第12話 初めて見せる「弱さ」

バチン!

けたたましい電子音が、神楽坂 かぐらざか うた鼓膜こまくを直接殴りつけた。


駅前のパチンコ店の、開閉する自動ドアから漏れ出す、鉄球とデジタル音声の暴力的な交響曲。

その隣では、クレープ屋台が、脳がしびれるような甘い匂いを、湿った夜気やきき散らしている。

ヘッドフォンから音漏れさせた音楽を聴く若者たちの、甲高い笑い声。

客引きの、意味のない怒鳴り声。


音。匂い。光。

その、無秩序な、非合理な、計算不可能な情報の奔流ほんりゅう


「……っ」

詩は、そのカオス《混沌》のど真ん中で、立ち尽くしていた。

手を引かれていた。天野 あまの あきらに。

ほんの数分前まで、将棋会館の裏路地――秩序と静寂の世界にいたことが、まるで遠い過去の記憶のようだ。


(ここは、どこ)

(私の「論理」が、通用しない)

(私の「氷壁」が、意味をなさない)


「あはは! 詩ちゃん、顔! 顔! マジで『氷』がフリーズしてる!」

晶は、詩の手首をつかんだまま、腹を抱えて笑っていた。

「天野さん……!」

詩は、この人生で、初めて「本気で」他人をにらみつけた。

「私を、どこに連れて行くつもりです! 私は、道場に……おじい様が、待って……!」


「『おじい様』は、今日はお休み!」

晶は、まるで反抗期の娘のように、べー、と舌を出した。

「いい? 詩ちゃん。今から行く場所は、『評価値』も『勝負勘』も、ぜーんぶ『無意味』な場所だから!」

「無意味な、場所……?」

詩の「論理」が、その単語の解析を拒否する。


晶が、ニヤリと笑い、雑居ビルの入り口を指差した。

そこには、極彩色のネオンで、こう書かれていた。

`[ GAME CENTER GALAXY ]`


「さあ、入って!」

「待っ……!?」

詩の抗議は、再び、晶の「熱」によって、いとも容易たやすくねじ伏せられた。

晶は、詩の手を「手首」から「手のひら」へと握り直し、指をからませ、有無を言わせず、その光と音の洞窟どうくつへと、詩を引きずり込んだ。


「!!」

詩の全身が、硬直した。

(手を、握られた)

(四年前の、あの「火傷やけど」の熱)

(違う、もっと熱い)

(この熱が、私の手首から、血管を通って、心臓まで、直接流れ込んでくる……!)


「うわっ! すごい人!」

「うるさい……! 耳が……!」

ゲームセンターの中は、詩が想像しうる、あらゆる「非合理」の煮凝にこごりのような場所だった。

爆発音。絶叫。デジタル音声。意味不明なダンスミュージック。

それらが、何の脈絡もなく混ざり合い、詩の「完璧」な思考システムを、内側から破壊しにかかる。


「あ! あった! あれやろ、詩ちゃん!」

晶が、目を輝かせて指差したのは、店の入り口近くに鎮座ちんざする、一際ひときわ大きなクレーンゲームの筐体きょうたいだった。

中には、詩も見たことがある、人気のキャラクター(名前は知らない)の、巨大なぬいぐるみが、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。


「クレーンゲーム……」

詩は、その機械を、生まれて初めて「敵」として認識した。

祖父・げんが、一度だけ、テレビを見ながら吐き捨てるように言っていた言葉を思い出す。

『あんなもん、胴元どうもとが丸儲けの、ただの集金装置だ。確率でり上げて、客の『射幸心』だけをあおる、最も下劣な『ハッタリ』よ』

(おじい様の言う通りだ)

(非合理の、極み)


