第4話 奪還への決意
グラーツに戻ってから、一週間が経った。
街は、まだ平和だった。市場では魚売りの威勢のいい声が響き、八百屋の店先には春の野菜が並んでいる。パン屋の窓からは焼きたてのライ麦パンの香ばしい香りが漂い、肉屋の前を通れば燻製の匂いが鼻腔をくすぐる。
子供たちが石畳の路地で鬼ごっこをし、その笑い声が壁に反響している。広場のベンチでは老人たちが日向ぼっこをしながら、世間話に花を咲かせていた。
戦争が始まったことを、彼らは知っている。だが、まだ実感がないのだろう。戦場は遠く、日常は変わらない。噴水の水は相変わらず音を立てて流れ、鳩は広場をのんびりと歩いている。
僕は公爵城の執務室の窓から、その街並みを眺めていた。
赤茶けた瓦屋根が幾重にも連なり、その間を縫うように路地が走っている。教会の尖塔が青空を突き、風見鶏が春風を受けてゆっくりと回っていた。
遠くには雪を頂いた山並みが見え、その稜線が午後の陽光を浴びて白く輝いている。その向こうにノルトフェステがある。
いや、もうノルトフェステは帝国軍の手に落ちている。僕が放棄した要塞だ。
机の上には、報告書が積まれていた。戦死者の名簿、負傷者のリスト、補給物資の在庫表。全て、僕が目を通さなければならない書類だ。
だが、今は手がつかなかった。
代わりに、僕は絵を描いていた。
画布の上に、風景が形作られていく。
ノルトフェステの要塞。灰色の石壁、四隅の見張り塔、そびえ立つ城門。僕が二日間だけ過ごした、あの古い要塞。
筆を動かしながら、記憶を辿る。執務室の狭さ、暖炉の暖かさ、窓から見えた山並み。全て、もう僕のものではない景色だ。
「閣下、また絵ですか」
背後から、エリカの声がした。
振り返ると、副官の彼女が書類の束を抱えて立っている。眼鏡の奥の瞳が、少し呆れたような色を浮かべていた。
「仕事をサボっているように見えますか?」
「はい」
即答だった。僕は苦笑する。
「確かに、その通りですね」
「報告書の確認が終わっていません。それに、兵站部からの問い合わせも」
「分かっています。後でやります」
僕は筆を置いた。画布の上のノルトフェステは、まだ完成には程遠い。だが、今日はここまでにしよう。
「エリカ中尉、戦死者の遺族への弔問は?」
「明日の午後に予定されています」
「そうですか」
九名。夜襲で二名、撤退戦で七名。僕の指揮下で、九名の兵士が命を落とした。その遺族に、何と言えばいいのだろう。
申し訳ありませんでした、では済まない。彼らの命は、もう戻らない。
「閣下」
エリカが、珍しく優しい声で言った。
「あなたは、最善を尽くしました。誰も、閣下を責めたりしません」
「そうだといいのですが」
僕は窓の外を見た。
「責められないのが、逆につらいんです。僕は指揮官失格だったのに」
「いいえ」
エリカは首を横に振った。
「五百近い兵を、ほぼ無傷でグラーツまで撤退させた。これは、十分に優れた指揮です」
彼女は報告書の一つを取り出した。
「王国軍本部からの評価です。『リオン・フェルナンド少佐の撤退戦は、見事な戦術的後退であり、兵力の温存に成功した』と」
「少佐?」
「はい。昇進です。撤退戦の功績により、閣下は少佐に昇進されました」
昇進。要塞を失って、昇進。皮肉なものだ。
「複雑ですね」
「でも、事実です」
エリカは書類を机に置いた。
「それと、もう一つ。王国本国から、増援部隊が派遣されることになりました」
増援。その言葉に、僕は思わず顔を上げた。
「いつですか?」
「二週間後。第三軍団の一部、約三千が到着する予定です」
三千。それだけの兵力があれば、帝国軍に対抗できる。少なくとも、一方的に押されることはない。
「指揮官は?」
「ヴェルナー・ケルナー中将です」
ヴェルナー中将。名前は聞いたことがある。王国軍の古参将校で、実戦経験豊富な軍人だ。保守的な戦術を好むと聞いているが、それだけに堅実な指揮をする。
「中将の下で、我々も再編成されるでしょう。閣下の部隊は、恐らく遊撃隊として運用されるかと」
遊撃隊。つまり、小規模な奇襲や補給路の攻撃を担当する部隊だ。僕の戦い方には、確かに向いている。
「了解しました。準備を進めてください」
「はい」
エリカは敬礼して、執務室を出ていった。
一人になると、僕は再び窓の外を見た。
遠くの山並み。その向こうにあるノルトフェステ。いつか、取り戻せるだろうか。
いや、取り戻さなければならない。あの要塞は、サヴォワールの一部だ。失ったままにはできない。
その時まで、待つ。力を蓄え、機会を窺う。
そして必ず、奪還する。
その夜、僕は久しぶりに図書館を訪れた。
扉を開けると、マルティン老人が受付の椅子に座っていた。僕の姿を見て、その顔に安堵の色が浮かぶ。
「リオン様、ご無事で」
「ええ、お陰様で」
僕は老人の前に立った。
「心配をおかけしました」
