第19話 二段昇段
ふたりの「最強のパートナー」は、その時、本当の意味で互いの論理と非合理を交換した。
その次の週から、将棋会館・奨励会二段リーグの空気は、恐怖に染まり始めた。
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「見たか?」
「ああ。神楽坂の今日の将棋」
「……あれ、“氷壁”じゃなかったな」
詩の相手は、再びAI信者・菊地二段の兄弟子だった。
彼は、菊地が詩の“真剣師のハッタリ”を論理で封じた棋譜を完璧に学習してきていた。
(神楽坂は土壇場で非合理に逃げる。そこを叩け)
だが、詩はハッタリを一切使わなかった。
それどころか、天野晶の父であるAI開発者・天野悟が乗り移ったかのように、冷徹で緻密な理詰めだけで相手を追い詰めていった。
相手の青年は、A級棋士の殺気でも真剣師の狂気でもない、別の何かに圧されていた。
(なんだ、この読みは。AI定跡のさらに三手先を、完全に見透かされている。まるで本物のEthereal Zeroと指しているみたいだ)
詩は、晶から教わった“AIのバグ”を、攻撃ではなく完璧な防御と論理の構築に転化させ、相手の
「……参りました」
青年は、自らの論理が完全に論破された現実に震えた。
詩の氷は、晶の熱に触れ、絶対零度の論理へと変貌していた。
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「こっちもだ。天野の今日の将棋」
「あれが“太陽”?どこがだ?」
同じ頃、天野晶の相手は“沼”の森田二段の兄弟子だった。
彼は、森田が晶を焦らせて自滅させた棋譜を学習していた。
(天野晶は感情の生き物だ。“沼”に沈めば終わりだ)
だが、晶は一切の奇策を使わなかった。
そして神楽坂詩の祖父――伝説の真剣師が乗り移ったかのように、静かで不気味なまでの無表情で座っていた。
(煽ってこない。焦ってもいない。……笑ってもいない。これが天野晶か?)
晶は、詩から教わった“ハッタリ”を、内に潜ませていた。
熱は隠す。ただ相手の沼を表情一つ変えず見返す。
やがて青年は焦り始めた。
(効かない。俺の“沼”が、あの無表情に吸い込まれていく。なんだ、こいつ……怖い)
感情が揺れた瞬間、青年は自らの沼から這い上がるように無謀な攻めを仕掛けた。
カチッ。
晶の指先が初めて熱を帯びた。
それは、詩が受け継いだ真剣師の罠――相手が油断した瞬間に突き刺す、非合理の銀。
「あっ……!」
気づいた時にはもう遅かった。
晶は、その十五手も前、無駄に見える端歩突きから、評価値の誤誘導を始めていた。
「……参りました」
青年は、心理戦で完全に折られたことを悟り、震えた。
晶の熱は、詩の氷に包まれ、灼熱の虚無へと変わっていた。
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「神楽坂詩、天野晶。両名、本日付で二段に昇段」
例会の終わり、幹事の淡々とした声が、静まり返った和室に響いた。
奨励会の少年たちは、もはや嫉妬も恐怖も通り越し、呆然とその二人を見送るしかなかった。
二つの怪物が、自分たちの日常を荒らし、次の舞台へと進んでいく。
「なお、両名は本年度の三段リーグへの参加資格を獲得しました」
三段リーグ――
プロ棋士になるための最後にして最大の地獄。
年に二回、半年間、全十八局。その上位二名だけが四段へ昇格し、他は全員が敗者となる。
二人はついに、その地獄の門の前に辿り着いた。
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いつもの裏路地のベンチ。
夕日は淀川の向こうに沈みかけていた。
二人は言葉を交わさず、並んで座っていた。
「やったね」
先に沈黙を破ったのは晶だった。
「ええ」
詩が短く応える。
「二段」
「……二段です」
「次は三段リーグかあ」
「はい」
祝勝の空気はなかった。
ただ、ひんやりとした緊張だけが二人の間に漂っていた。
「……怖いですか」
詩が、鞄の猫のキーホルダーをいじりながら呟いた。
晶は黙ったままだった。
(怖い。当たり前だ。AIの“Zero”は論理と計算の世界。負けても次がある。
でも三段リーグは人生だ。二十六歳までに四段になれなければ、終わりだから)
詩も同じことを思っていた。
(おじい様は言った。“三段リーグは修羅場。才能があっても運がなければ上がれん”と。
“わしの門下でも、何人もあそこで壊れた”と)
二人は、自分たちが、ついに本物の地獄の入り口に立ったことを悟っていた。
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「ねえ」
晶が膝を抱えて、俯いたまま言った。
「もし、私たち二人のうち、一人しか上がれなかったら、どうする?」
詩は息を呑んだ。
(もし私が一位で、晶さんが三位だったら。もし晶さんが二位で、私が四位だったら)
「その時は」
詩は震える声を押さえつけながら答えた。
「その時は、わたくしがあなたを論理で叩き潰します」
晶が顔を上げる。
詩はまっすぐに晶の瞳を射抜いた。
「あなたも、わたくしの“氷”を、あなたの“熱”で焼き尽くしてください」
「……詩ちゃん」
「私たちは最強のパートナーです」
「……うん」
「だから――」
詩は晶の震える手に自分の手を重ねた。
冷たい氷が、熱を帯びた掌を包み込む。
「一緒に、地獄へ行きましょう」
「……うん、あたりまえじゃん」
二人が手を握り合ったその時、
晶のリュックの中で、無機質なバイブ音が響いた。
晶は詩の手を名残惜しそうに離し、スマホを取り出す。
詩は、そのディスプレイを見た瞬間、晶の顔から一気に熱が引いていくのを見た。
いつもの太陽でも、AIキラーでも、真剣師でもない。
ただ、一人の娘のように怯えた顔だった。
「もしもし」
晶の声は小さく震えていた。
詩は、電話の相手が誰かを、すぐに悟った。
「うん、お父さん。……終わったよ。二段に上がった」
「……うん。詩ちゃんも一緒に」
晶は長く黙ったまま、受話器の向こうの声を聞いていた。
そして――
「……え?」
晶の顔が凍りつく。
「“無意味”って……どういうこと?」
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