「私、あれ、欲しいんだよねー」

晶は、目をキラキラさせながら、百円玉を投入した。

「見てて、詩ちゃん。私の『AIキラー』殺法で、こいつの『確率』の穴、突いてやる!」

「……無駄です」

詩が、冷ややかにつぶやいた。

「アームの強さ、掴む位置、全てが『プログラム』されています。あなたの『非合理』が通用する相手ではありません」

「うるさいなー、理屈っぽーい!」


ガシャン! ウィィン……

晶は、果敢かかんに挑んだ。

だが、アームは、ぬいぐるみの頭を、愛撫あいぶするかのように優しく撫で、くうを掴んで戻ってきた。

「あー! クソッ!」

晶が、本気で悔しそうに筐体を蹴飛ばす。

(……行儀が悪い)

詩は、まゆをひそめた。


「もう一回!」

「……やめたほうが」

ガシャン! ウィィン……(空振り)

「もーーっ!」


三回目。

四回目。

晶が、本気でムキになっていた。

四年前、詩との対局で「楽しい!」と言っていた、あの「太陽」の笑顔は、どこにもなかった。

父のAI『Zero』に、理不尽な「バグ」で負かされた時のような、本気の「怒り」の顔をしていた。


「……天野さん」

詩が、あきれて声をかけた。

「あなた、まさか、それ(ぬいぐるみ)が、本気で欲しいのですか」

「欲しいに決まってんじゃん! だって、可愛いし……!」

晶は、百円玉を握りしめ、顔を真っ赤にしていた。


詩は、はあ、と深いため息をついた。

(ダメだ。この『熱』は、AIには勝てるかもしれないが、この『集金装置』の『論理』には勝てない)

(……仕方がない)


詩は、自分の学生鞄から、財布を取り出した。

そして、無言で、百円玉を一枚、投入した。

「……え? 詩ちゃん?」

「……代わって下さい」

詩は、晶を無言で突き飛ばし、コントロールスティックの前に立った。

その目は、もう「氷壁」ではなかった。

祖父・げんから受け継いだ、「真剣師しんけんし」の目だった。


(この『敵』は、AIでも、A級棋士でもない)

(『確率』と『物理演算』だけで構成された、純粋な『論理』の塊)

(だが、おじい様は言っていた。『どんな機械・・にも、必ず『隙』と『偏り』がある』と)


詩は、スティックを握りしめた。

彼女の脳が、奨励会の対局では決して使わない、超高精度の「計算」モードに入る。

アームの可動域。

景品の重心。

アームの下降速度。

そして、さっき晶が四回も失敗した「データ」――。


(……ここ)

詩は、A級棋士の「殺気」を受け止める時以上の、完璧な集中力で、狙いを定めた。

ボタンを押す。

アームが、詩の「読み」通りの軌道を描き、ぬいぐるみの、完璧な「重心」の一点に、爪を立てた。


(……!)

(……取れる!)


アームが、ぬいぐるみを持ち上げる。

晶が、隣で「おー!」と歓声を上げる。


だが――。

出口の、ほんの数センチ手前。

まるで「ここまでだ」とプログラムされていたかのように、アームの力が、ふっ、と抜け、ぬいぐるみは、重力に従って、元の場所へと落下した。


「「…………あ」」


静寂。

いや、周囲は、爆発音とダンスミュージックで、相変わらずうるさい。

だが、詩の世界だけが、完全に、凍りついた。


「……」

詩は、無言だった。

だが、その握りしめられた両手は、わなわなと震えていた。

顔は、無表情。

だが、その耳は、リンゴのように、真っ赤に染まっていた。


(負けた)

(私が、この、下劣な『集金装置』に)

(私の『完璧』な『読み』が、この『非合理』な『確率』に、負けた)


