初夜から始まる異世界再生譚
斉城ユヅル
プロローグ──ある日、森の中、捕食者に出会った
プロローグ1──ねぇ、あなた、生きてる?
俺の名前は
どこにでもいる普通のサラリーマンだ。
自宅と職場を行き来するだけの毎日。
ある趣味がなければ、俺は枯れ果てたゾンビになっていただろう。
その趣味とは、
溜めて膨らみ、弾けて煌めく。
知的な虚脱も、魂の深呼吸だ。
誤解しないで欲しい。
俺が欲しかったのは《快感》じゃない。
生の《実感》だ。
禁欲20日目。
パンパンに膨らんだ命を煌めかせる日。
だが・・・
どうやら俺は、股間から体液を噴き出す前に、胴体から《血飛沫》をまき散らすことになりそうだ。
*
──ここはどこだ?
素早く左右に視線を走らせる。
右も左も鬱蒼とした深い森。目に痛いほどの緑の洪水。
息を吸えば土と草の匂いが鼻を満たし、ジメついた湿気が肌にまとわりついてくる。
そして、足からは謎の震動。
地面の揺れに合わせて、ドシン、バキンと煩い音も聞こえる。
なんだ?と視線を向ける。
大きな岩が砕け散り、大木の幹から木片が飛び散るのが見えた。
猛スピードで迫ってくる《黒い塊》も。
なんだ?とさらに目を凝らす。
それは──疾駆する巨大な
体高が2メートルくらいある巨体。
黒鉄色の毛並み、両脇に広がる白く鋭い牙。
掠るだけで細い木々が砕け、圧し折れていく。
あれなら俺の胴体など簡単に真っ二つにできるだろう。
どこか他人事のようにそう思った。
それはともかくだ。
理解できないことがある。
──何が起きた?
解禁日にウキウキしつつ、俺は自宅の扉を開いた。
一秒たりとも待てない!と期待に股間を膨らませて、玄関に飛び込んだ。
その続きも、よく覚えている。
飛び込んだ先は、《森》だった。
意味が分からないが、玄関が森だったのだ。
「は?」と振り返ったら扉が消えていた。
──理解、できない
だが、理解できないからといって、時間は止まらない。
破壊音が鳴り響き、みるみる大きくなる猪。
あまりの非現実感に、ぼんやり見つめた視線の先、血走った猪の《目》と、目が合った。
──殺す
《目》が、そう言っていた。
──え、俺、死ぬの?
頭が真っ白になった。
急に身体が芯からガタガタと震え出す。
『逃げろ!!!』
それは《本能》の絶叫。
その声に、ケツを蹴り上げられたように、俺は全力で駆け出した。
──嫌だ、死にたくない、ヤバイ、なんで
脳内で言葉は纏まらず、ただ《死を拒絶する感情》だけが残っていた。
両脚が力強く地を踏みしめる。
がむしゃらに薮を掻き分け、必死に走る。
「バシッ、ベシッ」と手で防いでも枝葉が容赦なく顔面を打ち付けてきた。
痛てぇ!
「ドクン、ドクン」と耳元で爆音のように響く音に気付いた。
心臓の音だった。
「はぁ、はぁ」と久しぶりの全力疾走に息が荒れた。
肺が焼けた。
「ブチブチ」と太ももの筋肉が悲鳴を上げた。
それでも俺の両脚は止まらなかった。
──だって、死にたくないから
走りながら振り返る。
木を圧し折り、倒木を踏み潰し、黒い巨大猪が真っすぐ突っ込んでくる。
あんなの追いつかれたら、絶対に助からない!
瞬間、視界が揺れる。
グルリと世界が反転した。
内臓が浮く嫌な浮遊感。
「う、わっ!?」
──崖!?
高さはビル4階分くらい?
死ぬ?骨折?
考える暇もない。
ビューッと耳元で風音が煩く渦巻く。
地面が、猛烈な勢いで視界一杯に迫ってくる。
──あぁ、あっ・・・
最期の瞬間、風の音が消えた。
視界の全てが地面になった。
最後に残ったのは、切れ端のような言葉だけ。
・・・最期に一回イキたかった
──ドサッ──
死の直前、俺を染め上げた強烈な《感情》は、魂を焼き尽くすような《後悔》だけだった。
*
暗闇の中、声が、聞こえた。
「ねぇ、あなた、生きてる?」
風に鳴る木の葉のざわめきも遅れて聞こえてきた。
・・・あれ、死んでない?
「ねぇ、生きてる?」
少しずつ視界が戻ってきた。
崖の下、眩しい陽射し、目の前には巨大猪の顔。
・・・終わった。ん?
猪の目が、閉じている?
よく見れば、頭部は切断され、落ちていた。
・・・死んでる。
「生きてるわね」
再び響く、穏やかで透明感のある声。
両手をついて体を起こしつつ、俺は声の主を振り返った。
そこに居たのは──明らかに人間離れした《美少女》だった。
本能的に視線が彼女の身体をなぞる。
まず、目を引いたのは風に揺れ、柔らかく波打っている《薄紫色》の長い髪。
次に、深く透き通る蒼い瞳。
顔立ちは整って凛としており、どこかいたずらっぽい。
服装は、ワインレッドの肘丈レザージャケット、その下に黒いインナーだ。
胸元しか覆っていないインナーを盛り上げる豊かな胸と深い谷間。
丈が短いため、引き締まったくびれ、おへそは晒されていた。
下は黒のショートパンツ。
スラリと伸びる脚には、運動部の女子高生の究極形みたいな健康美が宿っている。
脛丈のブーツまで大胆に素肌が晒されており、滑らかな肌の白さが目に痛い。
彼女の全てが、《男》の本能にズバズバ突き刺さるのに、絶対に手を出してはいけない《神聖さ》みたいな気配もある。
まるで──《女神》!
