第3話 約束の夜
夜の帳がゆっくりと降りていた。
施設の廊下は、どこまでも静まり返っている。
白い壁を撫でる風の音と、時折響く機械の微かな電子音だけが生を告げていた。
佐伯海斗はナースステーションの椅子に座り、報告書の文字をぼんやりと見つめていた。
紙の上では、すべてが平穏に整っている。
だが、その文字の行間に、何かが崩れ落ちる音がした気がした。
ふと、内線が鳴った。
「佐伯さん、中原さんの呼吸が荒いです」
短い声。
海斗は即座に立ち上がり、廊下を駆けた。
部屋の扉を開けると、空気が違った。
酸素チューブの音が速く、浅く響いている。
静は枕に頭を預け、天井の一点を見つめていた。
その目の焦点は、もう遠くの誰かを見ているようだった。
「中原さん、聞こえますか?」
彼は手を握る。
細く、軽い。まるで乾いた紙のように。
静の唇がわずかに動いた。
「……海斗さん?」
「はい。ここにいます。」
「桜……咲いたのね。」
「ええ。今夜は満開ですよ。」
窓の外を見れば、街灯の光に照らされて、薄桃の花びらがゆらめいていた。
風が吹くたび、花が降る。
春の雪のように。
静はゆっくりと微笑んだ。
「……あの人、来てくれた?」
海斗の喉が、乾いて音を立てた。
返すべき言葉はひとつだけだった。
だが、その一言の重さが、今夜ほど怖いと思ったことはない。
彼はほんの少し目を閉じ、息を吸った。
「――来ておられます。」
静の目が、ゆっくりと光を取り戻す。
「どこに?」
「すぐそばに。今、あなたを見ています。」
沈黙。
その静寂が、部屋いっぱいに広がる。
静の頬を、涙が伝った。
「ありがとう……ずっと、待っていたの。」
「ええ、分かっています。」
「あなた、優しい人ね。あなたの声、主人に似てるわ。」
その言葉に、海斗の胸が震えた。
笑顔を作ることもできないまま、彼は首を縦に振った。
モニターの音が、ゆっくりと間隔を広げていく。
酸素のリズムが途切れがちになる。
海斗はその変化を悟りながらも、手を離さなかった。
「中原さん、安心してください。
旦那さん、きっと……今、迎えに来ておられます。」
静の指が、かすかに動いた。
それは握り返すような、小さな動きだった。
そして――そのまま止まった。
モニターが、細い線を描いた。
音が消える。
海斗は息を詰めたまま、しばらく動けなかった。
ただ、静の顔を見つめた。
安らかな表情。
ほんの少し笑っているようにも見えた。
外では風が強くなり、花びらが舞い上がっていた。
それが窓の隙間からひとひら入り込み、静の胸元に落ちた。
海斗はそっとそれを指で取る。
温もりは、もうない。
⸻
数分後。
医師が到着し、形式的な確認が行われた。
時間、状態、記録。
淡々と処理されていく中で、海斗の耳はほとんど何も聞いていなかった。
沙織が入ってきた。
目で全てを察したのか、言葉は少なかった。
「……間に合わなかったのね。」
「ええ。」
医師たちが出て行ったあと、二人だけが残った。
部屋の中には、花の香りと微かな体温の残り香が漂っていた。
沙織はベッドの傍に立ち、静の顔を見た。
「穏やかね。まるで眠ってるみたい。」
「ええ。最期まで、幸せそうでした。」
「……嘘をついたのね。」
問いというより、確認だった。
海斗は頷いた。
「はい。」
「それでいいと思ってるの?」
「いいとか悪いとかじゃないです。
ただ……彼女が望んでいたのは、真実じゃなく、安心だったんです。」
沙織は少し目を伏せた。
「でも、あなたがその嘘を抱えて生きることになる。」
「分かってます。」
「つらくない?」
「つらいです。でも、それで誰かが救われるなら……それでいいと思ってます。」
沙織はそれ以上何も言わず、静かに部屋を出た。
ドアが閉まる音がして、海斗は独りになった。
⸻
夜半。
報告書を書き終え、机の上のペンを置いた。
時計の針が午前二時を指している。
外の風が窓を叩く。
雨が降り始めたようだ。
ふと、廊下の先から足音がした。
ゆっくりと、間を置きながら近づいてくる。
海斗は顔を上げたが、そこには誰もいなかった。
ただ、風に揺れるカーテンが、ゆるやかに波打っている。
静の部屋を覗くと、ベッドの上には白いシーツが整えられていた。
窓辺の桜が、雨に濡れながらも光を反射している。
ふと、彼はその机の上に気づいた。
古びた時計。
――止まっていたはずの秒針が、ひとつだけ動いた。
カチリ。
たった一度の音。
それは、まるで“再会の時”の刻印が応えたかのようだった。
海斗は微かに笑った。
「行けたんですね。」
その言葉が雨音に溶け、消えていく。
窓の外で、桜の花が風に散った。
薄い花びらが空を舞い、闇の中で光を反射していた。
それは、まるで誰かの“優しさ”が夜を照らすように、
静かに、確かに、そこにあった。
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