第5話 それぞれの道

「わかば児童将棋大会」の表彰式は、決勝戦の熱狂が嘘のように、事務的に、淡々と進んでいった。

神楽坂 かぐらざか うたは、小さなクリスタルの盾を受け取る時も、地元の新聞記者にフラッシュをかれる時も、完璧な「氷壁」の仮面を崩さなかった。

祖父・げんの教えは、既に彼女の皮膚の一部と化していた。


(熱い)

だが、皮膚の内側は、まだ燃えていた。

先ほど握手をした、天野 あまの あきらの手のひらの熱が、自分の右手に移ったかのように、じくじくと、しかし心地よい熱を発し続けていた。

「詩、行きますよ」

母親が、優しく、しかし有無を言わせぬ調子で声をかける。母親にとって、この優勝は「当然の結果」であり、早くこの蒸し暑いホールから娘を連れ出したい、という空気が全身に満ちていた。

「はい、お母様」

詩が、感情のない声で応じ、きびすを返そうとした、その時だった。


「詩ちゃん!」

雑踏をかき分けるように、あの太陽の熱が、再び背後から飛んできた。

振り返るまでもない。天野 晶だ。

晶は、汗でTシャツを肌に貼り付かせ、髪を逆立たせ、二位入賞の銀メダルを首からぶら下げて、満面の笑みで走ってきた。

「はぁ、はぁ……よかった、間に合った!」

「天野さん……」

詩は、母親の手前、完璧なポーカーフェイスを維持しながら応じる。

「詩ちゃん、すごかった! マジですごかった! 優勝おめでとう!」

「……ありがとうございます」

「ねえ、詩ちゃんはさ」

晶は、ぐいっと詩に顔を近づけた。その瞳は、さっき盤上で見せた炎が、まだ消えずに燃え盛っている。

「中学行ったら、部活? それとも、どっかの道場通うの?」


詩は、その真っ直ぐな瞳に見つめ返され、一瞬、息が詰まった。

この熱に、どう応じればいい?

祖父の教え(ハッタリと心理戦)は、このの前では、何の役にも立たない気がした。

詩は、自分の内側から湧き上がる、自分でもまだ名前のつけられない感情に従うことにした。

それは、昨日までの自分なら、決して口にしなかったであろう未来への「宣言」だった。


「……奨励会しょうれいかいに、行きます」


凛、とした声が響いた。

母親が「え」と息を呑むのが、気配で分かった。

(奨励会。プロ棋士になるための、唯一の道)

(今まで、おじい様から「行け」と言われたことはなかった。私自身、そこまでの「覚悟」を決めたことはなかった)

(でも、今、決めた)

(この「熱」と、もう一度戦うために)


晶の、あの太陽のような笑顔が、一瞬、凍りついた。

しかし、次の瞬間。

その笑顔は、さっきまでの「楽しい」とは質の違う、もっと獰猛どうもうで、もっと決意に満ちた「戦士」の笑みに変わった。

「……やっぱり!」

晶は、まるで「答え合わせが正解だった」とでも言うように、自分の手をポンと叩いた。

「私も!! 私も、奨励会行く!」

「天野さん……」

「そっかぁ、じゃあ、また会えるね! 奨励会で!」

晶は、高揚した顔で、再び詩に右手を突き出した。

「約束! 次は、私、勝つから!」

「……」

詩は、その熱い手を見つめた。

今度は、迷わなかった。

だが、詩は、その手を握り返す代わりに、こう言った。

「……負けません」

「あはは! そうじゃなきゃ!」

晶は、満足そうに手を引っ込めると、詩の母親に向かって「お騒がせしました!」と深々と頭を下げ、そして、嵐のように去っていった。


詩は、その太陽が遠ざかっていく背中を、見えなくなるまで見つめていた。

右手に残った、触れられなかったはずの熱が、今度こそ本物の「火傷」のように、詩の心に深く刻み付けられた。

(天野 晶)

(奨励会)

(私が、本当に「勝ちたい」と願う場所が、見つかった)