・・・まぁ、ここは異世界だし、本当に《女神》なのだろうか?
もしかして、チートもらえるのだろうか?
何故、《異世界》と分かるかって?
だって、彼女の頭の両側に5センチくらいの角があるんだもの。
*
声もなく美少女を見ていると、彼女は微笑んで手を差し伸べてくれた。
「上から落ちてきたので、驚きましたよ。ストンボアは倒しておきました。立てますか?」
美少女の手を握り締める。
──やわらかっ!?
手の小ささ、柔らかさにドキッとしていると、思った以上に力強く、グッと引き起こされた。
いきなりの全力疾走にガクガクする脚でなんとか立つ。
握った手を離し、ドキドキと暴れる心臓と焼けた肺を癒すべく、意識して深く息を吸った。
ようやく周囲の音、風景が頭に入ってくる。
崖の側、巨大猪の生首、そして、角が生えた──女神?
左手には刃渡り80センチくらいの剣を持っている。
──どう見ても本物だった
探るように彼女の服装を見る。
ジャケット、インナー、ショートパンツ以外は、黒い指ぬきグローブ、蒼玉の嵌め込まれた首元のチョーカーだけ。
視線を切り、見渡せば、木、木、木。
つまり、森だ。
どこにも道は・・・ない。
崖下は少し空き地になっていたようで下は砂だった。
これが岩だったらと思うとゾッとする。
一歩間違えば死んでいた。
背筋に冷たい汗が伝う。
「──《女神》」とか言っている場合じゃない。
もし、彼女と別れれば、異世界遭難だ。
それは──現状、確実な《死》を意味する。
「あの・・・」と言いかけ、名前が分からず言葉が詰まった。
「サフィアです。私の名前は、サフィア。あなたの名前は?」
澄み渡る青い湖のような、透明感と若干の神聖さを含んだ声音。
「・・・堂本誠司です。名は誠司。助けていただき、ありがとうございました」
凛としていた美少女──サフィアの表情が緩み、柔らかく微笑んだ。その微笑みは、陳腐だが、あまりにも可憐で、息が止まる。
「どういたしまして。困ったときはお互い様です。名はセージ。不思議な響きですね。セージと呼んでもよろしいでしょうか?」
美少女に下の名前を呼ばれ、何度も頷いてしまう。
そして、会話は止まった。
このまま、彼女から離れたら助からない。必死に質問を繋げる。
「サフィア・・・さん、つかぬことを聞きますが、ここから人の住む場所に行くには、どのくらいかかりますか?」
「・・・? 森を出るまで3時間くらいでしょうか。まだ外縁部ですから。セージは、戦える人ですか?さっきのイノシシは強い方ですが、他にも魔物が出てきますし、普人族には厳しいですよね?」
そもそも平和な世界から来たのだ。戦闘なんてできない。
が、それを明かしてもいいのか判断がつかない。
俺は咄嗟に誤魔化した。
「・・・実は、崖から落ちて記憶が混乱しているようで。名前は分かるんですが、他が思い出しにくく」
「それは・・・大変ですね」とサフィアが考え込む。
その目はやわらかく、心から同情しているように見えた。
ふと彼女の蒼い瞳と視線が合った。
本当に深い蒼だ。とても綺麗・・・?
ん?なんか、今、《ゾワッ》とした?
違和感に固まった俺に、彼女はニコリと微笑む。
「・・・そういうことなら、近くの街まで送りましょうか?」
*
サフィアの案内で、街に向かう。
持ち物を尋ねられるが、こちらの世界で価値あるものは何も持っていない。
「セージ。あなたは、魔術、職業、身に着けたスキルなど・・・何か1つでも思い出せますか?これまで何をしてきたのか?とか」
──魔術?
ふむ、この世界には魔法があるらしい。
しかし・・・彼女の質問にどう答えるよ?
サラリーマンで営業電話を掛けることが俺の仕事だ。
スキルはない、武器も使えない。何もない。
「・・・何も」
ホント、俺、この世界で何ができるんだろうな?
*
数時間歩き、日が沈むころ、俺たちは街に到着した。
街に入ってすぐの大通りには、ずらっと屋台が並んでいる。
道行く人の気配に少しだけホッとした。
立ち止まったサフィアが振り返って俺を見る。
「セージ、これからどうするつもりなんですか?」
「・・・いや、どうしたものかと。日雇いや出稼ぎできる場所はありますかね?」
生活保護とかなさそうな世界では、先立つものが死活的に必要だ。
「あります。ですが、今からだと、早くても明日の朝になりますよ。夜は治安が悪いですし。よろしければ、《私の宿》に来てください。・・・お力になれることがあるかもしれません」
「えっ・・・?」
驚きに眉が上がった。
まさか、この美少女と一緒の部屋!?
いや、まさかな。別の部屋を取ってくれるのだろう。
そうだよな?
頭の中が混乱と妄想で埋まったが、口は勝手に動いていた。
「お世話になります」
脳内を駆け巡る妄想の中、俺は人生最大の期待を抱えて、美少女のあとについていくのだった。
【プロローグ──ある日、森の中、捕食者に出会った 1/4】
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