第21話 一つ一つ積み重ねていく未来

 油断すると、すぐに痛みが走る肋骨。それとは裏腹に、高鳴る心臓。

 その二つをどうにか抱えながらも、俺はソファの端で本気で拗ねている彼女に、どう声をかけたものかと悩んでいた。

 ……正直、ちょっとだけ楽しかったりするのは、内緒だ。

 

「ごめん、ごめん。でも、何もかも完璧な九条さんがゲーム下手なのって、とてもいいと思うよ? その方がよっぽど人間らしい」

 転がったコントローラーを拾いながら、ついつい、謝罪と感想が入り混じった言葉を投げかけてしまう。


「そんなの、慰めになってない……それに、なによ完璧って」

 彼女は、まだ頬を膨らませていた。

 う……。さすがに『へたくそ』は言い過ぎたか。それに、どうやら『完璧』と言われるのは、本人的に不本意らしい。

 

「あー……ごめん。じゃあお詫びに、腕が治ったら俺が夕飯作るよ。九条さんほど美味しくは作れないけど」

「え、本当に?」

 拗ねていたはずの彼女が、ぱっと顔を輝かせた。

 

 彼女が作ってくれたヘルシーな、野菜がたっぷりのパスタを思い出す。よし、今度は逆に、俺が肉まみれの脂っこい食事を君に振る舞うとしようか。くふふ。

 確か、家の冷蔵庫にまだ、冷凍のブロック肉が残っていたはず……。

 

 ……待て。家の冷蔵庫だと?

 最後に開けたのはいつだったか。俺が事故に遭った前日、ということは、木曜の夜が最後? 背筋に冷たいものが走る。

「まいったな……」

「何、急にどうしたの」

 

 じろり、と恨みがましい視線が飛んでくる。

 どうやら、まだ機嫌は直りきっていなかったみたいだ。

 

「九条さん、ごめん! 俺、自分の家に帰るよ」

「ええっ!? そんな、どうして。私のせい? もう拗ねないから、ごめんなさい」

 

「いやいや、違うよ。もちろん、許してくれるのは嬉しいけどさ」

 慌てて俺の言葉を遮る彼女の勘違いに、思わず苦笑が漏れる。


 さっきまでゲームのことで本気で拗ねていたかと思えば、今度は俺が帰る(かもしれない)と分かった途端、しゅんとして気遣ってくる。

 ……なんだこの可愛い生き物は。

 キミ、本当にあの九条 葵さんなの? 偽物じゃないよね?


 俺は一つ咳払いをして、緩みかけた顔を引き締める。

「俺さ、事故に遭った日から、一度も家に帰ってないんだよ」

「それは、まあ……そうね」

「冷蔵庫、放っておくと大変なことになると思わない? 洗濯物も取り込んでおかないとまずいし」


 冷凍モノはまだいい。問題は卵、牛乳、食べかけの常備菜……。脳裏をよぎる、何日も前の食材たち。放置しすぎれば、彼らは恐ろしい事故物件と化すだろう。

 未知の液体となったソレが、どれだけ恐ろしい悪臭を放つか。

 

「早く処分しないと。今ならまだ間に合う」

 俺の表情が本気で深刻なものに変わったのを見て、彼女もようやく事態を察してくれたらしい。


「……あの、水無月くん」

「何?」

「わ、私も、一緒に行っていい?」

 彼女の予想外の申し出に、一瞬きょとんとしてしまう。

 

「え? いや、ダメだって。場合によっては匂うかもしれないし」

「平気よ。それに、今のあなた一人じゃ、掃除も大変でしょう?」

「それは、そうだけど……。俺の家、ここみたいにお洒落じゃないからさ」

「そんなの、気にしないわ」

 

 こてん、と小首を傾げて、俺の目をじっと見上げてくる九条さん。

「だめ?」

 ……っ! その仕草、その角度に、その一言。

 勘弁してくれ。それは破壊力が強すぎるよ。

 

「……むしろ、本当はこちらからお願いしたい、というか……」


 俺が言い終わるか終わらないかのうちに、彼女は、ここ数日で一番と思うほど満開の笑顔を咲かせた。


「決まりね! 行きましょう」

 ただの掃除だよ? なぜ、そんなに嬉しそうな顔をするんだ。あれ……? おまけに、いつのまにか機嫌まで直っている?

