた雅」として、男心を刺激する究極の美であると考えられていた。


 このノーパン文化を、貴族たちは「穢れなき身体のまま、神仏に相対する高潔な姿」であると信じ込んでいた節がある。彼らが真に恥とするもの、それは「公的な顔」を失うことであった。


 平安貴族にとって、公の場における最大の恥辱は、烏帽子えぼしや冠を失い、頭髪を晒すことであった。頭髪は神聖なものであり、それを人前に晒すことは、「人ならぬ獣の姿」を露呈するに等しい。故に、どんな騒動が起ころうとも、まずは烏帽子を押さえることが最優先の行動規範であった。股間がどうであろうと、頭部さえ覆われていれば、貴族の威厳は保たれる。この厳格で倒錯的な羞恥心の構造こそが、ノーパン文化を盤石にしていたのである。


 しかし、その盤石な平安京の「裸の雅」に、敢然と異を唱える人物がいた。


 平安時代中期、陰陽道が国家の政治と文化の根幹を支配していた時代。その頂点に立ち、帝の吉凶禍福を一手に握っていたのが、稀代の陰陽師、安倍晴明その人である。


 星の運行、地の気の流れ、そして平安京みやこの安寧。その全てを掌中しょうちゅうに収め、貴族たちから畏怖され、頼られていた晴明が目を付けたのは、他でもない、彼らの下半身のあり方であった。


 晴明がいだいた異議は、単なる衛生や寒暖といった現実的な理由ではなかった。彼の異議は、陰陽道における呪術的かつ哲学的な論理に基づいていた。


「太古の昔より、この大地はけがれの源である。我らが住む現世は、根の国と薄皮一枚で隔てられているに過ぎない」


 晴明はそう喝破した。

 彼にとって、貴族たちが身につけている装束は「大地の穢れ」から身を護るための呪術的な結界そのものであった。ところが、貴族たちは自らの意思で、その結界を股間の部分において完全に破っていた。地の底から湧き出す病や呪詛の気は袴をすり抜け、彼らの最も神聖であるべき「精の源」に直接流れ込んでいる。この無防備な状態こそが、平安京みやこに蔓延する疫病や、国体の不調、そして相次ぐ不祥事の真の原因であると晴明は断じたのだった。


「下衣を欠くことは、結界を股間にて自ら破っているに等しい。穢れから身を護るための、布一枚の結界が今、早急に必要である」


 こうして、安倍晴明によって、わずかな布切れ、すなわちふんどしの導入が進められ、平安京の雅と穢れの論争、そして国の安泰をかけた大騒動として幕を開けることになったのである。

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