「……詩ちゃん?」

晶が、恐る恐る、その横顔をのぞき込む。

「……あはは、ドンマイ! やっぱ、あれ、取れないようにできてんだよ!」

晶が、必死で場をなごませようと、笑う。


「……もう、一回」

「え?」

「もう、一回、です」

詩は、財布から、さらに百円玉を取り出した。

その目は、もう、獲物えものを前にした「真剣師」の目ですらなかった。

ただの、負けを認められない「子供」の目だった。


「ちょ、詩ちゃん、ムキになりすぎ!」

「うるさいです。私は、まだ『負けて』いません」

ガシャン! ウィィン……(落下)

「……っ!」

ガシャン! ウィィン……(落下)

「……くっ!」


そこには、A級棋士も、AIキラーも、震え上がる、「氷壁のイージス」神楽坂 詩の姿は、どこにもなかった。

ただ、祖父譲りの「異常なまでの負けず嫌い」を発揮し、たかが「ぬいぐるみ」に、全人格を否定されたかのようにムキになっている、一人の少女がいるだけだった。


「あー! もう! ダメだって!」

晶は、ついに、詩が投入しようとした五枚目ごまいめの百円玉の手を、上から押さえつけた。

「やめなさい! 天野さん! 私は、まだ……!」

「ダメ! これ以上は、詩ちゃんの『評価値』が、マイナス一万点になっちゃう!」

「……!」


晶は、詩の手から強引に百円玉を奪うと、その百円玉を、隣の、もっと小さな、キーホルダーしか入っていない、小さなクレーンゲームに、ひょい、と入れた。

「え?」


ガシャン。ウィィン。

晶は、まるで、何の「読み」も「勝負勘」も使わず、ただ、適当にスティックを動かし、ボタンを押した。

アームが、適当に下りる。


コトン。


「……あ」

アームは、なんのドラマもなく、小さな、猫の形をしたキーホルダーを掴み、あっさりと、出口の穴に落とした。


「……ほら」

晶は、取り出し口から、その、安っぽいキーホルダーを取り出すと、呆然ぼうぜんと立ち尽くす詩の、手のひらに、それを乗せた。

「はい、これ、あげる。詩ちゃんの『勝ち』ね」

「……え?」


詩は、自分の手のひらを見つめた。

そこには、さっきまで自分が「殺意」を抱いていた、巨大なぬいぐるみではなく、小さな、小さな、プラスチックの猫が、鎮座ちんざしていた。


「……」

「……」


詩は、そのキーホルダーを、ただ、見つめていた。

そして。

ぷつん、と。

彼女の中で、この十四年間、張り詰めていた「完璧」という名の糸が、音を立てて、切れた。


「……ダメ、です」

「うん?」

「……私、ダメです」

詩の、完璧な「氷壁」の仮面が、ボロボロと、音を立ててくずれ落ちていく。

その下から現れたのは、見たこともないほど、弱々しい、「十四歳の少女」の素顔だった。


「……私、おじい様みたいに、なれない」

詩の、大きな瞳から、ぽろ、と、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「え、ちょ、詩ちゃん!?」

晶が、本気で狼狽ろうばいする。


「『勝ち』に、こだわれって……! 『執念』が足りないって……!」

詩は、ゲームセンターの、けたたましい爆音の中で、声を殺して、泣きじゃくった。

「私……あんな『ぬいぐるみ』一つに……! 自分の『感情』も、コントロール、できなくて……!」

(こんな私じゃ、A級にも、おじい様にも、天野さん(あなた)にも、勝てない)


晶は、何も言わなかった。

ただ、黙って、泣きじゃくる詩の背中に、そっと手を回した。

そして、まるで、壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、優しく優しく、その頭を、自分の肩に引き寄せた。


「……詩ちゃん」

晶が、詩の耳元で、あの太陽のような「熱」を、静かに、静かに、注ぎ込むように、ささやいた。


「詩ちゃんは、おじい様じゃ、ないよ」

「……」

「詩ちゃんは、だよ」


詩は、晶の肩口――くたびれたTシャツの、太陽と洗剤の匂いがする場所――に顔を埋め、その夜初めて、声を上げて泣いた。


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