***


その夜、神楽坂家の離れ。

詩は、クリスタルの盾を祖父・げんの前に差し出した。

厳は、重々しくそれを受け取ると、値踏みするように眺め、そして無造作に畳の上にごろりと転がした。

「勝ったか」

厳は、孫娘の顔を、鷲のような鋭い目で見据えた。

「だが、詩。お前の顔、なんだそりゃ?」

「……と、申しますと」

詩は、完璧な「氷壁」の仮面を貼り付けたまま、首をかしげた。

「その、仮面それの下だ」

厳は、鼻を鳴らした。

「……浮かれとる。いや、違うな」

厳は、目を細め、詩の瞳の奥にある「揺らぎ」を見透かそうとする。

「……したか」

ズキン。

詩の心臓が、大きく跳ねた。

この祖父には、何も隠せない。

「……」

詩が黙っていると、厳は楽しそうに喉を鳴らした。

「相手は、天野 晶、とかいう奇策師だったな」

「……はい。彼女は……とても、熱かったです」

「ガッハッハッハ!」

厳の笑い声が、和室の古い柱を震わせた。

「火傷か! よりによって、あの『Ethereal Zero《エテリアル・ゼロ》』の天野 さとるの娘にな! こいつは傑作だ!」


詩は、目を見開いた。

「おじい様、天野さんのことを、ご存知なのですか?」

「ああ、知っとるとも」

厳は、心底愉快そうに目を細める。

「ワシら『勝負師』とは真逆の……盤面ばんめんを『数字』でしか見とらん、この世で一番つまらん男よ。ワシの『ハッタリ』も『勝負勘』も、あいつのAIの前じゃ、ただの『ノイズ』でしかないからな」

「……」

「だが、そいつの娘が、火傷するほどとはな! 血はわからんもんよ!」

厳は、畳に転がった盾を無造作に蹴飛ばすと、駒箱を手に取った。

うた

厳の目が、再び「真剣師」の目に戻る。

「その火傷は、お前を強くもするし、もろくもする。その熱に浮かされて、お前が築き上げた『壁』を忘れるなら、お前はそこまでの女だ」

「……」

「奨励会に、行くそうだな」

「はい」

「よかろう」

厳は、駒を盤上に叩きつけた。

「その火傷のあとが、本物の『氷』になるまで、ワシが叩き直してやる。……もう一局だ」

「……はい!」

昨日までの、義務感から来る返事とは違う。

詩の返事には、明確な「意思」が宿っていた。


***


同時刻、天野家の静かすぎるリビング。

「ただいまー!」

晶は、首から下げた三位のメダルを振り回しながら、勢いよくリビングに飛び込んだ。

「……おかえり。どうだった、決勝は」

父・悟が、書斎から冷めた声で応じた。

「負けたー! 完敗! ボッコボコ!」

晶は、ソファに飛び乗り、大の字になった。

「でもねでもね! すっっっごい楽しかった!」

「……負けたのに、楽しい?」

悟が、サーバーの熱気を背負って書斎から出てきた。

「非合理的だ。感情のバグだな」

「バグじゃないもん! 」

晶は、ガバッと起き上がった。

「お父さんの言ってた『神楽坂 厳』の孫! 神楽坂 詩ちゃん!」

「……ほう」

悟は、眼鏡の奥の瞳を、ほんのわずかに細めた。

「どうだった。私の仮説は」

「すごかった!」

晶は、興奮もそのままに、今日の対局を再現し始める。

「私の、あの『評価値-1200』の手! 全部読まれて、完璧に受け止められて、逆にそこを起点に潰された!」

「……ほう」

悟の、表情筋が初めて動いた。

「私の『Zero』でもないのに、あの無謀な手を初見で『理解』して、その上で『最適解』で受け止めた、と?」

「うん! そうなの!」

晶は、自分のことのように嬉しそうに頷く。

「詩ちゃんね、AIみたいに冷たいんだけど、でも、なんていうか……すっごいがあった! AIじゃなかった! 本物の『人間』だった!」

悟は、娘の顔を数秒間凝視した。

負けて、こんなに喜んでいる娘を、彼は理解できなかった。

だが、彼が理解できる「データ」は、そこにあった。

「……『熱い氷』か」

悟は、顎に手を当て、ブツブツと呟き始めた。

「興味深い。論理と情念のハイブリッド。解析の必要があるな」

「でね! お父さん! 私、決めた!」

晶は、父の目の前に仁王立ちした。

「私、奨励会行く!」

悟は、娘の顔と、背後のサーバールームを、何度か見比べた。

「……そうか」

彼の声は、相変わらず平坦だった。

「ならば、明日から『Zero』の学習レベルをフェーズ4に移行する」

「ふぇーず4?」

「お前の『非合理な手』――今日指した全ての手を『Zero』に学習させる。そして、それを『Zero』が完璧に打ち破る。そのシミュレーションを、当面、10万局まで繰り返す」

「うげー! 10まんきょく!?」

晶は、悲鳴を上げたが、すぐに太陽のように笑った。

「いいよ、やってやる! 私、もっと強くならなきゃ!」

(詩ちゃんに、勝つためだもん!)

悟は、娘に背を向け、静かに書斎に戻っていった。

「……そうか」

書斎のドアが閉まる直前、彼が小さくそう呟いたのを、晶は聞き逃さなかった。

二人の少女の道が、この日、確かに交わった。

そして、それぞれの「最強の練習相手」――【修羅場のプロ一門】と【最強のAI】――との、新たな戦いが始まろうとしていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る