「いえいえ。無事に戻られたことが、何よりです」
マルティンは立ち上がり、書棚の方へ歩いていった。僕もその後をついていく。
「戦争は、いかがでしたか?」
老人の問いに、僕は少し考えてから答えた。
「......思っていたより、つらいものでした」
「そうでしょうとも」
マルティンは一冊の本を取り出した。『カエサルのガリア戦記』。
「本の中の戦争は、美しく見えます。英雄の勝利、華々しい戦果。でも現実は、泥と血と死の連続です」
老人は本を僕に手渡した。
「それでも、戦わなければならない時がある。守るべきものがあるから」
「はい」
僕は本を受け取った。
「僕は、要塞を失いました。でも、兵士たちを生かして帰すことはできました」
「それで十分です」
マルティンは穏やかに微笑んだ。
「人の命に勝るものはありません。要塞は、また築けます。でも、失われた命は戻りません」
その言葉が、胸に沁みた。
「ありがとうございます」
「さあ、いつもの席へどうぞ。今日は、ゆっくり本を読んでいかれては?」
僕は三階の窓際の席に座った。いつもの場所。午後の陽光が差し込んで、本のページを照らす。
ガリア戦記を開く。カエサルの遠征の記録。多くの戦いと、多くの勝利。だが、その陰には、どれだけの兵士が倒れたのだろう。
歴史書は、勝者の記録だ。敗者の声は、ほとんど残らない。
僕も、いつか歴史に名を残すのだろうか。それとも、忘れ去られる敗者の一人になるのだろうか。
分からない。だが、どちらでもいい。
大切なのは、今生きている人々を守ることだ。
図書館を出ると、夕暮れ時だった。
西の空が赤く染まり、街全体が柔らかな光に包まれている。教会の鐘が、六時を告げる音を響かせていた。
公爵城への道を歩きながら、僕は考えた。
これから、どうすればいいのか。
増援が来れば、反撃の機会も生まれる。ヴェルナー中将の指揮下で、組織的な作戦が展開されるだろう。その中で、僕にできることは何か。
遊撃戦だ。敵の補給路を叩き、後方を撹乱する。大規模な会戦では勝てないが、小規模な奇襲なら勝機がある。
そして、いつかノルトフェステを取り戻す。
その時まで、耐える。学ぶ。成長する。
城門をくぐると、中庭で兵士たちが訓練をしていた。ヴァルター大尉が指揮を執り、厳しい声が響いている。撤退戦を生き延びた兵士たちだ。彼らの顔には、以前にはなかった引き締まった表情があった。
「閣下」
ヴァルター大尉が敬礼した。汗が額を伝い、軍服が汚れている。自らも訓練に加わっていたのだろう。
「ご苦労様です、大尉。訓練は順調ですか?」
「はい。皆、意欲的です。次は勝ちたいと、そう言っています」
次は勝ちたい。
その言葉が、心に響いた。僕は中庭の隅のベンチに腰を下ろし、ヴァルター大尉も隣に座った。夕暮れの光が、石畳を赤く染めている。
「大尉は、長く軍人をやっておられますね」
「ええ、四十年近くになります」
大尉は遠い目をした。
「十六の時に入隊しました。当時は、戦争など遠い世界の出来事だと思っていました。ですが、すぐに現実を知らされました」
「どんな?」
「北方の反乱鎮圧作戦でした。初陣で、仲間が三人死にました。隣にいた同期が、目の前で撃たれて倒れました」
大尉の声は、淡々としている。だが、その目には深い悲しみがあった。
「それから、幾つもの戦場を経験しました。勝利もあれば、敗北もありました。多くの仲間を失いました。そして気づいたのです。戦争に、本当の勝者などいないと」
「......」
「生き残った者が勝者だと言われます。ですが、生き残った者にも、失ったものの重さはついて回ります」
大尉は僕を見た。
「閣下は、正しい判断をされました。要塞を失っても、兵を生かした。それが、唯一の正解だったのです」
「ありがとうございます」
僕はそう言った。大尉の言葉が、少しだけ胸の重さを軽くしてくれた。
「では、そのために準備を進めましょう」
僕は兵士たちを見た。
「次の戦いでは、勝ちます。必ず」
兵士たちが、一斉に敬礼した。
執務室に戻ると、机の上の報告書はまだそのままだった。
仕方ない。今日中に片付けよう。
椅子に座り、一枚ずつ目を通していく。戦死者の名簿。一人一人の名前、年齢、出身地。全て、僕が覚えておかなければならない。
彼らの死を、無駄にしてはいけない。
そのためにも、次は勝たなければならない。
窓の外では、星が輝き始めていた。澄んだ夜空に、無数の星が瞬いている。
美しい景色だった。
この景色を、守りたい。グラーツの街も、サヴォワールの人々も、全て。
そして、失ったノルトフェステも、いつか取り戻す。
その決意を胸に、僕は報告書に向かった。
面倒だな、と思いながら。
でも、やらなければならない。
それが、指揮官の責任だから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます