盤上のリリィ・デュエル ~私たちが「女性初」プロ棋士になる~
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第1話 二つの異質
夏は、まだ何者でもない小さな戦士たちが、顔を合わせる季節。
夏の盛り、アスファルトを揺らがせる
空調は最大出力で稼働しているはずなのに、大会議室に詰め込まれた百人を超える人間が発する熱気と湿気、そして畳の青い匂いが混じり合い、濃密な
「第十五回・わかば児童将棋大会」
その決勝戦を告げるアナウンスが、ややハウリング気味に響き渡った。
静まり返った最前列の対局スペース。
そこに、二人の戦士が座っている。
図らずも、今年の決勝に残ったのは二人とも少女だった。
一人は、
染み一つない白のワンピース。床まで届きそうな濡れたような黒髪は、今は母親の手で丁寧に
背筋は、まるで舞踊の師範のそれのように真っ直ぐに伸び、白い指先は膝の上で行儀よく組まれている。
その瞳は、盤面以外の何物も映していない。
周囲の喧噪、蒸し暑さ、対戦相手の少女が発する微かな焦燥感。それらすべては、彼女の世界から完璧に遮断されていた。まるで、彼女の周囲だけが分厚い氷の膜で覆われているかのように。
もう一人の少女は、
くたびれたTシャツに、膝が出たハーフパンツ。太陽の光を吸い込んで茶色く変色したショートヘアは、あちこちが自由な方向に跳ねている。
彼女は、膝の上で組まれた詩の指先とは対照的に、太ももの上で指を落ち着きなくタップさせていた。まるで、今すぐにも駆け出したい子犬のようだ。
その瞳は、目の前の少女――神楽坂 詩を、好奇心と興奮に満ちた光で射抜いていた。
「決勝戦、持ち時間各十五分、使い切りますと三十秒の秒読みです。神楽坂さん、天野さん、どうぞ」
運営の男性の声がかかる。
「「よろしくお願いします」」
声もまた、対照的だった。
詩の声は、
晶の声は、夏空に放たれる花火のように、弾け飛びそうな期待に満ちていた。
振り駒で、晶が先手と決まる。
晶は「やった!」と小さく呟き、駒箱に手を伸ばした。その指先は、まるで熱を帯びているかのように赤く染まっている。
カチリ。
晶が初手、7六歩を突く。
常識的な一手だ。
詩は無言で、すっ、と音もなく指を伸ばし、8四歩と応じた。飛車先の歩を突く、これもまた定跡。
(なんだ、普通じゃん)
晶は少しだけ口を尖らせた。
予選からここまで、この「氷の人形」みたいな女の子は、ただの一度もミスをしなかった。相手がどんな手を指そうと、AIの評価値が示す「最善手」だけを指し続けてきた。
父の書斎にある、あの馬鹿でかいサーバーが吐き出す数字と、この子の指し手は、きっと同じだ。
(つまんない)
父は言う。「将棋は解決済みのゲームだ」と。
父が開発したAIは、もう何年も前に人間の「名人」を打ち負かした。「人間の独創性など幻想だ。すべては計算可能な評価値に収束する」と、父はニコリともせずに断定する。
晶にとって、将棋とは「父の論理」への反逆であり反証だった。
AIが「悪手(評価値-800)」と切り捨てる手が、人間の心を揺さぶり、盤面を
カチリ。カチリ。
序盤の駒組みが進む。
(この子、本当にAIみたいだ)
晶は、目の前の詩の完璧な指し手に、焦燥ではなく興奮を覚えていた。
(この子なら、私のメチャクチャ、全部受け止めてくれるんじゃない?)
カチリ。
詩の指が、6九玉と囲いに入る。
完璧なタイミング。完璧な手順。
その瞬間、晶の口元に、
彼女は、駒台に手を伸ばすふりをして、盤面のど真ん中、まだ戦場にすらなっていないはずの場所に指を伸ばした。
カチリ。
5五歩――。
会場の空気が、凍った。
いや、正確には「どよめいた」。
観戦していた大人たち、特に地域の将棋クラブで「先生」と呼ばれているような老人たちが、息を呑む。
「な……なんだ、あの一手は」
「早すぎる。無謀だ。中央が薄くなるだけだ」
「あんな手、見たことがない」
矢倉の常識を根底から覆す、無謀としか思えない一手。
AIに読み込ませれば、瞬時に「悪手」と断定され、評価値のグラフが奈落の底に落ちるであろう、自殺行為のような手だった。
だが、詩は動じなかった。
その無表情の奥で、彼女の思考は冷徹に回転していた。
(意味が、わからない)
詩の将棋は、祖父の教えそのものだった。
伝説の
ただ、こう言った。
「詩。将棋ってのはな、ケンカだ。相手が殴りかかってきたら、避けたり、受け止めたりするだろ。一番ダメなのは、相手の手を見ずに自分の理屈だけで殴ることだ。相手の『勝ちたい』って気を、根元からへし折れ。相手がミスをするまで、お前は完璧な『壁』になれ。相手が焦り、血を流し始めた瞬間を逃がすな」
祖父の言う「壁」とは、完璧な受けだ。
相手のどんな手にも、最も効率的で、最も堅実な「正解」を返し続けること。そうして相手の可能性と希望を徹底的に潰すこと。
詩は、祖父の一門に集うプロ棋士たち――A級の猛者たちとの練習対局(という名の「修羅場」)で、その
だから、わかる。
目の前の少女、天野 晶の手は、確かに定跡から外れている。
だが、この子の目は相手を外していない。この一手には相手の心を目掛けた熱がある。
それは、A級棋士たちが放つ「殺気」とも、祖父の「勝負勘」とも違う。
もっと純粋な、原色の、燃え盛るような「楽しい」という感情の発露。
まるで「ねえ、こんなの君は知らないでしょ?君ならどうする?」と誘っているかのよう。
(この手は、私への挑戦状だ)
詩は、初めて対局相手を「敵」としてではなく、一個の「現象」として認識した。
まるで、制御不能な自然現象――夏の嵐や、突然の落雷に遭遇したかのように。
カチリ。
詩は、その無謀な一手に対し、最も
同歩。
「あ、取った!」
「そりゃ取るだろう。これで天野さん、中央がガタガタだ」
「勝負あったな。神楽坂さんの勝ちだ」
大人たちの囁き声が、晶の耳にも届く。
(ほら、お父さん。みんなそう言う)
晶はTシャツの袖で、じわりと滲んだ額の汗を拭った。
(でも、違うんだ)
AIは、この手を「無謀」と評価する。
人間は、この手を「定跡外れ」と笑う。
(でも、この子――
晶は、さらに信じられない手を指す。
取られた歩を取り返すのではなく、反対側の銀を、玉から引き剥がすように進めたのだ。
3三銀――。
「「「!?」」」
もはや、どよめきは声にならない。
観戦していた大人たちは、目の前で起きていることが理解できなかった。
自ら中央を薄くし、さらに玉の守りの銀まで戦場に送る。それは「攻め」ではなく、ただの「自爆」だ。
「おい、天野って子の師匠は誰だ」
「知らん。あんな無茶苦茶な将棋、教えるヤツがいるか」
「神楽坂さんのほうが可哀想だ。決勝がこんな茶番で」
だが、詩だけは、その手の意図をつかんでいた。
ワンピースの膝の上で組まれた指先が、汗でじっとりと湿る。
(違う。この手は、繋がっている)
5五歩は、AIの評価値を欺くための囮。
本命は、この3三銀からの、玉の頭上を狙った無謀な一点突破。
それは、AIが「最も可能性が低い」と切り捨てる、人間的な、あまりにも人間的な一手だった。
(最善手を指し続ければ勝てる。でも、一つでも差し違えたら逆転するハメ手だ)
(決勝のこの場面で、絶対に間違えない
(この子、面白い!)
詩は、初めて将棋盤を前にして、血が沸き立つような感覚を覚えた。
祖父と指す時の、ヒリつくような緊張感とは違う。
A級棋士たちに挑む時の、重苦しい圧迫感とも違う。
まるで、冷たい氷で満たされた水槽に、
詩の研ぎ澄まされた思考が、晶の熱によって沸騰していく。
「……詩ちゃん、どうしたの?」
不意に、晶が声をかけた。
詩が、微動だにせず盤面を睨みつけたまま、もう三十秒近くも止まっていたからだ。
「もしかして、お腹痛い?」
「……静かに」
詩は、かろうじてそれだけを絞り出した。
「あ、ごめん! 集中してたんだね!」
晶は悪びれもせず、にぱっと笑った。
(うるさい)
(熱い)
(この熱が、私の「氷」を溶かそうとしている)
詩は、深く、深く息を吸った。
石鹸の匂い。畳の匂い。そして、目の前の少女から発せられる、夏の太陽のような匂い。
それら全てを肺に取り込み、思考を再構築する。
(
(A級棋士なら、どう指す)
(違う!)
(私なら、どうする)
カチリ。
詩の指が、盤上に吸い込まれる。
それは、晶の無謀な攻めを真正面から受け止める、「正解」でありながら、最も冷酷な一手だった。
晶の攻めの起点、その「熱源」そのものを、ピンポイントで潰しにかかる一手。
「……あ」
今度は、晶が息を呑む番だった。
(ウソ。これも読まれてた?)
自分の「直感」が、まるで最初から知られていたかのように完璧に封殺された。
(この子、やっぱり、AI《・・》だ)
だが、父のAIとは決定的に違う。
父のAIは、晶の「無謀」な手を「理解できない」と切り捨てる。ただ無視する。
目の前の少女は、晶の「無謀」を完璧に理解した上で、その喉元に冷たい刃を突き立ててきた。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
それは恐怖ではなかった。
歓喜、と呼ぶべきものだった。
(同い年で女の子で、こんな子がいる!)
「すごい……すごいよ、詩ちゃん!」
晶は、思わず盤面から顔を上げた。
「私のやりたいこと、全部わかってたんだね! すごい! 楽しい!」
対局中に、満面の笑みで相手を褒め称える。
前代未聞の光景に、大人たちは呆気にとられている。
「……あなたも、すごい」
詩は、初めて盤面から顔を上げ、晶の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「私の『壁』を、本気で壊そうとしたのは、あなたが初めて」
「えへへ、そう? でも、まだ壊れてないけどね!」
「……壊させない」
三往復目。いや、これが本当の「初手」だった。
カチリ、カチリ、カチリ――。
そこからの対局は、「対局」というよりは「現象」だった。
炎が燃え盛り、氷壁がそれを阻む。
氷が溶けた蒸気が、さらに炎を煽る。
観客は、もう誰も「定跡」や「悪手」の話はしていなかった。
ただ、目の前で繰り広げられる二人の少女の「異質な才能」の激突に、息を呑んでいた。
勝負は、一時間後。
晶の猛攻がほんのわずかに息切れした瞬間を、詩の「氷」が見逃さなかった。
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