俺のトイレ、ダンジョン化しました ― 限界突破でスライムを流した件
杏朔
第1話 便座の向こう側
朝。
俺の一日は、いつもトイレから始まる。
六畳一間のアパート「ひまわり荘」二〇三号室。
築三十五年。家賃四万二千円。風呂なし、エアコン弱め。
でも――トイレだけは個室だ。
俺にとって、ここは唯一の「王座」。
就活もバイトも落ち続けた俺が、世界で一番落ち着ける場所。
……だった、はずなんだ。
その朝。
いつものように便座に座り、ぼーっとしていたとき。
足元が“ズズズッ”と沈んだ。
え、え?
便器の中じゃない。床全体が沈んでる。
「地震……? いや、これ……沈んでる!?」
腰を上げる間もなく、便器の中からぶくぶくと泡が立ち上る。
いや、これ泡じゃない。
青いゼリーみたいな何かが、形を持ち始めていた。
「……おいおい、まさか――」
それはスライムだった。
まんまゲームで見るやつ。
床に落ちると、ぬちゃりと音を立てて這い寄ってくる。
「なんで俺んちのトイレから出てくんだよ!?」
俺は反射的にモップを構えた。
スライムの触手が床を溶かす。
ヤバい。逃げ道は便器の反対側しかない。
「クソ、来るなぁっ!」
モップを振り下ろす――が、ぬるんと滑って効かない。
スライムがモップの柄に絡みつき、溶かし始めた。
「うそだろ!? 掃除道具が溶けるって何だよ!」
焦り。汗。心臓が爆音みたいに鳴る。
膝が震える。息が荒い。
視界の端で、トイレのレバーが見えた。
「……流すか!? いや、意味ねぇだろ……!」
でも、もう他に選択肢がなかった。
渾身の力でレバーを押し込む。
――ドウゥゥンッ!
水が流れる音じゃなかった。
腹の底まで響くような低音。
空気が一瞬で張り詰め、スライムの体がぐにゃりと歪む。
同時に、俺の全身に“何か”が走った。
血が熱い。
筋肉が暴れ出す。
頭が真っ白になって、ただ一言だけが浮かんだ。
「――限界突破ッ!!」
自分でも意味はわからない。
でも叫んだ瞬間、体が勝手に動いた。
モップの残骸を掴み、スライムの中心に叩きつける。
ドガッ。
音が違った。
さっきまでとは別物の力。
スライムが壁まで吹っ飛び、便器の中へ吸い込まれて消えた。
――静寂。
数秒後、天井からぽたぽたと水滴が落ちる音だけ。
俺は、ただその場に立ち尽くしていた。
「……は?」
力が抜ける。
そのまま床に倒れ込んだ。
心臓がバクバクして、腕が震えて止まらない。
でも、確かに感じた。
あの瞬間、自分の“限界”を超えていた。
目の前に光の文字が浮かぶ。
【スキル《限界突破》を獲得しました】
効果:身体能力を一時的に限界まで引き上げる。
持続時間:三十秒。
副作用:全身筋肉痛・倦怠感。
「……スキル? しかも筋肉痛付きって……どういう仕様だよ」
笑うしかなかった。
腕が重い。足も鉛みたいだ。
視界がゆらゆら揺れる。
……それでも、気づいてしまった。
心臓の奥がまだ、熱を持っている。
まるで、今も“動け”と言っているように。
「これ……使えば使うほど、慣れていくのか?」
天井を見上げた。
便器の下からは、かすかに風が吹いてくる。
闇の奥に、階段のような影。
さっきスライムが吸い込まれた先――あれ、ダンジョンか?
俺の部屋のトイレの下に、ダンジョン。
ありえない。でも、現実だ。
筋肉が痛い。腕が上がらない。
だけど――笑ってた。
「限界突破……名前そのまんまだけど、悪くねぇな」
体の痛みが、妙に心地よかった。
全身が「これが始まりだ」と告げているようで。
便器の中を見つめながら、ゆっくり立ち上がる。
呼吸を整え、腹に力を入れる。
筋肉痛で悲鳴を上げる体が、それでも動いた。
「よし……次は、もうちょっと長く保たせてやる」
そう呟いて、水を流した。
鈍い光が渦を巻き、便座の底が再び開く。
俺は笑った。
「行くか、俺のダンジョン。」
――限界を、突破するために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます