十一
「心旗殿下。御前、失礼いたします」
中央官吏になるための研修から本格的に戻ってきたとある官吏が、心旗の書斎に顔を覗かせる。
「そなたか」
「はい。今日はお呼びいただきまして、ありがとう存じます」
「いいや。地方から呼び出して、悪かったな。疲れただろう?こちらに座れ」
「恐縮です」
心旗の隣に親王府をまとめてくれている官吏が一人入ってきた。
その官吏は随分前、中央官となるために中央に研修に行っていたのだ。
中央官になるのは難しいが、中央の研修で中央官に気に入られさえすれば中央官になることができる。
「わたくしめがいない間に順英様と何か進展はございましたか?」
「進展…特に、ないな…」
残念ながら順英との進展は…いや、一つだけあったか。
「同じ寝室には入ったな」
「もしかして、
「そこまでは…いっていない。いずれはそういう仲になると思う。だが今は、恋愛という形で今しかできない関係を、順英に味わってほしい」
「左様でございますか」
「ああ。だからそなたにも、暖かく見守ってほしい」
「かしこまりました。これ以上、詮索はいたしませんのでご安心ください」
「助かる」
この人が今のところ、親王府で一番信頼できるだろう。
「ところで…少し、気になっていることがあってな。それでそなたを中央から呼び出した」
「気になっていること?」
「そうなんだ。紙の値段を私の府で下げてみようと思う」
「それは…?!」
どうやら察してくれたようだ。
これなら、話は早い。
「是非そうなさいませ!!」
「ありがとう。そなたには、感謝している。領翠」
「こちらこそでございます」
「これからも、順英を頼んだぞ」
「御意」
領翠は実は親王府出身の官吏だ。
心旗が彼を気に入っているので、安心して順英を任せることができる。
(順調に立身出世の道を歩んでいたのに、急に恋の道に移動させられたんだ。でも順英は、私を好いていてくれるはず)
順英は立身出世より自分と共にいたいと言ってくれた。
それがどれだけ、嬉しかったか。
「領翠、少しだけ待てるか?」
「なんでございましょう」
せっかくだから、何か贈り物でもしよう。
「これを順英に」
「なんです?木の箱…?」
「いいや、中を見てみろ」
「中…?」
不思議そうに、領翠が見た。
「翡翠…ですか?」
「ああ。いいから、中身を見てみてくれ」
「わかりました。って…これ…?!
翡がよく
その簪を、翡州に用事があるときに最高級の簪を売っている店で買ってきたのが、今領翠が持っている簪。
「こんなに豪華な物は…順英様は…その…」
「気に入らなければ売れ、と言っておけ」
「ありがとうございます…!」
「気に入りの妃に物をあげるのは、至極当然のこと。そうだろう?」
「きっと順英様、お気に召されます!」
「それならよい。もう下げれ」
「はい!」
本当に気に入ってくれるかどうか、未だに不明だ。
(幼いとき、翡翠が好きだと文で書いてあったような…)
それを思い出して、順英が気に入りそうな物をなんとか見つけてきた。
順英の好みは少し質素で、でも豪華。
だから探すのに随分時間がかかってしまった。
◆◆◆
「順英様!」
「領翠?」
「はいっ!私です!殿下から、こちらをお預かりいたしました。気に入らなければ売れ、とのことです」
「中身は何?」
殿下からの贈り物なんて、初めてだ。
(好きな人からの贈り物ってこんなに興奮するんだなあ…)
「気に入りましたので捨てませんって伝えてくれないか?」
「かしこまりました、順英様!」
「頼む…」
「緊張なさらないで?きっと、気持ちは伝わります。でもお文の方が殿下はお喜びになるかもしれません」
自分が書いた文で、心旗が喜んでくれるなんてそんな幸せはない。
領翠のアドバイス通り、自分で気に入ったと文で書くのに決めた。
「そうだな。文で、自分の気持を伝えてみる…」
「ぜひそうなさいませ」
領翠は色恋の達人らしく、いつもこういうアドバイスをくれたりする。
色恋の達人なのに、何故か彼女はいないのだ。
「なんでこんなに色恋が得意なのに、なんで彼女が一人もいないんだ?」
「あなたが好きだからです。もう少し、いや。生涯をあなたに捧げると決めましたから」
「私は殿下の妃。お前の恋愛対象になってやれないし、俺に恋をしたところで何も特にはならない。君は大変美形だから、簡吏部侍郎に取り入った方がずっといい。簡吏部侍郎は陛下から信頼されているし、そんな凄い人に取り入って気に入ってもらえたら君の将来は…」
「だからいやだと言っているでしょう?!!」
「領翠…?」
「なんであなたはいつもこうなんだ?!過去に、何が会ったんですか…!自分のこと、少しは考えてやれよっ…!」
「領翠?!待て!!」
待て、と言ったところで
「あっ…!」
小さな悲鳴を上げたが、領翠は気づいてくれない。
「領…翠…」
自分を一番大事に想ってくれているのが領翠。
(仲直り…できたらいいけど…)
◆◆◆
(もう知るかっ!勝手にしろ!)
主人の着替えの衣を持ちながら、勝手に主人の部屋を出る。
しかも、我慢できずに主人と喧嘩をして。
(最低だ…。最低だっ…)
わかっている。こんなこと、したくはないって。
(今すぐ謝りに行かなくては…!)
だけど、足が進まない。
優しすぎる主人に、あんなことを言ってしまったのだ。
大好きな主人にいったいどんな顔で会えと?
「馬鹿だな…」
「そうだな」
主人の大のお気に入りの
「聞いていたのか…」
「そうだな」
「お前ならこんなとき、どうした?」
「極力まで我慢して、落ち着いてから自分の気持を伝える。今回の主人は繊細な心をお持ちだから、すぐに潰れてしまいそうで、怖いんだ…」
そうだ。李 順英はものすごく繊細で、今にも潰れてしまうそう。
自分より他人のことを優先してしまうのが許せなくて、つい当たってしまった。
けれど今、順英はどんな表情をしているのだろう。
「あんなきつい言い方を李正妃様に言ってみろ。嫌われるぞ?」
嫌われる?順英に?
いやだ…。
早く、順英に謝りに行きたい。
「順英様のところに行ってくる…!」
順英のところに行こうとしたとき、蒼紅の太く細い腕に掴まれた。
鍛錬していないと絶対になれないような腕。
順英を直接守れる腕その腕が、とても欲しくなった。
◆◆◆
「私は…」
「入るぞ」
「どうした?そんなところに座って」
「心旗…」
「ああ、ここにいるぞ?」
愛しい人の手が、目の前にある。
掴まずにはいられない。
「心旗…」
部下と喧嘩した、なんて言えない。
こんなことで心旗に迷惑かけるわけにはいかないのだ。
「どうした?」
「なんでもない。少し…手を貸してくれませんか?」
一介の平民が、呼ぶことすらできない名前。
一介の平民が、腕を掴むことさえできない手。
そのすべてが愛おしい。
「私は…あなたに、恋をしました…」
「私もだ。順英」
何故か今言わなければならない気がして。
でもなんで今なんだろう。
不思議に思う。
寝室を共にするときでもいではないか。
「李 順英」
「なんですか?殿下」
「そなたに命じる。何があったのか、話せ」
それは妃を見つめる目ではなく、家臣を見つめるときの目に近い。
その姿は見たことがないけれどなんとなく、そう感じた。
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