第2話



 その夜の軍議には孫権そんけん、孫策、周瑜の三人を筆頭に城に常駐している全武将が集められていた。

 その中には孫堅そんけんの代より孫呉に仕える古参の将、黄蓋こうがいの姿もあれば、地方の守備職から今年建業に呼び寄せられたばかりの淩公績りょうこうせきの姿もあった。


 将軍達の視線の中央で、周瑜は皆に二つの報告があると言って切り出す。


「一つは魏と蜀の西の国境に動きがあったということだ。楽進がくしん率いる魏軍一万が定軍山ていぐんざんのあたりに陣を張ったとのこと。これに対して蜀は国境の守りにおよそ五千の兵を増員させている。

 現状は膠着しているが、火が付けば一気に燃え広がるだろう」


「様子を見ている、というところでしょうか」


 皆はまだ何とも言えないな、という顔をしている。


「……もう一つの報告とは?」


「蜀に同盟を提案した」


 軍議の席が一度ざわり、とする。

 陸遜も初耳のことだった。


「――そ、それは蜀と提携して魏を討つということでございますか?」


「現在我が国と魏は主に合肥がっぴ江陵こうりょう江夏こうか沿岸の三拠点において対峙している。これは昨年の冬から動かぬままだが。

 楽進はもともと襄陽じょうようの守備に任じられていた武将だ。曹操はつまり襄陽の守りを解いて定軍山へと差し向けたことになる。我々と今は対峙するつもりはないと見ていいだろう」


「ならば、今は動かずに魏の更なる動きを待つのも一案なのでは……」

「そもそも蜀も未だ開戦を決めておらぬのならば」

 将軍達も同盟は次期尚早と見ているようだ。

「均衡が崩れれば同盟も探る案も出て来るやもしれませぬし……」


 孫策そんさくが腕を組んだまま、口を開く。

「長い冬の間に三国共に兵力を整えている。魏は春を待って一番最初にその矛先を蜀へと定めたということだ。俺達も攻めか守りか。決めねばならん」

 孫権そんけんは孫策の隣で黙っていた。


「時期を逃して蜀が魏の前に瓦解したら、その手勢がそのまま呉に差し向けられるだけだ」


 孫策は弟の顔を見ながら言った。

「……。」

 孫権は孫一族の中でも一際青く染まったその双眸を開いたままじっと考え込んでいる。

 陸遜の眼には、孫権は現状を見極めるのも良案だと考えているように見えた。

 周瑜と孫策が同盟提案について強く働きかけたのかもしれない。


 しかし今でも魏の戦において常に前線を率いて来た孫策の言葉は重みがあった。


「それは……」

 将軍の一人が口を開く。

「魏と講和の道を探っても」


「同じことだ。曹操の狙いはあくまでも三国制圧。講和は結んでもそれは形だけのこと。今の姿のまま、孫呉を残しておくことはない」


 周瑜がはっきりと言った。


「曹操に封じられている帝は、劉備のことをことのほか気に入り信頼なさっているというが……」

「曹操は帝に手が出せぬ以上、劉備を一刻も早く討って内情を固めたいのであろう」


「幸い魏と呉の間には長江ちょうこうが走り、その長江東南の域は我が呉の水軍が掌握しております。曹操にとって慣れぬ水戦で呉と蜀を相手にするよりも、地続きの蜀への侵攻の方が兵力で勝る魏軍に優位な攻め方と見てよいでしょう」


「……蜀は同盟についてどのように言って来ているのです?」


 一人が尋ねると、それには周瑜が短く答えた。

「結ぶ用意があると」

「……。」

 更に周瑜は続ける。

「同盟を結ぶ場合、蜀との関係を常に明確にしておく必要がある」


「その為に孫黎そんれいを劉備に娶らせることで事実上の同盟締結とするつもりだ」


 皆が一斉に腰を浮かしかけた。

「なんと、姫君を?」

「蜀に……劉備のもとに送り込むと?」

 呂蒙は昼間、孫黎に会っていただけにぎょっとした。

「それは……姫も了承なさっているのですか?」

「もちろんだ。姫君も呉の為にその身を役立てるおつもりである」

「それは、素晴らしいお覚悟ではあるが……」

「その話も蜀に?」

「いや、この話はまだしておらん。皆に話してからするつもりだったゆえ」

 周瑜は立ち上がる。

「明日、蜀の使者と会う。そこで同盟についてもう少し詰めた話をするつもりだ。姫の件についてはまだ出さぬ。三日後にもう一度軍議を開き、決定しようと思う」


「……二国の争乱になって参りましたな」


 重く言った誰かの呟きを周瑜が否定した。


「いや。そう単純には行かぬだろう。魏は一国だが、同盟を結んでも呉と蜀はそれで一国にはなれぬのだからな」

「蜀が同盟を拒否した場合は?」

「……。その時はまた考えるが……恐らくそれはあるまい」


 周瑜の最後の呟きに、孫策だけが頷いた。



◇    ◇    ◇



 その夜、呂蒙の部屋に陸遜と甘寧の三人が集まって話をしていた。


 ぐいぐいと酒を飲み干して行く呂蒙と甘寧の間に座った陸遜は、もっぱら無くなった杯を見つけては酒を注ぐ役に回っている。


「それにしても蜀と同盟の話がとうとう出て来たなぁ」


「みんな初耳みたいだったな。お前も聞いてなかったのか?」

「はい……。私はもっぱら魏の方をあたっていたので……。対蜀の方は、魯粛ろしゅく殿が周瑜様より色々任されておいででした。魯粛殿は使者としても蜀に何度も行かれていますし」

「そうか」

「劉備殿と言えば徳の将軍と名高い方だが……同盟をどう考えられるか」


「曹操にしちゃ劉備のそこが邪魔なんだろうな。中原ちゅうげんの民も最近じゃ魏を避けて西に続々と逃げ込んでるらしいしな」


「しかし民兵では魏には勝てません」

「ま、そーだけどな」

「甘寧は同盟をどう思ってる? 蜀は受けるだろうか」

 甘寧は机の上に頬杖を付く。

「……受けるかもな。劉備もこの前の長坂ちょうはんじゃ相当追いつめられた」


「蜀の人はどんな感じの方々なのでしょう……」


 陸遜が小首を傾げると、呂蒙と甘寧が同時に吹き出した。


「な、なんですか? お二人とも、何で笑うんですか⁉」


「いやいや、いいんだよ」

「よしよし」

 ぐしゃぐしゃと甘寧は陸遜の掻き混ぜながらまだ笑っている。


「まぁそう友好的にはいかねーかもしんねえけどな。確かに魏は呉と蜀が二国で挑んでもそう簡単には揺らぎそうにねえしな。ここらで探ってみんのも一つの案かもしんねえが」


「周瑜殿も言っておられたな。魏は一国でも呉と蜀は一国にはなれない、と」

「曹魏……私はたまに……相手が巨大すぎて、一体自分が何を相手に戦っているのか分からなくなる時があります。途方もなく大きいもの、実体の分からない影……時代の覇者……?」

 甘寧が陸遜の言葉を聞きながら、酒をぐいとあおった。


「一度刃を交わせば分かって来るさ」


 そうですねと陸遜が微笑む。

 呂蒙も頷いて、そろそろお開きにするかと立ち上がった。




◇    ◇    ◇



 廊下を並んで歩きながら、甘寧は何か思い巡らせているような陸遜の横顔を眺めている。


「戦のことか?」


 甘寧の言葉に陸遜は眼を瞬かせてから、廊下の柱に壁を凭れかけさせた。


「戦のことというか……劉備りゅうび殿が何故そんなにも民を心を掴むのかな、と考えていました」


 甘寧も向かい側の柱に背を預ける。


 意外な答えだった。

 てっきり魏のことを考えていると思っていたのに。


「曹魏が巨大なのは、曹操殿に力があるからです。……でも劉備殿は……」

「……。」


「蜀とは何なのでしょう? 

