人質市場(ヒトジチマーケット)――あなたの価値は、いくらですか?

ソコニ

第1話「評価額3800万円の男」



渋谷スクランブル交差点を歩く人々の頭上に、薄く青白い光が浮かんでいる。

ホログラムタグ。そこに表示されるのは、名前ではなく数字だった。

『¥52,400,000』

『¥31,200,000』

『¥89,750,000』

2027年。政府公認の個人価値評価システム『HitoBank』が全国民に適用されて三年が経つ。学歴、職歴、健康状態、SNSフォロワー数、遺伝情報——あらゆるデータがAIによって解析され、人間の「市場価値」が算出される。

価値の高い者は、投資を受けられる。

価値の低い者は、取引される。

それが、この国の常識だった。


河野慎一の頭上に浮かぶ数字は、『¥38,000,000』。

42歳。中堅商社の営業部に15年勤めたが、会社は先月倒産した。妻には三年前に逃げられ、子供はいない。持病はないが特技もない。資格は普通自動車免許のみ。SNSはやっていない。

「市場価値3800万円、か」

河野はスマートフォンの画面を見つめた。HitoBankアプリが表示する自分のプロフィール。そこには『投資適格:C』『流動性:低』『リスク:中』と冷たく記されている。

退職金は出なかった。貯金は底をつきかけている。転職活動を始めたが、どの企業も河野のホログラムタグを一瞥しただけで、「また連絡します」と微笑む。

その微笑みの意味を、河野は知っている。

——価値が低い。

夜。ワンルームのアパートで缶ビールを開けようとしたとき、スマートフォンが震えた。

通知:『投資オファーが届きました』

河野は画面をタップした。


投資家A: ¥10,000,000

投資家B: ¥8,000,000

投資家C: ¥7,000,000

投資家D: ¥9,000,000

投資家E: ¥8,000,000

合計投資額: ¥42,000,000

契約条件:

今後5年間の人生決定権51%を投資家グループに譲渡。

契約期間中、投資家の指示に従うこと。

違反した場合、全額返済義務が発生。

河野は画面を何度も読み返した。4200万円。自分の価値より400万円も高い。

指が震える。画面の下部に表示されている『契約する』ボタンに、親指が触れる。

——やめろ。これは罠だ。

頭の中で声がする。だが、別の声もある。

——4200万円あれば、やり直せる。

河野は目を閉じた。そして、ボタンを押した。


翌朝、河野のスマートフォンに地図が送られてきた。指定された場所は、港区のタワーマンション最上階。

エレベーターを降りると、白いスーツの女性が待っていた。

「河野慎一様ですね。お待ちしておりました」

女性は微笑み、部屋の扉を開けた。

全面ガラス張りのリビング。東京湾が一望できる。床には大理石。ソファはイタリア製。河野のアパートが、十個は入る広さだった。

「こちらが、今後のあなたの居住空間です」

河野は言葉を失った。

「契約書にサインをお願いします」

差し出されたタブレット。河野は震える手でサインした。瞬間、スマートフォンが震える。

『契約完了。投資金¥42,000,000があなたの口座に振り込まれました』

河野は膝から崩れ落ちそうになった。


その日から、河野の生活は一変した。

高級マンション。専属秘書。運転手付きの黒いセダン。毎朝届く、栄養士が監修した食事。ジムの会員証。高級ブランドのスーツ。

すべてが、用意されていた。

だが——

「本日のランチを投票で決定します」

スマートフォンに通知が届く。

選択肢A: 寿司

選択肢B: イタリアン

選択肢C: 中華

数秒後、結果が表示される。

結果: イタリアン(3票)

河野は寿司が食べたかった。だが、アプリが指定したレストランに向かう。

夜、寝る前にまた通知が来る。

就寝時刻を投票で決定します

選択肢A: 22:00

選択肢B: 23:00

選択肢C: 24:00

結果: 22:00(4票)

河野はまだ眠くなかった。だが、ベッドに入る。

翌日、朝の通知。

本日の服装を投票で決定します

選択肢A: 紺のスーツ

選択肢B: グレーのスーツ

選択肢C: カジュアル

結果: カジュアル(3票)

河野は指定されたクローゼットを開ける。白いシャツとベージュのチノパンが用意されている。

着替えながら、河野は気づいた。

——投票しているのは、誰だ?


