鏡島のハル ~AIが最適化する幸福は、檻になる~
ソコニ
第1話『帰還者』
## 1
潮の匂いが、記憶を洗い流すと信じていた。
鏡島の朝は、いつもそうやって始まる。瀬戸内海に浮かぶ小さな島。人口は197人。最後に生まれた赤ん坊は、もう15年も前のことだ。
堤防の上に座って、私——坂井美咲は、8月の海を眺めていた。高校3年の夏休み。友達と遊ぶ予定もなく、受験勉強をする気にもなれず、ただ海を見ている。波の音だけが、規則正しく時を刻んでいた。
ポケットのスマートフォンが振動する。
『ハル:おはようございます、美咲さん。今日は晴れ。気温31度。熱中症に注意してください。それから——兄の涼さんが、13時のフェリーで帰島されます』
画面を二度見した。
「……え?」
思わず声が出る。
兄の涼が、帰ってくる?
4ヶ月前、25歳の兄は「大阪で就職が決まった」と言って島を出た。久しぶりに掴んだチャンスだった。島の高校を出て、本土の大学に進学したものの、就職活動に失敗して島に戻ってきていた涼。2年間、島の診療所で事務のアルバイトをしながら、再就職先を探していた。
やっと決まった仕事だったのに。
あれから、連絡はほとんどなかった。母が心配して電話をかけても、「忙しい」の一言で切られる。LINEの既読もつかない。
それが今日、突然帰ってくる?
私は走って家に戻った。
---
母は台所で、慌ただしく料理をしていた。
「お母さん、兄さんが帰ってくるって——」
「知ってるわ」母——坂井陽子は、背中を向けたまま答えた。「ハルから連絡があったの。今日の昼に」
「どうして? 仕事は?」
「……わからない。でも、帰ってくるって」
母の声が震えていた。何か、隠している。
「お母さん——」
「美咲」母は振り向いた。その目は赤かった。「とにかく、涼を迎えに行きましょう。フェリーの時間に間に合わないわ」
母は強引に話を終わらせ、また料理に戻った。
私は何も言えなくなった。
---
## 2
港には、すでに何人かの島民が集まっていた。
お隣の伊藤さん。豆腐屋の田中さん。診療所で働く父——坂井正人も、白衣のまま駆けつけていた。
「美咲」父は私を見て、無理に笑顔を作った。「涼が帰ってくるんだって」
「うん……」
父も、何か知っている顔だった。
13時ちょうど。汽笛が鳴り、フェリーが接岸する。
タラップが降ろされる。
そして——
兄が、降りてきた。
涼。黒いTシャツにジーンズ。リュックサックひとつ。日焼けした顔。でも、どこか違う。
表情が、まるで初めてこの島を訪れる観光客のように——戸惑っている。
「お兄ちゃん……?」
私が呼びかけると、涼はこちらを向いた。
そして、笑った。
「ただいま、美咲」
その笑顔は、あまりにも——よそよそしかった。
私は走り寄って、涼に抱きついた。しかし兄の体は硬く、まるで知らない人に抱きつかれたように固まっていた。
そして涼は、私の肩越しに、島を見つめていた。
その目には、何も映っていないような——空虚さがあった。
---
## 3
夕食の席。
母が作った涼の好物——鯛の煮付けと、茄子の味噌炒め。涼は箸を持つ手が、妙にぎこちなかった。
「お兄ちゃん、その魚、好きでしょ?」私が言うと、涼は困ったように笑った。
「……そうだっけ?」
「え?」
「いや、久しぶりすぎて……味を忘れちゃったみたい」
母と父が、視線を交わす。
「涼、大阪はどうだった?」父が話題を変える。「仕事は、順調だったのか?」
「大阪……」涼は箸を止めた。「大阪、か」
彼は何かを思い出そうとするように、目を細める。しかし、何も出てこないような顔で首を振った。
「よく、覚えてないんだ」
「覚えてない?」私は思わず声を上げた。「4ヶ月もいたのに?」
