第10話:3-10-A、過去への招待状

 展望台を降り、夜明けの街を全力疾走した僕は、図書館の門前に辿り着いた時、泥まみれの制服と、呼吸困難寸前の己の姿に、一瞬、立ち尽くした。


 僕の脳内で、警報が鳴り響く。しかし、僕の横に立つ詩織の透明な姿を見れば、その警報は瞬時にかき消された。彼女の輪郭は、朝日に照らされ、今にも消えてしまいそうに淡い。


「詩織。待っていろ。すぐに『3-10-A』を見つける」


 僕は、誰にも聞こえない声でそう告げ、図書館の通用口へと急いだ。


 図書館の職員通用口から、僕は冷たい視線を一身に浴びた。夏服が泥で汚れた優等生など、ここには存在しないデータだ。


 僕は、感情をシャットアウトし、完璧な表情を取り戻した。


「おはようございます。生徒会副会長の佐伯です。今朝、校庭で倒れている生徒がいて、その対応に追われていました」


 用意周到な「論理的な言い訳」は、いつも通り、僕を完璧に守った。


 昼間の図書館の光の中で、詩織の姿は、僕の視界からほとんど消えていた。薄い陽炎、あるいは、窓ガラスの反射。僕だけが、その微かな存在を知っている。


 僕は、生徒会室で制服を着替えるふりをして、すぐさま図書館の管理室へと向かった。


3-10-A。


 それは、単なる書架番号や、一般的な資料室の番号ではない。図書館の建築図面と資料管理規定を熟知している僕には、それが旧館の特殊エリアを示すコードであることは、瞬時に理解できた。


「旧館の倉庫の鍵……」


 僕は、生徒会副会長として預かっている、図書館のマスターキーリストを調べた。管理室の許可を得ずに、勝手に持ち出すことは、倫理規定の最大違反だ。


 詩織は、僕の隣で、僕の顔とマスターキーリストを交互に指さし、取ってとジェスチャーしている。彼女の無音の懇願は、僕の心臓を締め付けた。


 僕は、論理と愛の天秤を、静かに傾けた。


 僕は、震える手で、マスターキーリストから旧館エリアを示すキーセットを抜き取り、それを自分のポケットに隠した。


 キーを盗み出した直後、僕は、図書館の廊下で、生徒会長の野々宮と鉢合わせた。野々宮は、僕が最も信頼し、僕が最も規範を守るべき相手だ。


「悠真。朝から顔色が悪いぞ。受験前だからといって、完璧を求めすぎるな」野々宮は、心配そうに僕を見た。


「大丈夫です、会長。論理的に体調管理はできています」


 僕は、平静を装ったが、野々宮の視線は、僕の泥で汚れたスニーカーに注がれた。


「……ふむ。それは一体どうしたんだ? 朝の清掃活動にしては、汚れ方が激しいな」


 僕の完璧な外装に生じた「非効率なノイズ」は、野々宮の規範意識に、初めての疑念を生じさせた。


 僕は、咄嗟に言葉を探したが、論理的な弁明は、もう出てこなかった。


「……すみません。少し、個人的な事情で。すぐに処理します」


 僕が、曖昧な感情的な言葉でごまかすのを見て、野々宮は目を細めた。彼は、僕を信用しているからこそ、その違和感を深く追求しなかった。だが、僕の心には、裏切りの重さが鉛のようにのしかかった。


 深夜、僕は再び図書館に潜入した。盗んだキーを握りしめ、旧館の倉庫エリアへと足を踏み入れる。


 詩織は、夜の闇の中で、かろうじてその輪郭を僕に示していた。僕の心臓は、鍵を開けるたびに激しく鼓動する。


 そして、目的の扉の前に立った。


「3-10-A. Special Collection Storage」


 僕が、重い鉄扉に鍵を差し込み、ゆっくりと回す。


 カチリ。


 扉を開けると、中は、ただの埃っぽい倉庫ではなかった。


 冷たいコンクリートの壁には、子供の頃の僕と詩織の笑顔の写真が、まるで小さなギャラリーのように飾られていた。床には、色褪せた座布団。そして、中央には、古びたオルゴールの箱が、一つだけ置かれていた。


「……ここは……」僕は、息を飲んだ。


 ここは、詩織が、僕のために作った「秘密の空間(シェルター)」だった。僕が、完璧な論理に疲れた時、いつか彼女が僕を連れてきて、二人で静かに休むための場所。


 僕が拒絶した、彼女の「悲しいをゼロにする図書館」の、ミニチュア版。


 僕の目の前で、詩織の輪郭が、わずかに光を増した。彼女の表情は、「ここが、私たちの愛の図書館だよ」と、僕に語りかけていた。声はなくても、その愛は、僕の魂に直接響いた。


 僕は、震える手で、中央のオルゴールに触れた。このオルゴールは、第5話で図書館から消えた、あのオルゴールではない。


 蓋を開けると、中には、僕と詩織が幼い頃、交換日記に使っていた小さなノートの、最後の数ページが、大切に折り畳まれて入っていた。


 ページには、詩織の少し乱れた文字で、こう書かれていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――


日記の欠損ページ


……but 悠真。私が本当に恐いのは、君が私を嫌いになることじゃない。


恐いのは、私が君の「効率」の中で、不要なデータとして処理されること。


君の論理を崩すのは、私にはできない。だから、せめて…


「私」というデータが消えても、君の心に、「愛着」という非効率なバグを、インストールしたかった。


I love you, but…君の完璧な未来のために、私は、ここで消えるべきだ。


これが、「悲しいをゼロにする」私の最後の答え。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 僕は、その文字を読み終えると、声にならない嗚咽を漏らした。


 彼女は、僕の愛を疑っていたわけではない。彼女は、僕の未来の効率を最優先するために、自らの存在と愛を、自ら切り捨てたのだ。


 彼女の「I love you, but」の続きは、僕への告白ではなく、僕の未来を邪魔しないための、悲しい「別れの論理」だった。


 僕は、オルゴールを強く抱きしめた。その瞬間、オルゴールの内部に隠されていた、さらに小さな紙片が、パラリと床に落ちた。


 紙片に書かれていたのは、短く、しかし決定的な次の手がかり。


「R.F.」


 詩織は、観測室の窓を指さし、「もう、時間がない」と、無言で僕に伝えた。僕の心の中で、詩織との残された時間が、刻一刻と減っていく。


「R.F.……」僕は、その記号を、血の滲むような決意とともに、脳裏に焼き付けた。

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