 蜀の民とは……何なのでしょうか。劉備殿を慕う者達……?」


 陸遜はぼんやりと考えてから、やがて自分の方を甘寧がじっと見ていることに気づいた。

 すぐに腕を解いて、真っすぐに立つ。


「すみません、私はどうやら……とりとめもないことを考え過ぎのようですね」


 陸遜が俯くと、甘寧は隣にやって来て帽子を陸遜の手に持たせた。

「謝ることねーよ。いつかお前に言ったけど、戦の前は人によってそれぞれの心の鎮め方ってやつがある」


 それは、いつかの戦いの前に甘寧が話してくれたことだった。


(――戦の前)


 甘寧の言った言葉に違和感を見つけると、甘寧は笑ってまた陸遜の頭を撫でる。

 慰められてるみたいだ。

 陸遜は何だか今日はやけに甘寧との間に自分の未熟さを感じるなあ、と両手に持った竹簡を腕に抱え直す。


「なんで落ち込むんだよ」

「……いえ、なんとなく」


 甘寧は廊下の暗がりに陸遜を引きずり込むと、両手でその身体を抱きしめる。

「ゆっくり考えろよ。色々真剣に考えてるお前を、嘲笑ったりするやつはいないからさ」

 陸遜は飾らない甘寧の行動に引き結んでいた唇を緩めて笑った。


「はい」


 こうして甘寧と話していると、それだけで曹操が巨大な影でも、劉備がどのような人間でも、陸遜は構わない気分になるから不思議だ。

 自分はこの呉、甘寧とともに戦う場所にあって、そこで懸命に生きればいいのかもしれないと思えるのだ。


 自分の中にはっきりとした答えがあるようなこの感覚は、嫌いじゃない。


「素直」


 甘寧がにやにやと笑いながら陸遜の背中を撫でている。

「なにしてるんですか甘寧将軍。ここは公共の廊下ですよ甘寧将軍」


「お前の世界はさ、これからいっぱい広がっていくんだろうなぁ」

「話そらさないでください」


「俺、案外悪趣味かもしんねえ」


 甘寧がいきなり何を言ったのかと陸遜は彼を見上げた。

「……どうしたんですか、いきなり」

「お前の世界が広がるのはいいんだが。ちょっとばかり羽をもぎたくなることも、ある」

 甘寧は陸遜の少し長めの前髪を引っ張る仕草をした。


「……変わったな、おれ」


 声に笑いが混じる。

「わり。今の忘れろ。くだんねえことだから」


「……悪趣味ですね」


「そうだよ。だから言ったじゃねーか。」

「……なんで羽をもぐんですか?」

「……。飛び出していきそうだから?」

「……。」

「…………。」

「ふふ」

「笑うなよ」


「あはは」


 てめえ、と甘寧が陸遜の頭を押さえ付けて、髪をぐしゃぐしゃにした。

 ぷくくく……と声を押し殺して笑っている陸遜の隣で、甘寧はふてくされたようにそっぽを向いている。

「あんま利口すぎんのも、考えモンだ」

「……杞憂ですよ、甘寧殿」

 陸遜が笑いをおさめて、言った。

「どこにもいきません」

「誰に呼ばれてもか?」



「はい、誰に呼ばれても。

 私の居場所はここですから」



 陸遜は甘寧を見つめる。

 甘寧は黙って前方の景色を見ていたが、不意に陸遜の肩に手を置き、抱き寄せた。


 陸遜も隣に立って、同じ景色を見つめる。

 新しい戦が巻き起ころうとしているのは、なんとなく分かる。感じる。


 でも不思議な高揚感があってもそれが不安に変わらないのは、甘寧がそばにいるからに違いなかった。


 恐れはない。

 自分は確かにまだまだ未熟だ。大局において出来ることなど少ない。


 だからこそだ。


 国の為に、この人ともにどこまでも戦って行くだけだと思う。



「……部屋に戻るか?」



「もう少し……、夜風に当たっていたいです」


 そうかと甘寧が笑って、また少し手に力を込めたのを感じた。



◇    ◇    ◇



 建業けんぎょうの城に伝令兵が駆け込んで来たのは、二日後の昼のことだった。



 伝令兵は文官を介さずにそのまま周瑜のもとへと招き入れられた。

 周瑜の公務室には丁度呂蒙と陸遜と孫策がいたが、周瑜はそのままいてくれと三人を引き止める。

 そこで書簡に眼を走らせた周瑜の眼が、一瞬鋭く細められたのが分かった。



「……どこからだ?」



 孫策の声に、周瑜が書簡を彼に渡して短く告げた。




「魏からの書簡だ」



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