第2話:あたたかなもの

歌丸の案内で訪れたのは、見た所、村で一番大きな建物だった。

「ごめんください、歌丸です、ただいま帰りました」

ここでも、身の丈より長い棒を構え軒先に立っていた黒装束の男に、歌丸が呼びかける。

「話はきいている。そちらの少年と共に入られよ」

男は低い声でそう告げた。

建物に入るとすぐに一段高い板の間になっていた。

そこへ下働きと思われる女が数人やってきた。

「あらあら、歌丸坊ちゃん、よう帰ってこられました」

そのなかでも一番年上と思しき中年の女が、湯を張った手桶を用意させる。

歌丸と異朱は促されるまま、手桶で足を洗ってもらう。

異朱としては、このような扱いは初めて受けたので、女たちの態度といい、もしかして歌丸は相当な金持ちの御曹司なのではないかと思えてきた。

足がさっぱりしたところで、二人は案内されるままに奥の間へと進んでいった。

両側を襖に挟まれる形で、暗い廊下を案内人の明かりを頼りに、いくつもの角を曲がってゆく。

そうして、再び外の陽の光が差し込む縁側へと歩み出たところで、「こちらです」と案内人が止まった。

目の前には閉じられた襖がある。

歌丸はうなずき、「失礼します、歌丸です」と大きく声をあげた。

すると襖は内側からするすると開いた。

歌丸が部屋の中へと入ってゆこうとするので、肩を抱いていた異朱も引きずられるようにして中へと足を進める。

薄暗い部屋の様子を把握するのにしばしの時間を要したが、目が慣れてくると、畳をいくつも並べた大きな部屋であることが見て取れた。

異朱としては、畳など町の慈念寺で見た、色が褪せてほつれたものしか知らなかったので、そのかぐわしい香りも含め、目を丸くしてあたりを見回すのだった。

部屋の中には、二人を挟むようにして、両側に黒装束の大人たちが等間隔に座っていた。

そして最奥には、御簾が半分ほど落ちており、その向こうに人が幾人かいるのが見えるのだった。

しばらく口をぽかんと開けて辺りを見回していた異朱であったが、歌丸がその場に腰を降ろしたので、慌てて腰を降ろした。

「歌丸、ただいま戻りました」

居住まいを正した歌丸が、正面の御簾に向かって声をあげる。

「うむ、よう帰った」

御簾の向こうから聞こえてきた声は、年老いた男のものであった。

「傷を負ったというが、大事ないか」

今度は、御簾のすぐ手前に座っていた黒装束の男性が尋ねる。こちらは中年の男のようだった。

「はい、この異朱という親切なお方に助けていただきました」

途端に部屋中の視線が異朱に集まる。

異朱は視線をどこへやったらよいのか分からなくなり、たまらず歌丸を見た。

「彼にお礼を差し上げたいと思います。我が家でくつろいでもらってもよろしいでしょうか」

歌丸が続ける。

「うむ、よかろう」

御簾の内側から短く返事が聞こえた。

「ありがとうございます」

歌丸はそう言うと、今度は異朱に目で合図をして立ち上がり、礼をとった。

部屋の外に出ると日の光が目をついてきた。

あまりのまぶしさに目を細めた異朱であったが、よく見ると雪がやんでおり雲間から日が刺しこみ地面につもったうすい雪にちらちらと反射しているのだった。

気がつくとそばに案内人が膝をついており、二人が歩き始めるのを待っていた。

来た時と同じ道順なのかは分からなかったが、やはりくねくねといくつもの角を曲がり暗い廊下を進んでいった。


歌丸が案内した「我が家」というのは、先ほどの屋敷から2軒ほど先にあった。

「こっち」

という歌丸に促されるまま、異朱は歩を進める。

家の前の大きな庭を進んでゆくと、一軒の屋敷が見えてきた。

正面の入り口をくぐると土間になっており、そこに一人の中年の女がいた。

女は歌丸を見ると、ぱっと笑顔になり、両手を大の字に広げた。

「歌丸!」

女は異朱ごと歌丸を抱きしめた。

「ただいま戻りました、母上」

