第18話:愛の論理と、新しい始まり

 夜明け前の街路を、佐伯悠真と野々宮会長は並んで歩いていた。図書館の門が、背後の暗闇に沈んでいる。


 悠真は、心の中で、絶望と歓喜という、相反する感情が同時に存在するという、これまでの論理ではありえない感覚を味わっていた。詩織はもういない。だが、彼女の愛と告白は、僕の魂に深く、永遠に刻み込まれた。


「佐伯」野々宮が、静寂を破った。「君の感情出力は、極めて高精度だ。最後の『愛してる』という告白によって、君の心に残っていた『後悔』という最大のバグは完全にデリートされた。これは、論理的な結論だ」


 野々宮の分析は、相変わらず冷徹だったが、その言葉には、不思議な優しさが含まれていた。


「ありがとう、野々宮会長。君が、僕の『非効率な旅』を最後まで守り通してくれたからだ」


「僕の規範が、君の新しい論理によって書き換えられただけだ。僕は、君の最適化された外部ユニットとして、最後の任務を遂行する」


 野々宮は、立ち止まり、悠真に向き直った。


「君は、詩織くんの『生きて、笑って、恋をして』という第四の願いを、今、この夜明け前で完遂させた。しかし、『生きて』という願いの証明には、君の未来を確定させるという現実的なステップが不可欠だ」


 悠真は、ポケットから猫のピンバッジを取り出した。金属の冷たさが、詩織との繋がりを教えてくれる。


「わかっている。僕の新しい論理は、受験という結論で、初めて社会的な証明となる」


 野々宮は、悠真の完璧な横顔に、初めて微笑みのようなものを見せた。


「そうだ。詩織くんの愛を、受験というデータに変えて、合格を勝ち取る。それが、君の新しい人生のスタートラインだ」


 夜明けの光が、二人の制服を照らし始めた。悠真の心に、迷いは一切なかった。彼の論理は、愛という最も強力な燃料を得て、新たな軌道に乗り始めたのだ。




――そして、迎えた大学受験の日。


 会場となったのは、僕たちが目指した名門大学の、歴史を感じさせる重厚な講堂だった。


 悠真は、試験会場の硬い椅子に座り、周囲を見渡した。誰もが緊張に顔を強張らせ、目の前の問題用紙という論理の壁に立ち向かおうとしている。


 かつての僕であれば、この緊張感こそが最高の効率を生む燃料だった。しかし、今の僕の心は、驚くほど静かで、温かい。


胸の内ポケットには、猫のピンバッジ。そして、参考書に挟んだ詩織の栞。


「生きて、笑って、恋をして」


 試験開始の合図と共に、悠真は問題用紙をめくった。


 最初の科目は、最も得意な数学。複雑な数式が並ぶ。以前の僕なら、完璧な公式だけを頼りに、感情を排除して解き進めていただろう。


 だが、今、僕の頭の中で動くのは、詩織が遺した愛のデータだ。


 悠真は、最も非効率的で、誰も選ばないような、独創的な解法を思いついた。それは、証明に時間を要するが、論理の美しさにおいて、他の解法を圧倒していた。


 僕は、その詩織的な解法を選んだ。


 それは、僕の論理が、詩織の愛によって拡張された瞬間だった。感情というノイズではなく、人間的な創造性という、最も強力な武器を手に入れたのだ。


 休憩時間。悠真は、緊張で座り込む受験生たちを見て、自然と微笑んだ。それは、野々宮に強制されて作ったぎこちない笑顔ではなく、心から湧き出る、穏やかな微笑だった。彼は、隣の席でペンを落として困っている受験生に、そっと予備のペンを差し出した。


「頑張ろう」


 声をかけたのは、佐伯悠真という、新しい人間だった。彼は、詩織が望んだ通りに、愛着資本を循環させる人間になっていた。


 試験は、順調に進んだ。解答用紙に書き込む僕の文字は、自信に満ちて、力強かった。


 試験終了のチャイムが鳴り響き、悠真は、胸いっぱいに息を吸った。後悔は、もうない。僕の心は、詩織の愛で満たされ、未来への希望で溢れていた。




 受験から合格発表までの数週間は、驚くほど穏やかだった。


 悠真は、野々宮の管理システムから解放され、自分の意志で行動するようになった。彼は、生徒会役員を辞し、自分の時間を、「非効率な楽しみ」のために使い始めた。


 彼は、詩織が愛したリコリスの花を、自宅の庭に植えた。毎日水をやり、その小さな成長を観察する。それは、かつて彼が無駄だと切り捨てた、愛着を育む時間だった。


 彼は、夜、誰もいない図書館には行かなくなった。詩織は、もうそこにはいない。しかし、彼は、図書館の「L.D.」の部屋で、詩織の最後の告白を受け入れたことで、彼女の愛という情報を、永遠に自分の心というデータベースに保存したのだ。


 ある晴れた午後――


 悠真は、公園のベンチで、オルゴールを聴いていた。彼の前を、制服姿のカップルが笑いながら通り過ぎる。


「恋をして」


 詩織の最後の願いが、彼の心に響く。彼は、もう、他の誰かを愛することを恐れていない。詩織の愛は、僕が次の愛を見つけるための、道標となったのだ。彼女は、僕の人生の終点ではなく、出発点だった。


 悠真は、心の中で、詩織に語りかけた。


(詩織。僕の論理は、愛によって拡張された。僕は、君が教えてくれた愛着資本を、この人生で循環させる。そして、必ず、笑って、恋をして、君に恥じない幸せな未来を生きるよ)


 彼は、ピンバッジを胸に当て、空を見上げた。


 青い空には、もう詩織の光の輪郭はない。だが、彼の心には、永遠に続く、優しい愛の光が輝いている。


 新しい人生の旅路が、今、始まる。

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