忘却の賢者と銀翼の護り人
夜ガラス
第1話 再動の予兆と、次元の歪み
宵闇に染まる空の下、砂塵を巻き上げる乾いた風が吹き荒れる。
「忘却の地」――世界を護るための巨大な結界が張られているにもかかわらず、その名に反して人々の記憶から消え去った古代の遺物が眠る、荒涼とした大地だ。巨大な円錐形の岩山が空を突き刺すように連なり、人の営みを感じさせない静寂が支配している。
その地の外れ、ぽつんと建つ粗末な石造りの小屋の中で、一人の青年が微かなオイルランプの灯りの下、古びた魔導書を広げていた。
青年の名はアイン。二十歳そこそこに見えるが、その瞳の奥には数多の知識と、どこか深い諦念が宿っている。
彼は、この世界では「転生者」と分類される。しかし、彼の転生はあまりにも不完全だった。前世で世界屈指の「大魔導師レオン・アルタイル」として活躍し、巨大な脅威を封印したという「功績」に関する記憶、つまり「力を行使した体験」は、転生の際に綺麗さっぱり消え失せていた。
残されたのは、「魔術の原理」「歴史」「異界の知識」「複雑な術式」といった、膨大な「知識」の断片だけ。知識は完璧だが、それを実行する「力」も「記憶」もない。彼は、自分自身の偉業を、脳内の古文書を解読するように、時間をかけて追っている変わり者だ。
「くそっ、この『次元固定術』の最終的な鍵となる術式が、何度読み込んでも『こうあるべきだ』という論理は理解できるのに、『どう実行するべきか』が思い出せない…」
アインは頭を抱えた。手にしているのは、彼が前世で世界を救うために編み出した、最も重要な「世界結界」の根幹を成す術式が記された魔導書の写本だ。それは、彼の脳内の知識と完全に一致している。しかし、魔法陣の最後の線の意味、魔力を流し込む際の思考の誘導方法など、最も肝心な「実務的な技術」だけが、まるで古い霧のように頭の中でぼやけている。
彼は知っている。この術式こそが、異世界からの侵入を防ぐ結界の核であること。そして、この術式の細部が理解できないということは、結界が何らかの原因で崩壊の兆しを見せていることを意味していた。
「知識は、世界を救えないのか。力と行動を伴わなければ、私はただの空虚な図書館でしかない…」
アインが絶望的に呟いた、その時だった。
ドンドンドン!
小屋の扉が、嵐のような激しさで叩かれた。砂塵が舞う荒野に、その音は異様に大きく響く。
「アイン!いるか、アイン!急いで!」
慌てたような、しかし芯の通った声。アインはすぐに魔導書を閉じ、立ち上がった。
扉を開けると、そこに立っていたのは、一人の少女だった。
彼女の名はリラ。銀色に輝く髪を短くまとめ、鋭い光を宿す青い瞳を持つ、十七歳の少女だ。彼女はこの地方を統べる「銀翼騎士団」の見習い騎士であり、その驚異的な剣技と、動物のように鋭い第六感から「銀翼の護り人」と渾名されていた。
彼女はアインの数少ない友人であり、彼の常識離れした知識と、時折見せる異質な言動を面白がって見守る理解者でもあった。
リラは息を切らし、胸に手を当てて呼吸を整えながら、アインに切迫した声で告げた。
「大変だ、アイン!南の『黒曜石の廃墟』で、『次元の歪み』が…発生した!」
「『次元の歪み』だと…?」
アインの表情が一変した。それは、異世界とこの世界を繋ぐ、不安定な亀裂だ。通常なら小さな亀裂ができて、数体の魔物が出てくる程度で収まるはず。
「今回は、規模が違う。ガゼル団長も顔色を変えていた。亀裂の周囲には青い雷光が走っていて、高周波音が鳴り響いているんだ。過去の大災害、『虚空の大侵攻』の兆しに似ているって…」
アインの知識データベースが一気に駆動する。『黒曜石の廃墟』。それは、世界結界の「第二補助術式」が埋設された三つの重要地点の一つだ。そこで大規模な歪みが発生したということは、その補助術式が完全に機能を停止し、結界の核である「次元固定術」に直接負荷がかかり始めていることを意味していた。
「異界の門…」
アインがポツリと漏らした言葉に、リラは聞き返した。「え、なんだって?」
