夏の香りの向こう側
ハルイ
第1話① 水とコロッケ
目の前に、女が座っている。女は灰色の作業着を着ており、一番首に近いボタンだけが緩められていた。机のせいで下半身は見えないが、備え付けられた簡素な椅子に座っている。お互いに無言の時間がしばらく続いていたが、とうとうしびれを切らしたのか女が口を開いた。
「少し、やつれたんじゃないかしら」
ガラスの対面窓越しの少しくぐもった女の声に、高崎(たかさき)は小さく頷いた。それだけの動作に首に痛みが走り、顔をしかめる。高崎はこの十年、女の声を直接聞いていない。瞬きをしてから、「忙しかったからな」と言った。
「ちゃんと、食べてる?」
女の言葉に、高崎は唇を歪めた。傍から見たら、なんと夫婦らしい会話だろう。これがガラス越しの会話でなければ。
「少し白髪が増えたみたい」
「俺は、お前が白髪一つもないことが不思議だよ」
女はもうすぐ四十になるとは思えない、みずみずしさに溢れていた。肌は少し焼けてはいるものの染み一つなく、唇は化粧をしているかのように赤く艶やかだ。昔と変わったのは、髪の毛の長さくらいだった。毛先が揺れないくらい短く切りそろえられているおかげで、形の良い耳と長い首が惜しげもなく空気にさらされていた。
「俺も、もう三十後半になったからな。年取ったもんだ」
「あら、私はまだ自分がおばちゃんだなんて言いたくないわ。でも、そうねぇ。私たち、出会ってもう十年以上たつのね」
女と出会ったとき、高崎はまだ二十歳になったばかりのクソガキだった。あの頃から自分は何か変わることができただろうか、と高崎は考えたが何も思いつかなかった。高崎はあの頃から変わらず、何も持っていなかった。
高崎は女――菜穂子(なほこ)と結婚し、そしてその結婚は今も続いている。普通の夫婦と異なるのは、比翼連理であるべき妻、菜穂子が刑務所に入っていることだった。
ここは、面会室。無機質な灰色の壁に、お世辞にも清潔とは言えない机と、飾り気も背もたれもない椅子があるだけ。そして面会者と囚人の間には音声を行き来させるための穴が開いたガラスの壁。高崎は触れたことはないが、おそらく冷たく硬いのだろう。
菜穂子の後ろにも高崎が入ってきた扉の傍にも、刑務官が直立している。彼らも高崎も同じく無表情で、菜穂子だけが切れ長な目を細めて柔らかにほほ笑んでいた。
「克彦(かつひこ)はもうそろそろ、恋人、作らないの。それとも、もういたりする?」
「結婚してるのに、そんなもん作れるわけないだろ」
「あら、私はここから出ることができないから、外でそういう人を作ったって分からないじゃない」
「こんな男、相手に気の毒だ」
「あら、そんなことないわ。克彦は今も昔も素敵よ」
そう言って、菜穂子はくすくすと笑った。唇に手を当てて笑う様子は、まさか服役中であるとは思わせないほどの気品と余裕に溢れていて、高崎はため息をついた。出会った頃から、いつも菜穂子は余裕綽々としていて、当時はそれがミステリアスに見えたものだった。
「俺なんかより、菜穂子の方がもうそろそろ恋人の一人や二人、できそうなもんだけどな」
昔から、菜穂子は男にも女にも好かれるタイプだった。結婚する前も、結婚した後も、不思議と菜穂子の周りには人が多かった。その一方で、菜穂子が誰か特定の個人と仲良くしている様子を、高崎は思い出すことができなかった。唯一頭をよぎるのは、菜穂子の元恋人だ。高崎と違って西洋風の顔立ちの、背の低い男だった。しかしその男とは、菜穂子が高崎の家に転がり込んだことで縁が切れているはずなので、今更思い出すほどでもないだろうが。
「あら、こんなところで恋愛なんかする気になれるわけないでしょう」
「逆に、恋愛くらいしかやることがなさそうだけどな」
高崎のぶっきらぼうな答えに、菜穂子が何か言おうと薄い唇を開いたその時だった。菜穂子の背後に立つ男が「時間になります」と無機質な声で言った。
「あら、もう面会、終わりなのね。あなたとまたしばらく会えないなんて、寂しいわ」
「嘘がうまいな」
高崎はそう言い捨てた。菜穂子はゆっくりとほほ笑むと、「ねぇ。今、何体目だったっけ」といつものように訊いた。何十回も繰り返された問いに、高崎は「ちょうど、二十体だ」と答えた。
吸血鬼という、人と同じ姿をした生き物がいる。吸血鬼は人間の血を吸い、時には殺してしまう。だから特別な訓練を積んだハンターが、一体一体殺して回っている。身体能力の高い吸血鬼を見つけ、殺すのは容易なことではない。だから、通常の報奨金のほかに、三十体殺した者には特別な褒美が国から与えられる。
高崎が低い声で「あと、十体」と言い、椅子から立ち上がった。背もたれのない椅子は、高崎が立ち上がると耳障りな音を立てながら後ろへと滑った。軽いから、わざわざ手を使わなくてもよい。
菜穂子も『三十体ルール』は知っている。それが途方もなく難しく、いまだ誰も達成したことのないルールだと、知っている。
「ねぇ、私、もうすぐあなたとガラスなしで会えるのね」
すでに菜穂子に背を向けていた高崎の背後から、そう声がかかる。もしその言葉が面会室で言われたのでさえなければ、なんとロマンチックな言葉だったろう。振り向かなくても分かる女の流し目も、ガラス越しではわかりづらい、鈴を転がすようなその声色も、他者を誘惑するには十分だった。相手が高崎でなければ。
「……あぁ。そうだな」
高崎は振り返ることなく、息を吐きながらそう呟いた。その言葉が菜穂子に届いたか確認することもなく、高崎は部屋を後にした。そして面会室の扉がきしみながら閉まるその瞬間。
「……お前を殺す」
かすれた声で紡がれたその言葉は、扉が閉まる音にかき消されたせいで高崎以外には聞こえていなかった。
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