第6話 座標の真実と、記憶の深度
二人が足を踏み入れた石室は、外の重苦しい魔力とは裏腹に、清浄な空気に満たされていた。部屋の中央には、宙に浮かぶ青白い光の結晶があり、その光が室内の壁に刻まれた無数の古代文字を照らしている。それは、遥か古代の叡智が形を保ったまま漂う、神秘的な空間だった。
「…これが、『次元固定術』の座標記録」
リラは銀剣を収め、畏敬の念をもって光の結晶を見上げた。それは記録書というより、数万の魔術回路が凝縮された、精緻な宝石のようだった。結晶から発せられる光は、静かでいて、宇宙の真理を映し出すかのような深遠さを持っていた。
アインは、壁の文字を指先でなぞった。彼の記憶はまだ完全ではないが、ここに刻まれた文字の全てが、彼の前世の思考の残滓であり、世界を救うために編み出された最後の希望であることが分かった。
「これは、単なる地図ではない、リラ。次元固定術の実行に必要な全ての空間座標、魔力経路、時間軸の補正値、そして術式を安定させるための膨大な計算結果…全てを統合した**【真の座標演算体(トゥルー・コーディネート・マトリクス)】**だ。これを持つ者こそが、術を起動できる。知識そのものが、最終的な『鍵』なのだ」
アインは言った。しかし、この演算体をどうやって持ち運ぶのか。その大きさは、人の両手に収まるほどだが、放つ魔力の質量は、並大抵ではなかった。
「どうやってこれを運びましょう?崩壊する前に、騎士団に渡すわけにはいきません」リラが尋ねた。
アインは静かに首を振った。その顔色は、限界を超えて蒼白だった。
「これは物理的な物体ではない。レオンがここに封印したのは、知識の結晶だ。そして、この知識を受け継ぐ器も、レオン自身が選んでいた…リラ、君だ」
アインの言葉に、リラは息をのんだ。彼女の銀剣が、微かに共鳴しているのを感じた。
「私…に?」
「ああ。君は私の知識を段階的に受け入れた。君の脳と、君の魔導剣技(アーツ・ソード)の術式展開能力は、この演算体を統合するための準備だった。これを受け入れれば、君の力は飛躍的に高まるだろう。しかし、リスクも伴う。君の精神は、この膨大な情報に耐えきれず、完全にレオンの知識に飲み込まれ、君自身の人格が消滅してしまうかもしれない。それでも、君は…」
リラは、光の結晶を見つめ、決意を固めた。迷いは一切なかった。
「構いません。賢者様、私はあなたの護り人です。私が持つべき力ならば、飲み込まれても本望です。私を信じて託してくださった、あなたの意志を、私は裏切りません」
彼女は再び銀剣を抜き、結晶へと近づいた。銀剣の刀身が、結晶の青白い光を反射し、激しく脈動し始める。
「剣を媒介として魔力を流し込め、リラ!全ての境界を取り払い、統合するんだ!」
アインの鋭い指示に従い、リラは深く呼吸し、身体中の全ての魔力を銀剣へと集中させる。剣は、まるで生きているかのように唸りを上げ、結晶は剣へと吸い込まれるように収束していく。結晶は、その膨大な知識と術式を一気にリラの銀剣、そして彼女の脳の深部へと流し込み始めた。
ズゥン…!ブゥン…!
激しい魔力の奔流と、脳を直接掻き乱す情報の激流がリラを襲う。それは、数万年分の世界の記憶、次元の法則、そして宇宙の真理を、一瞬で頭に叩き込まれるような、耐え難い苦痛だった。彼女の全身の血管が青白く浮き上がり、肌はまるで内側から光を放っているようだった。リラは歯を食いしばり、この知識の激流に、自身の核となる意志を飲み込まれないよう必死に耐える。
その時、リラの銀剣の刀身に、細く美しい古代文字の紋様が刻まれ始めた。それは、座標情報が、物理的な『記憶媒体』として剣に定着していくプロセスだった。銀剣はもはや、ただの武器ではない。次元固定術の**【座標演算体】**そのものとなったのだ。
そして、リラは、知識と共に、アインの失われた記憶の、さらに深く、暗い断片を垣間見た。
(…レオン、私は、間に合わない…世界は…!このままでは、次元の崩壊が、我々の努力を無にする!ごめん…必ず、次の輪廻で…!)