その言葉に、異朱はぎょっとした。

母のいない異朱にとって、はじめて知る母の腕であった。

歌丸により簡単に紹介された異朱を前に、女は「空蝉」と名乗った。

二人は囲炉裏のある畳の間へと移った。

囲炉裏の中心では味噌汁が煮えており、異朱はふと今頃ひとりで小屋にいるであろう、おばあを思った。

「あったかいからね」

と空蝉に味噌汁を振舞われ、異朱はどこか恥ずかしさを覚えながら椀に口をつけた。

二人が勢いよく味噌汁をすする音が、湯気の立ち昇る小屋の中に響く。

その中で、空蝉は二人を包むようにただ笑っている。

「良太たちは?」

と、椀を空にした歌丸が尋ねた。

空蝉は「裏に」と短く答える。

裏というのは家の裏のことだろうか、と異朱は尋ねたかったが、親子の会話に口を挟むのははばかられ、空になった椀に中身もないのに口をあててやりすごしていた。

それを読んだかのように、歌丸が「裏っていうのは家の裏にある山のことなんだ」と異朱に説明した。

話の流れから、「そこに何かあるのか?」と異朱は尋ねる。

「修行の場なんだ」

歌丸は短く答えた。

「修行?」

「そう、修行」

急に口の重たくなった歌丸に、異朱はどこかためらいを覚える。

「なんの?」

聞いてもよかったのか分からなかったが、勢い、その言葉が異朱の口をついて出た。

「僕ら一族は、忍なんだ」

一瞬の沈黙がおりる。

異朱の口が開いた。

「忍とはなんだ」

歌丸はそれを聞いて、ふっとほほ笑んだ。

それはどこか安堵したような笑みだった。

「お金をもらって何でもする仕事だよ」

異朱は眉をぴくりと上げた。

「何でも?」

歌丸の表情がこわばる。

「人殺しでもか」

歌丸の目がすっと横に伸びる。

「ああ、人殺しでも」

空蝉は二人のやりとりを笑顔で黙って聞いている。

そこへ、「こら客人を脅してどうする」という大人の男の声が響いた。

声のする方へ振り返ると、そこには黒装束の男が立っていた。

声に聞き覚えがあった。

異朱は記憶を探る。

「驚かせてすまんな、私は歌丸の父だ。異朱といったな、よろしくな」

その声を聞いて、異朱ははっと膝を打った。

そうだ、先ほどの大屋敷の中で、御簾の手前にいた黒装束の男の声だ。

それが歌丸の父親――。

ここでも、父親のいない己を振り返って、異朱は高揚するものを感じた。

今、俺はひとつの家族の中にいる。

それは村のどこかの家族を遠巻きに眺めるしかしてこなかった異朱にとって、間違いなく特筆すべき体験だった。

「おかえりなさい、父上」

「ああ、今戻った。足の具合はどうだ?」

「おかげさまで、大事ございません」

父子のやりとりを、どこか恥ずかしさを感じながら異朱は物珍し気に見やる。

異朱の父は「洞耶」と名乗り、囲炉裏の残された空席を埋めた。

「もうすぐ裏から良太も戻ってくる。もう日も落ちる頃だから、今夜はうちに泊まりなさい」

そう洞耶に言われ、異朱はひとり小屋にいるおばあを思った。

「そういうわけにはまいりません。家に残してきた者がいるのです」

異朱はそう訴えた。

「では家までの道のりを教えてくれ。里の者を使いに出そう。今夜は帰れぬ旨を伝えてきてやろう」

そこまで言われては断るのも失礼な気がして、異朱は洞耶の言葉に甘えることにした。

そうと決まると歌丸はぱっと笑顔になり、やれ一緒に寝るだの、風呂に入るだの言いだした。

「もう、歌丸はもうすぐ元服ですよ。もっとちゃんとなさって」

と空蝉が頬を膨らませる。

「はぁい」

と顔いっぱいの笑顔で歌丸が答える。

それを見守る洞耶。

もうすぐ良太という弟も帰ってくるらしい。

歌丸の家族を目の前にしながら、異朱はひとり、心の内から湧いてくるこのあたたかなものは何だろうと思っていた。

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