第8話




「今頃何を話しているのだろうか……」



 何回目の呟きだろうか。

 砦の中で宴席へ向かった孫黎そんれいとその娘子軍じょうしぐんの帰りを待っている武将達は、落ち着きが無かった。

 皆、座っていられないらしく、廊下や部屋の中を行ったり来たりしている。


 周瑜は考え事をしたくて部屋を出た。


 砦の外壁上への階段を上って外に出る。

 目の前に広がる一面の森を見下ろす。

 空は曇っていた。

 風が強い。

 耳を澄ますと、前方遠くから楽の音が聞こえて来る。

 僅かに樹々の間から灯りが漏れていた。



(本当に、始まった)



 何事も無ければいいがと思うが、そんなわけには行くまいと思っている自分もいる。

 ただ、自分が今見下ろしている領域に敵部隊は潜んでいなかった、その確信だけが自分を落ち着かせている。

 何が起きても手を打てると思わせる。



(姫が戻ればこの宴の真意が分かるだろう)



 呉と蜀、そして魏。

 それぞれがどのような立場になっていくのかも。



 外壁の上を歩いて行くと、前方の外壁の上に甘寧かんねいがいた。

 壁の上にあぐらをかいて周瑜と同じように森の方を見ている。

 周瑜は足を止めた。


 ……この砦に入ってから甘寧が背から愛刀を離そうとしない。


 そのことが妙に気に止まった。


「本当に始まったな」

「ずっとここにいたのか?」


 姿を見ないと思ったら、と苦笑する。

 しかし甘寧はこうして他の人間が見ていないものを本能で嗅ぎ取って、見ている時があるのだ。


 甘寧が呉に下った当初は使いにくい武将だと随分孫策そんさくに文句を言ったものだが、一度孫策に「必要最低限の命令だけを出すに留めてみてはどうだ」と言われ、そうしてみると前よりも軋轢が減った。


 今では甘寧に対しては、周瑜はその戦場での甘寧の役割だけを言うに留めている。


 残りの動きに関しては戦場の日までに甘寧自身が他の武将達の動きによって自ずと理解して行くらしい。

 結局はそれが甘寧にとっても一番動きやすいようだ。

 他の人間が三歩使ってやることを一歩でやるようなところがある男である。

 だからこそ同じ命令を与えても、他の人間と動きが違う。


 肌に合うか合わないかと言えば、周瑜は合わない。

 結局は甘寧かんねいも周瑜も自我が強すぎる者同士なのだろう。


 周瑜は自分の計略に寸分違わぬ動きをする者を求める。

 甘寧はそうではない。

 孫策もそういうところがあった。

 だから戦場では、周瑜は孫策を叱ってばかりなのだが。


 だが周瑜の、絵に何度も描いたような計略に起こる「意外」を救うのは、実は甘寧や孫策のような武将なのだった。


 丁度門前では兵達がいつでも出撃出来るよう整列していた。

 その側に淩統りょうとうの姿がある。

 落ち着きの無い武将達の中で、淩統だけは日常と同じように自分の隊をまとめて、ああして身動きせずじっと時を待っていた。


 どちらがいらぬ者でもない。

 そのどちらもが、戦場においては必要とされる。


 腕のいい楽師がいるなと甘寧が呟いた。

 周瑜の側は居心地が悪いだろうに、今日の甘寧はここから去る気配がない。



(……陸遜か)


 

 陸遜と甘寧の間に言い表し難い何かがあることは気づいている。

 何ら支障が出ないから放っておくに至っているが、思えば不思議な話だ。

 この戯びを熟知する男と真面目一本という感じの陸遜とが、どういう回路を通って結びついたのだろうか。

 陸遜はもとより色恋には疎いところがあったが、甘寧の方もいかに稀な造形をしていると言えども少年を手元に置いて愛でるような趣味を持つとも思えないのだが。


(人の心とは全く、察し難い)


「そういやお前に一つ聞きたいことがあったんだが」


 珍しく甘寧から周瑜に話しかけて来た。

「なんだ?」

孫黎そんれいの蜀への降嫁話のことだ」

「……。」

「あれ、……俺達に話す前にどこかで話したのか?」

「数日前から張昭たちと話の調整を進めてはいた。その前は孫策と殿にしか話していない」

 甘寧は組んでいた腕を解いて立ち上がった。



「――ちょっと早すぎねえか?」



 大剣を背負った甘寧の背を見遣る。


「これが孫黎の降嫁を見越しての話なら」


「……間者が紛れていると言いたいのか?」


 甘寧は答えなかったが、顔を見ればそうだと言っているのが分かる。

 甘寧が剣を離さない理由に思い至り、周瑜は言葉を紡ごうとした。




 その途端、砦の櫓にいた見張りが突然大声で叫んだ。




「周都督ととく! あれを!」




 日が落ちつつある森の方を指差している。

 眼を凝らしてみると指し示した方向に煙が一筋上がっているのが見えた。

「他に異変は?」

「ありませんが……あの一画は燃えているようです!」

「宴席のあたりだな」

 甘寧が階下に下りようとしたのを止めた。


「待て甘寧! まだ動くな」

「おい! 嫌だぞ俺はそういうのは」


 噛み付いた甘寧を周瑜が睨みつける。

 騒ぎを聞きつけて淩統りょうとうがやって来た。


「いいから先に俺を行かせろ! 動きがあったら淩統を出せよ」




「――私に指図するな、甘寧!」




 周瑜の怒声が飛んだ。


 側の淩統の背が伸びた。

 一瞬シン、となったその場に、いきなり獣の咆哮が響いて来る。

 これもまた、森の方だ。

 複数の鳴き声で、共鳴するように聞こえた。


「⁉ 今のは?」

「森の様子が変だぞ!」

 砦の外壁にいた兵士達も集まって来る。

「周瑜様、また煙が!」

 見張りの兵が叫ぶと、周瑜はどうするべきかと考えあぐねていた思考に終止符を打った。


「姫を救出に行く。淩統は兵三十騎を率いて正面の道から向かえ」


「はっ!」


「甘寧は私の隊を連れて東の道を封鎖しろ。

 魏軍が万が一入って来るとすれば森の北東の川岸しか無い。

 いいか! 深追いだけはするなよ甘寧!」


 甘寧が駆け出して行く。

 周瑜は同時に伝令兵も呼んだ。




「孫策軍を動かせ!」




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