第36話 高嶺の花子さんはご機嫌斜め
青山通りを、君と並んで歩く。
放課後の解放感に満ちた学生たちの波に紛れ、俺たちは駅へと続く階段を下りた。
ホームへ滑り込んできた電車に乗り込む。
朝の殺人的なラッシュに比べれば随分マシとはいえ、ここは首都東京のど真ん中。車内はそれなりに混雑しているし、座れる余地なんて微塵もない。
それでも、人と人とが密着して身動きが取れないほどではない分、随分と気が楽だった。
「電車、少しだけ空いててよかったわね」
つり革に掴まりながら、彼女がほっとしたように息をつく。
どこまでも俺のこと優先し、怪我をした身体を気遣ってくれる彼女がいる。
「腕や胸を庇わなくてもいいのは、助かるよ」
「問題は、七限がある木曜日と金曜日よね……」
「はぁ。いまからそれを思うと気が重いよ。……って、朝もそうなんだけどね」
彼女の言葉に、俺はげんなりと肩を落とす。
うちの学校は進学校ゆえ、木金は授業時間がいつもより一限長い。放課後になる頃には、世間のサラリーマンたちの帰宅ラッシュとバッティングしてしまうのだ。
今の俺の身体で、あの人波に揉まれるのは、想像するだけで骨が痛み出す。
「大丈夫。私、頑張るから」
「……頼もしい限りだよ。何だか男として情けなくはあるけどね」
彼女は黒縁眼鏡の奥で、小さく微笑んだ……ように見えたのだけど。
ガタン、ゴトン。
電車が一定のリズムで揺れる中、ふと違和感を覚える。
隣に立つ九条さんの様子が、いつもとほんの少しだけ違う気がするのだ。
それは本当に、些細な違い。
怒っている、わけではないと思う。
その目はいつも通り、とても優しいから。
ただ、どこか口数が少なく、視線を合わせようとしない感じがある。さっきの高階さんとの一件を気にしているのだろうか?
それとも、久しぶりの学校で疲れてしまったのか。
なんだろう。無性に気になってきたぞ。
俺はつり革に掴まりながら、隣の彼女の横顔をチラチラと盗み見ることにした。
伏し目がちなその表情。
黒縁眼鏡で懸命に隠そうとしても、その内側から滲み出る造形の美しさが光る。
今日の彼女も、やっぱり綺麗だった。
って、いかんいかん。
今は見惚れている場合じゃない。この妙な沈黙の原因を探るのが先決だ。
俺の熱視線(?)に気づいたのか、彼女が不思議そうにこちらを向く。
「なに?」
「あ、いや……九条さん、もしかして機嫌悪かったりするのかな?」
「別に。普通よ」
彼女は素っ気なく答えると、先ほどよりも態度を硬化させて、プイと視線をドアガラスの方へ戻してしまった……。
いやいや、その態度は『普通』じゃないでしょ。絶対になにかあるって。
気になりだすと止まらない俺は、めげずに顔を覗き込む。
もう少しだけ、彼女に踏み込んでみようと思う。
「九条さん、俺、なにかした?」
「…………」
「言ってくれないと、わからないよ」
しつこく食い下がる俺に、彼女がついに反応する。
むぅ、と。
分かりやすく唇を尖らせて、恨めしげな視線を俺に向けたのだ。
ははーん、これは。やっぱり機嫌悪いやつだね。
世間一般では『怒ってる?』としつこく聞くこと自体が、相手の怒りの導火線に火を点けるパターンも多々あるらしい。
けれど……この反応は、どうもそれとは違う気がするな。
さてさて、どうしたものか。
ここで下手にご機嫌取りをするのも違う気がするし、ここは少し時間を置く──引いてみるのが正解かもしれない。
「そっか、機嫌悪いんだね。ごめんごめん」
「…………」
彼女はプイと窓の外を向いたまま、テコでも動かない構えを見せる。
その頑なな横顔を見ていたら、なんだか無性に……。
こう、ちょっかいを出したくなってきたというか。
引いてみるなんて高尚な戦術じゃない。ついつい苛めてみたくなってしまった、もう単なる俺の出来心。
わざとらしく残念そうに肩をすくめてみせる。
「ちょうど今から、俺のバイト先に挨拶に行こうと思ってたんだけど……」
チラリと様子を窺うが、反応はない。
ふうむ、やっぱり食いつきが良くないな。
なら、これでどうだろう。
「機嫌が悪いなら、無理に付き合わせるのも悪いしね。じゃあ、俺一人で行ってくるよ」
そう言って、俺が電車のドアの方へ体を向けた、その瞬間。
「──待って!」
ガシッ、と。
俺の制服の袖が、強い力で掴まれる。
振り返ると、さっきまで窓の外を向いていた彼女が、必死な目で俺を見つめていた。
……やべ、ちょっと苛めすぎたかな。
「行くわ。私も連れて行って」
「え? でも、機嫌悪いんじゃ……」
「悪くないわ……ううん、悪かったけど、行くの!」
どっちなんだよ。
支離滅裂な言い分だけど、そんな必死な姿を見せられたら、もう敵わない。
彼女は、逃がさないとばかりに俺の袖をギュッと掴んでいる。
その瞳が、どこか不安げに揺れているようにも見えて、俺は急激に罪悪感に襲われた。
「だって……水無月くんの、意地悪」
「えっ!? やっぱり俺、何かしたんだ」
不機嫌の犯人は、まさかの俺?
わかりやすく狼狽すると、彼女は小さく溜息をつき、少し拗ねたように視線を落とす。
そして、掴んでいた袖を離さないままボソリと呟くのだ。
「……小園くんは、言ってくれたのに」
「健太が? 何を?」
「美味しいって」
──あ。
バラバラだった思考が繋がり、一本の筋となる。
そうだ、お弁当だ。
昼休み。健太はタコさんウインナーを奪って「美味い!」と絶叫していた。神に感謝までして、悦に入っていた。
対して俺はどうだ?
奪われたショックと、高階さんの視線を気にするあまり……肝心なことを、一言も伝えていなかったんじゃないか!?
「……美味しく、なかった?」
彼女が、不安げに上目遣いで俺を見る。
その瞳が揺れているのを見て、俺は自分の大失態を盛大に悟る。
彼女は、うんと早起きして、俺の手のことを考えて、あんなに手間のかかるお弁当を作ってくれたのに。
一番大事な「ありがとう」と「美味しい」を言っていなかったなんて。
……最低だな、蒼。
「美味しかった。めちゃくちゃ美味しかったよ!」
俺は慌てて、車内の迷惑にならないギリギリの声量で声を出す。
「本当?」
「本当だよ! あー、正直言っていい?」
「うん、言って」
「あまりに美味しくて感動したのと、同級生に見られてる緊張で、言葉にする余裕がなかったんだ。ごめん」
「……よかった」
「え?」
「水無月くんが何も言ってくれないから……お口に合わなかったのかと思って、不安だったの」
「まさか。これからもずっと食べたいくらいだよ」
「ふふ、ならいいの」
彼女のご機嫌は、一瞬で快晴へと戻ったらしい。
単純というか、素直というか。言葉一つでここまで劇的に機嫌が直るなんて、案外チョロ……げふん。
いやはや、なんとも。
高嶺のチョロ子さん……なんて。
心の中でそうやって茶化してでもいないと、嬉しそうに綻ぶ君の笑顔の破壊力に、俺の心臓が保たないや。
やっぱりこの人は、高嶺の花と勝手に呼ばれているだけで。
中身は普通の、いや、普通以上に可愛らしい女の子なんだなと、改めて思い知らされている。
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