第13話:第三の壁:完璧な追跡者(ノゾミ)
虹の滝公園から街の中心へ戻るバスの中、佐伯悠真の心臓は、まるで故障した機械のように不規則に打っていた。彼の制服は汗で張り付き、疲労は限界を超えていたが、それは彼の論理的な警報を無視するほどの愛と後悔の燃料によって駆動されていた。
僕は、バスの座席で身を固くしていた。僕の隣には、もはや視覚で捉えることは困難な、光の揺らぎのような詩織の存在がある。
「M.G.(Midnight Garden)……真夜中の庭園」
その暗号が、僕に突きつけたのは、彼女の死という最終的な事実だ。私立病院の屋上庭園。詩織が、事故に遭う直前まで、定期的にボランティアとして通っていた場所。
詩織は、僕の都市計画の効率論を否定するように、病室の窓から見える「無駄な美しさ」を届けることに情熱を注いでいた。
(詩織):悠真は、効率だけじゃ人は生きられないって知るべきだよ。病室の壁の色一つで、人の心は変わるんだから。
当時の僕は、それを「感情論」として一蹴した。その傲慢さが、今、僕の胸を刺す。
バスが市街地に入ると、詩織の存在の揺らぎが、さらに激しくなった。太陽光は強い。彼女は、今にも完全にこの世界から消えてしまいそうだった。
僕は、無意識のうちに、ポケットの猫のピンバッジを強く握りしめた。触れられない愛の代替品。彼女の存在を感じる唯一の方法。
一方、佐伯悠真がバスを降りた後、生徒会長の野々宮は、図書館の管理室で、僕の完璧な日常に空いた穴を冷静に分析していた。
(野々宮の論理):佐伯悠真の行動は、極めて非論理的である。彼は、管理室の鍵を不正に持ち出し、返却した。そして、彼のスニーカーの泥は、通常の活動範囲外を示す。彼は、自己の感情を、組織の規範より優先した。これは、彼の**「完璧」**というシステムの致命的なバグだ。
野々宮は、僕の行動経路を、残された痕跡から正確に予測した。虹の滝公園。そして、次の手がかり。
彼は、僕の部屋に残されていた、詩織との交換日記の断片を、既に発見していた。僕が、焦りの中で隠し場所を曖昧にした、小さなミス。
「『M.G.』…Midnight Gardenか。あそこは…」
野々宮は、僕と詩織の過去の親密な関係を知っていた。彼は、僕を「裏切り者」として糾弾するつもりはなかった。彼の目的は、僕の精神的な破綻を防ぐこと。
「佐伯は、完璧であろうとしすぎるあまり、感情という『負荷』を処理できずにいる。彼を、これ以上非効率な自己破壊へと向かわせるわけにはいかない」
野々宮は、僕の論理の守護者であり、僕自身の規範の具現化だった。彼にとって、僕を捕まえ、引き戻すことが、僕の未来を救う唯一の論理的な手段だった。
野々宮は、バイクに飛び乗り、僕が向かっているであろう、私立病院へと向かった。彼は、僕にとっての第三の壁となった。
バスが、目的地である**「清陵総合病院」**の前に停車した。ここは、僕の住む街の郊外にある、大きく、近代的な医療施設だ。
僕は、バスを飛び降りた。巨大で、白く、無機質な病院の壁が、僕の視界を覆う。この場所が、詩織の命が尽きた場所だと思うと、僕の胸に鋭い痛みが走った。
詩織は、僕の隣で、ほとんど見えないほど微弱な存在になっていたが、その意識は、この病院の建物に向けられていた。
(詩織):……ここ……だよ……ゆ……うま……
病院の自動ドアをくぐると、独特の消毒液の匂いと、静かな秩序が僕を包み込んだ。ここは、感情の介入を許さない、論理と科学の極致だ。
僕は、ロビーの掲示板を探した。「屋上庭園(Midnight Garden)」の案内。
エレベーターに乗り込む。詩織は、僕の肩に、ほとんど触れることのない、冷たい空気の振動を寄せた。
(僕):詩織。君が、ここで何をしようとしていたのか…必ず、見つけ出す。
エレベーターが、最上階のランプを灯す。
エレベーターの扉が開く直前、僕のスマートフォンが震えた。差出人は、野々宮会長。
メッセージは、極めて簡潔で、僕の論理を揺さぶる一撃だった。
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From: Nonomiya
悠真。その場所は、君が失ったものを、もう一度失うための場所だ。
私は、君の未来の規範を守るために、君を止める。
今、病院の一階玄関に着いた。屋上で待て。
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野々宮の追跡が、物理的な現実となった。彼は、僕の感情的な逃避行を終わらせるために、この最終地点へと辿り着いたのだ。
しかし、僕は、エレベーターの扉が開いた瞬間、回避という論理を、自ら切り捨てた。
僕が逃げれば、野々宮は、僕の愛と後悔の痕跡を、「非効率なデータ」として処理し、僕の未来から完全に削除するだろう。それは、詩織の愛を二度殺すことになる。
エレベーターホールから、屋上庭園へ続く重い扉が見えた。扉の上には、小さなプレート。
M.G. - Midnight Garden
僕は、詩織の存在を感じるために、ピンバッジを握りしめた。彼女の輪郭は、僕の視線から完全に消えかかっていた。
「詩織。あと少しだ。野々宮会長の論理を、君の愛で打ち破る」
僕は、静かに、M.G.の扉に向かって歩き出した。
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