「リラ。この歪みは、単なる亀裂ではない。あれは、異世界からこの世界へ続く通路、『異界の門』へと進化しつつある。もしそうなれば、君たちの騎士団の力では、最早太刀打ちできないレベルの存在が…『虚空の領主(ヴォイド・ロード)』がこの世界に顕現するだろう」
リラの顔から血の気が引いた。彼女は騎士団の娘として育ち、その言葉の重さを知っていた。「虚空の領主」は、伝説や童話に出てくる、世界を滅ぼす存在だ。
「団長たちを、撤退させなければ…」
「駄目だ。それでは間に合わない」アインは首を振った。「これは、私が前世で成し遂げたことの、崩壊を意味する。私が生きた証、私が世界に残した唯一の功績が、今、破られようとしている。それを放っておくわけにはいかない」
アインは、胸ポケットから一枚の古い羊皮紙を取り出した。それは、彼が昨晩、脳内の知識から「転写」することに成功した、古代魔術の「限定起動式」の一部だった。彼は自力で完全な術式は組めないが、応急処置として結界を一時的に補強する術式を、知識として復元したのだ。
「リラ。今から私が向かう。君は私を護ってくれるか?私は戦えない。だが、知識だけは、誰にも負けない」
リラは一瞬、戸惑いの表情を見せたが、すぐにそれを打ち消した。アインの言葉には、彼の知識の膨大さだけではない、世界に対する責任感が込められていることを感じたからだ。
「…わかった。行くぞ、賢者様。私は『護り人』だ。君を、絶対に護り抜く」
彼女は力強く頷き、騎士団の制服である銀色のマントを翻した。
「一つ頼みがある。騎士団が持つ『魔力増幅石(マナ・ブースト・ストーン)』を借りてきてほしい。私の知識を具現化するには、強力な触媒が必要だ」
リラが用意した馬に二人で跨り、二人は荒れ地を疾走した。荒れた地面を蹴る馬の蹄の音と、風切り音だけが響き渡る。
「アイン。魔力増幅石は持ってきた。騎士団の宝物庫にあった、一番純度の高い『藍晶石(アイ・クリスタル)』だ。…だが、本当に大丈夫か?あの石は、並の魔術師が扱おうとすれば、魔力の過負荷で身体が弾け飛ぶ」
リラは馬上で、不安を隠せない様子で言った。藍晶石は、通常の魔力増幅石とは比べ物にならないほど強力な魔力の奔流を供給する。
アインは静かに答える。
「問題ない。私の魔力は、言わば『知識を呼び出すためのスイッチ』に過ぎない。この身体で大魔術を使うキャパシティはない。だが、膨大な知識を持つ私の脳が、その藍晶石を『魔力の増幅器』ではなく、『知識の転写媒体』として利用する。大きな力は必要ないが、安定した『媒体』が必要なんだ」
(…本当は、一瞬たりとも魔力を止められない。私の肉体は、前世の力が失われた今の状態では、この術式を起動するだけで崩壊寸前になるだろう。だが、他に方法はない)
アインは、リラに見えないように、硬く拳を握りしめた。
約30分後、二人は廃墟の近くに到着した。馬を岩陰に隠し、リラは先行して周囲の状況を確認する。
「あれだ…!」
リラが指差す先、黒曜石の巨大な岩が乱立する窪地の中心に、不気味な黒い亀裂が口を開けていた。それが「次元の歪み」だ。
亀裂は、巨大な門扉ほどもあり、通常知られる歪みの規模を遥かに凌駕していた。亀裂の周囲には、青白い雷光のようなものがバチバチと迸り、大気を引き裂くような高周波音を響かせている。それは、この世界と異世界との境界が、暴力的に引き裂かれつつあることを示していた。
窪地の周囲には、「銀翼騎士団」の騎士たちが、重装甲を身に纏い、一列に陣取っていた。しかし、彼らの表情は硬く、既に何人かの騎士が負傷し、後方に運び込まれているのが見て取れた。
亀裂からは、魔物が出現していた。
それは、「虚空の徘徊者(ヴォイド・ウォーカー)」と呼ばれる異形だ。全身が不定形の黒い粘液で構成され、時折、鋭利な爪や牙のようなものを形成しては、騎士たちに襲い掛かっている。物理攻撃が通りにくく、騎士団の主力である剣技や弓術では、決定打を与えにくい、厄介極まりない魔物だ。
「リラ!戻ったか!」
騎士団の団長、剛毅な髭を持つ中年男性『ガゼル団長』が、リラに駆け寄った。
「歪みがデカすぎる!このままでは、あの『徘徊者』が際限なく溢れ出てくる!お前の言っていた民間人は、本当に役に立つのか?」
ガゼル団長は、アインを全身で観察するように見た。知識豊富な変わり者ということは知っているが、この戦場で何ができるというのか。
アインは恐れを知らぬかのように、真っ直ぐに団長を見つめた。
「団長。私の知識によれば、この歪みは『次元固定術』の崩壊によって起きています。そして、この歪みは単なる亀裂ではない…『異界の門』へと進化しつつあります。あと数刻、この状態が続けば、この世界を護るための術式は完全に破綻する」
その時、窪地の中心で、一際大きな雷光が弾けた。
亀裂が、さらに一回り大きくなる。そして、そこから、騎士団が今まで見たこともない、巨大な虚空の徘徊者が出現した。それは、まるで黒曜石の塊に無数の目が埋め込まれたような、おぞましい姿。大きさは騎士団の馬よりも遥かに大きい。
「あれが…虚空の領主の斥候か…!全員、警戒態勢!攻撃を集中せよ!」
騎士たちの剣が、魔力を帯びて輝く。彼らが決死の覚悟で戦線に復帰する中、アインはリラに最後の指示を出した。
「リラ。今だ。私に、その『藍晶石』を」
リラは躊躇なく、腰に下げていた藍色の結晶、魔力増幅石をアインに手渡した。石は触れただけでビリビリと魔力の奔流を感じさせる。
アインは、羊皮紙に記された「限定起動式」を藍晶石に当て、深く呼吸し、静かに、しかし明確な言葉で詠唱を始めた。
「――古代魔術式:『虚空の隔壁(ヴォイド・バリア)』…術式起動。媒体:藍晶石(アイ・クリスタル)。座標:黒曜石の廃墟…」
アインの口から流れ出る言葉は、この世界の魔術師が聞いたこともない、正確無比な古代の言語だった。それは、彼の脳内の知識が、言葉という形で肉体を通り抜け、外界に流れ出している瞬間だった。
詠唱が進むにつれ、アインの額には脂汗が滲み、血管が浮き上がり始める。キャパシティ以上の知識の転写は、肉体を激しく蝕む。彼は、自分の体が一瞬で灰になるほどの負荷に耐えていた。
「ぐっ…!」
アインの詠唱が途切れかけた、その時。
巨大な虚空の斥候が、騎士団の隊列を突破し、アインとリラめがけて巨大な粘液状の爪を振り下ろした!団長たちの叫び声が響く。
「させるか!」
リラは反射的に、アインの前に躍り出た。彼女の銀色の剣が、青い光を放つ。
「銀翼騎士団、リラ・フォレスティエ! 貴様のような異形に、我が騎士団の仲間は渡さない!」
彼女はアインの詠唱を邪魔させまいと、決死の覚悟で剣を構える。知識で世界を救おうとする賢者と、剣で賢者を護ろうとする護り人。二人の運命は、今、この瞬間に繋がった。
(…リラ。君の覚悟、受け取った。あとは、私に任せろ…!)
リラが異形の爪を受け止め、その衝撃に全身を震わせている間に、アインは最後の力を振り絞り、詠唱の最終句を放った。
「――『固定せよ、世界よ!』」
詠唱が完了した瞬間、アインの手の中の藍晶石が、激しい青い光を放ち、**パリン!**と音を立てて粉々に砕け散った。
その光は、歪みの亀裂へと吸い込まれ、一瞬のうちに亀裂を青い光の網で覆い尽くした。青い網は急速に強固な「隔壁」となり、虚空の斥候の侵入をピタリと止めた。高周波音も収束し、亀裂の周囲の雷光も消え失せていく。
結界は、一時的にではあるが、アインの知識によって再起動を果たした。
その代償に、アインは魔力と体力、そして精神力を使い果たし、その場に崩れ落ちた。
「アイン!」
リラは急いで虚空の斥候から距離を取り、倒れたアインに駆け寄る。彼女の瞳には、安堵と、アインを心配する色が浮かんでいた。
アインは、リラに抱きかかえられながら、力なく言った。
「…ありがとう、リラ。これで、『異界の門』への進化は、一時的に防げた…。騎士団は、この間に体勢を立て直せるだろう…」
「一時的に、って…」リラが不安げに聞き返す。
アインは、虚ろな目をしながらも、知識だけは揺るぎない真実を語り続けた。
「ああ。これは、あくまで応急処置だ。私が失った記憶と、真の『力』を取り戻さなければ、この『虚空の隔壁』は長くは持たない。遠からず、世界結界は完全に破綻し、『虚空の領主』がこの地に降り立つことになる」
――彼の、そして世界を護るための、長い旅が始まった。
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