それは、古代の賢者レオンが、力の封印を行う直前、自らの無力感と世界の崩壊を防ぎきれなかった激しい絶望の記憶だった。世界は既に修復不能な亀裂の瀬戸際にあり、彼に残された時間は、全てを封印し、希望を未来に託すためのわずかな時間しかなかったのだ。この絶望こそが、【嘆きの峡谷】に澱む重い魔力の正体だった。
リラが目を開くと、瞳の中には一瞬、古代の絶望と、それを乗り越え未来へと繋ぐ強い光が宿っていた。銀剣は完全に光を止め、古代の紋様を秘めた静謐な美しさを湛えている。
「…統合が完了しました、賢者様」
リラは、以前よりも遥かに深く、アインの知識と繋がっていることを感じていた。彼女は、次元固定術の全ての座標情報を、まるで自分の呼吸のように理解し、銀剣を振るう動作そのものが、術式の展開と同義となっていた。
アインは、その光景を見て、満足げに頷くと同時に、全身の力が抜けて岩壁に凭れかかった。大量の知識が解放された反動で、彼の肉体は限界を迎えていた。
「よくやった、リラ。これで、我々は最終的な準備を整えた。君の剣こそが、世界の運命を決める**『秤(はかり)』**となる」
アインは、力を振り絞って地図を広げ、最終目的地を指さした。
「あとは、騎士団が奪おうとしている、次元の歪みを修正するための最後の**【術式起動台】**…古代魔術都市『沈黙の図書館』へと向かうだけだ。そこは、レオンが最後に術を起動しようとした場所だ」
その時、石室の外から、激しい風を切る音が響いた。同時に、峡谷の澱んだ魔力が、一つの巨大な力によって一掃されるのを感じた。
「賢者!リラ!我々の追跡を振り切れると思ったか!」
ボルグ副団長の声だった。彼は、残った騎士を率いて、執念深く峡谷の入口まで追ってきていたのだ。
しかし、ボルグは一人ではなかった。彼の隣には、細身だが威厳に満ちた、騎士団の**『団長』であるゼフィロス**が立っていた。ゼフィロスの目は、騎士団の秩序を体現するかのように冷徹で、一切の感情を寄せ付けない。彼の腰の剣は、騎士団にのみ伝わる伝説の【風の魔剣】を帯びており、その刀身が風を切り裂く微かな音を立てていた。
「よくも、私の最も優秀な騎士を誑かしてくれたな、忘却の賢者よ。そして、リラ」
ゼフィロス団長は、静かに、しかし絶対的な威圧感を持って言った。彼は、アインの存在を完全に軽蔑し、リラの裏切りを許していなかった。
「その座標記録は、未来永劫、騎士団が厳重に管理すべき**『聖物』**だ。その知識を手に、この世界を弄ぶことは許さない。リラ、戻ってこい。まだ間に合う。騎士としての誇りを捨てるな」
リラは、剣に刻まれた古代文字をしっかりと握りしめた。彼女の瞳には、騎士団への情はもうない。あるのは、アインから託された世界の未来を護るという、新たな使命だけだった。
「団長。あなたは世界を護っているつもりで、その崩壊を早めている。真の秩序は、世界が滅びてしまえば意味をなしません。私たちは、あなたの秩序のためではなく、真の世界の未来のために、今ここであなたを乗り越えます」
リラは、全身の力を使い果たしたアインを背中に庇い、銀剣を構えた。銀剣の表面に刻まれた座標の紋様が、リラの純粋な魔力を吸い上げ、青く輝き始めた。その魔力は、先ほどの統合により、峡谷の澱んだ魔力を全て浄化するほどに純粋で強大になっていた。
「賢者様、私はあなたを必ず『沈黙の図書館』へお連れします。この剣が、そのための道となります」
ゼフィロス団長と、次元固定術の【座標演算体】を統合したリラ。二人の『銀翼』が、今、峡谷の出口で激突しようとしていた。
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