第5章 鏡越しの街

 朝が来たはずなのに、空は曇りひとつなく白かった。

 光があるのに、影がない。

 まるで世界が反射しているように、何もかもが「鏡越し」に見える。


 井上沙耶は、まだ生きていた。

 病院の屋上に立ち尽くし、遠くの街を見下ろす。

 だが、その街には人がいない。


 道路には車が並んでいるのに、運転席はすべて空。

 信号は点滅を続けているのに、誰も渡らない。

 風で動くカーテンの奥にも、人影はない。


 代わりに、鏡があった。

 ビルの窓、コンビニのガラス、ショーウィンドウ。

 あらゆる反射面が“街の中のもうひとつの街”を映している。

 鏡の中には――人々が暮らしていた。


 彼らは笑い、会話し、通勤し、食事をしている。

 でも、その表情はみんな同じだった。

 無表情の笑顔。

 そして全員、鏡の外の誰かを見ている。


 沙耶の手が震える。

 屋上のガラス窓に映る自分の姿を見て、息を呑んだ。

 鏡の中の“彼女”が、微笑んでいた。

 現実の沙耶は、笑っていないのに。



 彼女は逃げるように階段を駆け下りた。

 廊下を走り抜けるたび、ガラスの向こうの自分がわずかに遅れて動く。

 その“遅れ”が次第に広がっていく。

 まるで鏡の中の方が、時間を奪っているようだった。


 1階に着いたとき、足が止まった。

 ナースステーションの壁一面に貼られた鏡。

 そこに、同僚の看護師たちがずらりと並んでいた。

 全員が笑顔で、沙耶の方を向いている。

 彼女たちは――鏡の中でしか存在していなかった。


 「……いや……いやあっ!」

 沙耶は逃げた。

 自動ドアの向こうへ駆け出す。


 外は、眩しいほど白い。

 病院の前の街路樹がすべて同じ方向に傾いている。

 風が吹いているのに、葉は揺れない。

 世界が止まっていた。



 ふと耳元で囁く声がした。

 > 「もう向こう側から見られてるよ。」


 振り返ると、そこに長谷部遼がいた。

 蒼白な顔で立ち尽くし、右目だけが真っ黒に染まっている。

 「お前……まだ生きてたの?」

 「生きてるかどうかなんて、もう意味ないよ」


 長谷部は空を見上げた。

 曇天のはずの空に、無数の瞳が浮かんでいる。

 それらは同時に開閉し、瞬きをしていた。

 「街全体が、ひとつの目なんだ。俺たちは視神経だよ」


 沙耶の喉が凍る。

 「じゃあ……どうすれば、戻れるの?」

 「戻れない。見た瞬間に、繋がったんだ」

 長谷部の声が掠れていく。


 そのとき、鏡の中の彼が“笑った”。

 現実の長谷部は表情を変えていない。

 鏡の彼だけが口を開き、こう呟いた。


 > 「見なければよかったね。」


 次の瞬間、現実の長谷部が崩れた。

 砂のように、形を保てず崩れ落ちていく。

 風に溶け、消えた。


 残ったのは、鏡の中の彼だけだった。

 沙耶は震えながら後ずさる。

 鏡の長谷部が、ガラス越しに彼女の手を掴もうとする。

 「……やめて……!」


 バンッ、と鏡が割れた。

 だが破片のひとつひとつに、彼女の顔が映っている。

 それぞれの顔が違う表情で笑っていた。



 走り出す。

 息が切れ、視界が霞む。

 白い世界の中、ただひとつ黒い建物が見えた。

 それは――桜代中央交差点のビル。

 あの夜、全員が集まった場所。


 入口の自動ドアが、ゆっくりと開く。

 中には鏡がずらりと並び、光を反射して無限に奥が続いている。

 その中心に、ひとりの少女が立っていた。


 中原結衣。

 死んだはずの。


 彼女は鏡の中に手を差し伸べる。

 「こっちへ来て。もう、見なくていいから」


 沙耶は泣きながら後ずさる。

 「もう誰もいないの……私だけなの……」

 結衣が首を傾げた。

 「違うよ。あなた、ずっと見られてた」


 その言葉とともに、周囲の鏡が一斉に黒く染まった。

 無数の目が、鏡の中からこちらを覗いている。

 瞳の奥に、沙耶自身の姿が無限に反射していた。


 彼女は叫んだ。

 「いやあああああっ!」


 次の瞬間、鏡がすべて砕け散った。

 その破片は空中で止まり、ゆっくりとひとつの形を成していく。


 ――“人の顔”だった。

 無数の鏡の欠片で作られた、巨大な顔。

 それが笑い、唇が動いた。


 > 「次は、あなたが見る番だよ。」


 世界が反転した。

 沙耶は鏡の中に吸い込まれ、

 “もうひとつの街”の住人となった。

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