 女心と秋の空とはよく言ったものだ。


 彼女の家から、ほんと目と鼻の先。

 隣を歩く彼女の足取りが、心なしか弾んでいるように見えるのは、きっと気のせいじゃないだろう。

 俺が住む、築三十年は過ぎたワンルームマンション。

 心なしか古びた扉の前で、俺は鍵を差し込みながら最後の確認をする。

 ちなみに、我が家にカードキーなんて気の利いたものはない。古風な、鍵穴に差し込むギザギザなタイプだ。

 

「いい? 九条さん」

「ええ」

 

「もしも、臭ってたらごめん。まだ、大丈夫だとは思うけど……」

「気にしないで、ずっと病院にいたんだもの」


 数日ぶりに開ける扉が、なんだかやけに重く感じる。

 そんな気がした。

「お邪魔します」

 彼女の、どこか緊張を孕んだ声が、我が家の狭い玄関に初めて響いた。


 人生とはわからないものだ、と。つくづくそう思う。

 ほんのさっきまで、俺は目の前の九条 葵——学校一の高嶺の花たる彼女の、お洒落なマンションにいた。それが今、その彼女が逆に俺の家に来ている。

 

 だというのに、有頂天になれない俺がいる。

 むしろ逆に、彼女が幻滅するのではないかと、内心ヒヤヒヤしながらその反応を窺う始末なんだ。

 なぜなら、彼女の家とは、何もかもが違いすぎた。

 生活感しかない、あまりにも普通な空間が、そこには広がっていたから。

 

 彼女に似合いそうな装飾も、上品さも無ければ、華やかさの欠片もない部屋。唯一の救いは、男子の部屋の割に整理整頓されていることぐらいか。


 久しぶりに帰って来た部屋に充満していたのは、案の定……淀んだ空気で。

 締め切られていた窓のせいか、生活感が途絶えた部屋特有の、暗く埃っぽい感じがする。

 たった数日、留守にしただけなのに。


 だけど、九条さんはそんな淀んだ空気などまるで気にも留めず、むしろ、どこか嬉しそうに、その宝石のような瞳を好奇心のままにきょろきょろと動かしていた。

(ここが、水無月くんの部屋……)

 そんな心の声が、ダダ漏れになっているような目。

 俺もさっきまで彼女の家でそうだったから、なんとなくわかってしまう。

 

 ……俺、こんなに分かりやすい顔してたのか? うわぁ。

 

 彼女の視線が、何を追っているのか。

 十畳程度の、ありふれた男子高校生の一人暮らしの部屋だ。目新しいものなんて何もないだろうに。

 彼女は、俺の本棚やテーブルを一通り見つめると、まっすぐベッドサイドへと歩み寄る。


「九条さん?」

 

 そこに畳んで置かれていた、俺の寝間着。

 そう、ただのグレーのスウェット。それを、彼女は何の躊躇もなく手に取った。そして、勝手にそれを広げると、自分の体に当ててみる。

「やっぱり大きいのね」

「ちょ、九条さん! 何して……」


 俺の抗議に、彼女は「え?」とでも言いたげに無邪気に微笑む。

 そして今度は、まるで洋服屋の店員さんのように、寸分の狂いもなく綺麗に畳み直し、元の場所に戻した。

 ……プ、プロの技!?

 

「へぇ、すごい上手に畳むなあ」

「スタイリストさんに教えてもらったの」

「道理で。今度、俺にも教えてよ」

「ふふ、手が治ったらね」

 

 彼女は朗らかに笑う。一輪の花が綻ぶように。


『手が治ったら』 そんな、ささやかな未来への約束。

 この生活感しかない普通の部屋には、不釣り合いなほど眩しい約束を、俺たちは今日もまた一つ、積み上げて。

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