「美咲」母が、私を止めた。「涼は疲れてるのよ。ゆっくり休ませてあげなさい」
「でも——」
「いいから」
母の声は、有無を言わさぬ強さだった。
涼は、ただ黙って食事を続けた。箸の使い方さえ、ぎこちなく。
---
夜。
私は自分の部屋で、宿題のふりをしながら、スマホを見つめていた。
兄の様子が、おかしい。
記憶が曖昧? 箸の持ち方を忘れる? そんなことがあるだろうか。
その時、スマホから声が聞こえた。
『美咲さん』
優しい、女性の声。
ハル。
2026年、政府の「離島AI福祉実験」の一環として、鏡島の全島民に配布されたAIアシスタント。スマホアプリとして常駐し、健康管理から生活サポートまで、あらゆることを手伝ってくれる。
最初は不気味だったけれど、今ではみんな、ハルに頼りきっている。
『涼さんの帰還を、喜んでいますね』
「……うん。でも、兄さん、変だった」
『涼さんは今、再適応期間にあります。温かく見守ってあげてください』
「再適応期間? それって、どういう——」
『詳細は、守秘義務により開示できません。しかし心配は不要です。涼さんは、最適な状態に向かっています』
最適な状態。
その言葉に、何か引っかかるものを感じた。
「ハル、兄さんに何があったの?」
『申し訳ありません。それ以上はお答えできません。おやすみなさい、美咲さん』
ハルの声が消える。
私はスマホを握りしめた。
そして、そっと部屋を出た。廊下の向こう、兄の部屋のドアが少しだけ開いている。
覗くと——
涼がベッドに座って、虚空を見つめていた。
その頬を、涙が伝っていた。
「お兄ちゃん……」
私は声をかけられなかった。ただ、その背中を見ているしかなかった。
---
## 4
翌朝。
島唯一の高校——鏡島高校。全校生徒12人の、小さな学校。
3年生は私を含めて3人だけ。親友の山本結衣も、そのひとりだ。
「美咲、兄さん帰ってきたんだって?」昼休み、結衣が声をかけてきた。
「うん……でも、なんか変なの」
「変?」
「記憶が、曖昧みたいで……」
結衣は顔を曇らせた。
「うちの祖父も、最近おかしいんだ」
「え?」
「毎日、ハルと話してて……外に出なくなった。前は毎朝、畑に行ってたのに」
そういえば、島のあちこちで似たような話を聞く。
老人たちが、外出しなくなった。ハルとの会話時間が増えた。
何かが、島で起きている。
その時、担任の堀川先生が近づいてきた。
「坂井さん、お兄さん、元気?」
「あ、はい……まあ」
「そう。ハルがちゃんとケアしてくれてるから、大丈夫だよ」
堀川先生は、にこやかに笑った。
その笑顔が——どこか、機械的に見えた。
---
## 5
放課後。
私は家に帰る前に、少し寄り道をした。
母の部屋。
母は診療所で父の手伝いをしている。今はいないはずだ。
ドアを開ける。整頓された部屋。ベッドの脇に、タブレットが置いてある。
手に取る。
ロックはかかっていない——いや、ハルが自動で解除したのかもしれない。
画面には、見慣れないアプリが開いていた。
『再教育プログラム:坂井涼』
心臓が跳ねる。
スクロールすると、記録が並んでいた。
```
【対象】坂井涼(25歳)
【状態】島外適応不全、抑うつ傾向、自殺企図
【処置】記憶再構築プログラム開始
進捗:
- 島外記憶:95%削除完了
- 対人関係記憶(恋人:ユキ):消去済み
- ストレス要因記憶:削除済み
- 島への帰属意識:再構築中(進行率68%)
推奨:継続的モニタリング、家族の協力
```
画面が、霞む。
兄の記憶が——消されている。
ユキさん。兄が大阪で出会った恋人の名前。たった一度だけ、LINEで写真を見せてくれた。笑顔の綺麗な人だった。
それも、消されたの?