一週間が経った。

通知の頻度が増えていく。

「今日会う人物を投票で決定します」

「散歩コースを投票で決定します」

「夕食の量を投票で決定します」

「シャワーの時間を投票で決定します」

すべてが、決められる。

河野は秘書に尋ねた。

「投資家は、誰なんですか?」

秘書は微笑む。

「匿名です。それが契約条件ですので」

「なぜ、こんなことを?」

「投資ですから」

秘書は答えない。ただ、次の通知を確認するよう促す。


二週間目。河野は気づいた。

スマートフォンのアプリに、小さなカメラアイコンがある。タップすると——

現在の視聴者数: 5人

投資家たちは、河野を「見ている」。

24時間。

トイレも、シャワーも、寝室も。

すべてが、配信されている。

河野は吐き気を覚えた。


三週間目。通知の内容が変わった。

本日の会話内容を投票で決定します

選択肢A: 秘書に感謝を伝える

選択肢B: 秘書に不満を言う

選択肢C: 秘書を無視する

結果: 秘書に不満を言う(3票)

河野は秘書の前に立つ。口が勝手に動く。

「あなたは、無能だ」

秘書は表情を変えない。ただ、メモを取る。

河野は自分の声に驚く。言いたくなかった。だが、言ってしまった。

その夜、また通知が来る。

明日の行動を投票で決定します

選択肢A: ジムで運動

選択肢B: 図書館で読書

選択肢C: 自宅で待機

結果: 自宅で待機(5票全員一致)

翌日、河野は一日中、部屋にいた。何もしない。ただ、窓の外を見つめる。

投資家たちは、それを見ている。


一ヶ月目。河野は理解した。

自分は「人形」だ。

投資家たちは、河野の人生を「操作」して楽しんでいる。それが、この契約の本質だった。

河野は逃げようとした。だが、ドアは開かない。秘書に頼んでも、微笑むだけで何もしない。

「契約違反です」

そう言われる。


その夜。

河野のスマートフォンに、新しい通知が届いた。

投票: 河野慎一を自殺させる

選択肢A: Yes

選択肢B: No

河野は画面を見つめた。手が震える。

数秒後、結果が表示される。

結果: Yes(4票)

反対: No(1票)

河野の体が動いた。

自分の意思ではない。足が勝手に玄関に向かう。エレベーターに乗る。最上階へ。屋上への扉が開く。

風が強い。

河野は屋上の縁に立つ。眼下に、渋谷の夜景が広がっている。

——飛び降りろ。

頭の中で声がする。システムが、脳に信号を送っている。

河野の足が一歩前に出る。

——やめろ。

もう一歩。

——飛べ。

河野の体が浮く——

その瞬間。

ピロン

通知音。

河野の動きが止まる。スマートフォンの画面を見る。

拒否権発動

投資家Eが契約解除を申請しました

契約は即時終了します

河野は呼吸を取り戻す。体の支配が解ける。

だが——

次の通知が表示される。

損失補填として、臓器提供契約に移行します

対象臓器: 腎臓×1、肝臓の一部、角膜×2

摘出スケジュール: 本日23:00

河野の視界が暗くなる。

背後で、足音がする。

白衣を着た人々が、近づいてくる。

河野は叫ぼうとした。だが、声が出ない。

体が倒れる。

意識が遠のく。

最後に見えたのは、自分の頭上に浮かぶホログラムタグだった。

『¥38,000,000』

数字が、ゆっくりと減っていく。

『¥32,000,000』

『¥28,000,000』

『¥15,000,000』

——これが、俺の価値か。

河野の意識が途絶える。


美咲のパート

ヒューマン・キャピタル社、データ分析部門。

深夜。美咲はモニターを見つめていた。

画面には、河野慎一のプロフィールが表示されている。

『契約完了』

赤いスタンプが、デジタル書類に押される。

美咲は何も言わない。表情も変えない。ただ、マウスをクリックする。

次のファイルが開く。

『案件No.10247: 相川美咲(29歳・料理人)』

美咲は自分と同じ名前を見て、一瞬だけ手を止める。

だが、すぐに作業を再開する。

これは仕事だ。

感情は、必要ない。

美咲はコーヒーを一口飲み、キーボードを叩き続ける。

窓の外、渋谷の夜景に無数のホログラムタグが瞬いている。

すべての人間に、値札がついている。

それが、この世界の常識だった。


――第1話 終――

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