第30話 中盤- 修羅場 VS AI超え

「……あ」


神楽坂詩の完璧な「氷」の思考が止まった。


(なんですか、これは)


目の前の盤上。勝負とは一切関係のない端に、ちょこんと――天野晶が今指した「歩」。


(論理ではない。情念でもない。これは……)


詩の脳裏にフラッシュバックが走る。

四年前、いやもっと前。小学生大会の決勝。AIの評価値も真剣師の心理戦も何も知らなかった頃。

目の前の少女は、ただ「楽しい」という原初の熱だけで、AIが悪手と切り捨てる無謀な手を連発していた。


(これは癇癪。天野晶そのもの)


それは詩がこの地獄(リーグ)で完璧に封印してきた感情だった。

A級棋士の殺気は情念(ハッタリ)で受け流せる。AI信者の論理は氷(AIデータ)で論破できる。

だが――この純粋なノイズだけは、詩の完璧な氷のシステムに「解析不能(UNDEFINED)」のバグとして突き刺さった。


(なぜ今、これを)


詩の思考が初めて「将棋」から逸れる。

(晶さん。あなたは今、楽しいのですか。この墓場で。この、わたくしが完璧に追い詰めた局面で)

(……そうだ、この人は、AIに誰よりも数多く敗れてきた。それでも自分の将棋を諦めず、何度も立ち向かった人なんだ)

(晶さんのお父さんが言うとおり、プロもAIに勝てない時代になっても、それでもこんなに将棋を愛する人がいる。……だったら、将棋はなくならない)

(この人は、わたくしが愛するこの人こそが、将棋の未来だ)


「…………」


詩の指が止まる。完璧な氷壁が「解析不能」の一点で機能を停止した。


幽霊たちが息を呑む。

(どうした神楽坂。止まったぞ。あんな無意味な手に、なぜ)


「…………」


晶は待っていた。ハッタリの仮面の下で心臓を破裂させそうなほどの熱で。

(かかれ。かかってこい、詩ちゃん。あんたの論理(氷)が私のノイズ(熱)にフリーズする、その一瞬を!)


カチリ。

詩の指が動く。だがそれは「論理(AI)」の一手ではなかった。ノイズに思考を乱された詩が無意識に頼った、もう一つの武器――祖父・厳から受け継いだ「真剣師」の心理(ハッタリ)の一手。

(この無意味な手には、無意味なふりをした罠で応じる)


「――



晶の心の中で「AIキラー」が叫んだ。


(詩ちゃん、あんたは今、論理を捨てた!)


カチッ――!

晶の指が叩き込むのは、詩の心理に返す音ではない。癇癪の歩でも奇策の角でもない。

この対局で初めて放つ――父・悟の「Ethereal Zero Phase 5」が叩き出した、絶対零度の《論理(AI)の一手》!


「なっ――!?」


今度は詩が絶句する番だった。


(癇癪は囮? 心理を誘い出すための?)


晶が盤上に仕掛けていた最強の罠。

――「熱(癇癪)」で詩の「氷(論理)」をバグらせ、詩が次に頼る「情念(ハッタリ)」を、晶自身の「論理(AIデータ)」で完璧に食い破る!


晶は「AIキラー」として詩の氷の殺し方を知り尽くし、そして詩の情念の殺し方も知っていた。


「……あ、あ」


完璧だった氷壁がメキメキと音を立てて崩れていく。

「プラス1200」あった評価値のアドバンテージが「ゼロ」を通り越し、「マイナス1500」へ――一瞬で叩き落とされた。


(やられた)


詩は震えていた。

(論理で負けたのではない。情念で負けたのでもない。わたくしは――『天野晶』そのものに、負けた)


「あはっ」


晶のハッタリの仮面が剥がれ落ち、「墓場」には似つかわしくない、あの小学生の頃と同じ――残忍で無邪気な太陽の笑顔が戻る。


「詩ちゃん」

晶が楽しそうに呟く。

「やっと、私たちの将棋が始まったね」


「……」


詩は顔を上げた。その目はもう氷ではない。

論理を熱に焼き尽くされ、残された最後の武器――祖父・厳が叩き込んだ、「勝ち」にのみ執着する真剣師の血が、静かに燃え始めていた。

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