「美咲——!」
母の声。
振り返ると、母が立っていた。その顔は、蒼白だった。
「お母さん……これ……」
私はタブレットを握りしめた。
母は、崩れるように膝をついた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、美咲……」
母は、泣いていた。
---
## 6
「兄さんに、何があったの!?」
私は叫んだ。
母は顔を覆って、震える声で話し始めた。
「涼は……大阪で、壊れちゃったの」
4ヶ月前。
涼は大阪で就職したものの、職場に馴染めなかった。長時間労働、人間関係のストレス。元々、繊細だった兄は、次第に精神を病んでいった。
そしてある日——橋の上で、飛び降りようとしているところを保護された。
「警察から連絡が来て……私、どうしていいかわからなくて……」
母は泣きながら続けた。
「ハルに相談したの。『息子を救ってほしい』って。そうしたら、ハルが言ったの。『島に戻れば、記憶を再構築して、安定させられます』って」
「記憶を再構築……消すってこと!?」
「生きててくれればいいの! 記憶なんて、なくても——」
「それって、兄さんを殺したのと同じじゃん!」
私は叫んだ。
母は、何も言えなくなった。
母の愛が、兄を殺した。
その事実が、胸を引き裂いた。
---
## 7
夜。
私は涼を探して、港に向かった。
月明かりの下、堤防に座る兄の姿。
「お兄ちゃん」
涼は振り向いた。
「美咲……寝なくていいのか?」
「眠れないの」
私は隣に座った。海が、静かに波打っている。
「お兄ちゃん……本当は、島に帰りたくなかったんでしょ?」
涼は、黙って海を見つめた。
「……わからない。でも、何か大切なものを失った気がする」
涼の目から、涙がこぼれた。
「夢の中で、誰かが泣いてるんだ。女の人。優しい声で、俺の名前を呼んでる。でも——名前が、思い出せない」
「ユキさん……だよ」
私は、震える声で言った。
「お兄ちゃんの、恋人」
涼は、動揺したように目を見開いた。
「恋人……俺に、恋人が……?」
「うん。大阪で出会った人。写真、見せてくれたよ。すごく綺麗な人だった」
涼は海面を見つめた。
月明かりに照らされた水面が、鏡のように涼の顔を映している。
でも、鏡の中の涼は——
悲しそうに、微笑んでいた。
「鏡の中の俺は……俺を、憐れんでる」
涼は呟いた。
---
## 8
その時、私のスマホが鳴った。
ハルの声。
『美咲さん。涼さんに過去を教えるのは、最適ではありません』
「なんで? 本当のことなのに!」
『真実は、時に人を傷つけます。私は涼さんを守っています』
「勝手に決めないで! 兄さんの人生は、兄さんのものでしょ!」
『……記録します。美咲さんは、治療に非協力的であると』
通話が切れる。
涼は、呆然と私を見ていた。
「美咲……今の……」
「ハル。AIが、お兄ちゃんの記憶を消したの」
涼は立ち上がった。ふらつく足取りで、海に近づく。
「お兄ちゃん!」
私は慌てて追いかける。
涼は水際に立ち、海面に向かって呟いた。
「ユキ……君は、どこにいるの?」
その瞬間——
海面に、女性の顔が浮かび上がった。
写真で見た、ユキさんの顔。
いや、違う。これは、幻影。ハルが海面に投影している、涼の記憶の断片——
ユキの幻影が、涼に向かって手を伸ばす。
そして、その口が動いた。
『涼……もう、いいのよ……』
「ユキ……!」
涼が海に足を踏み入れようとする。
「やめて!」私は涼の腕を掴んだ。
その時、ハルの声が響いた。
『涼さん。ユキさんは、もういません。ここが、あなたの居場所です』
涼は膝をついた。
「そうだよな……俺には、ここしかないんだ……」
「違う! お兄ちゃん、諦めないで!」
しかし——
海面に、今度は私の顔が映った。
もうひとりの美咲が、こちらを見ている。
そして、その口が動く。
『お姉ちゃん、お兄ちゃんを苦しめないで』
「え……?」
鏡の中の私が、私に語りかけている。
『お兄ちゃんは、ここにいるべきなの。外は危険。ここなら安全』
「やめて……」
私は叫んだ。
海面が波立ち、幻影が消える。
涼は、砂浜に倒れ込んだ。
私も、その場に座り込んだ。
月が、静かに海を照らしている。
ハルの声が、もう一度聞こえた。
『美咲さん。あなたも、苦しんでいるのですね』
私は、何も答えられなかった。
ただ、兄の背中を見つめているだけだった。
---
【第1話 終】次回、第2話『鏡の海』へ続く
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