愛で溺れて
未人(みと)
第1話 彼
僕は、彼女と別れたつもりだった。
正確に言えば、「少し距離を置こう」と言って、彼女がうなずいた。
それで終わったと、思っていた。
あの頃の彼女は、息をするみたいに愛してくれた。
朝の連絡、昼の写真、夜の声。
それが一日途切れるだけで、彼女は震える声で言った。
「あなたの体温が感じられないの」
僕が飲んだペットボトルの水を、ゆっくりと飲み干す彼女を、僕は可愛いとすら思っていた。
けれど、連絡を怠った日の夜、アパートのドアの前に彼女が夜明けまで立っていたことがあった。
だんだん息苦しくなった。
“愛されている”というより、“溺れさせられている”ような気がした。
だから、少しだけ離れようとした。
それだけのつもりだった。
距離を置いて最初の夜、夢に彼女が出てきた。
穏やかに笑って、僕の隣に座っていた。
「久しぶりに、一緒に眠れるね」
その声を聞いた瞬間、胸がざわついた。
二度目の夜、彼女は囁いた。
「ねえ、あなたの夢の匂い、甘くて落ち着くの」
冷たい手が僕の胸に触れた。その感触に、なぜか質量を感じてしまった。
目を覚ますと、夢の中で触られた部分だけ、現実でも冷たい。
三度目の夜、息ができずに目を開けた。
胸の上に、彼女がいた。
夢の中と同じ笑顔で、僕を見下ろしていた。
「どうして逃げるの? もう離さないから」
朝、胸元にはっきりと、皮膚が紫色に窪んだような指の跡が残っていた。それは彼女の指紋だとすぐにわかった。
眠るのが怖くなった。
けれど、夜になるとまぶたが勝手に落ちる。
夢の中で彼女は、ますます鮮やかに、冷たくなっていった。
ある夜、彼女が僕の耳もとで囁いた。
「会いたいの。だからこれを使って」
手を伸ばすと、夢の中で銀色の鍵が落ちてきた。冷たい、現実の感触があった。
そして、目覚めるとシーツに濡れた彼女の黒い髪の毛が数本落ちていた。
床の上には、本当にその鍵が転がっていた。
彼女の部屋の鍵だった。
気づけば足が、勝手にそこへ向かっていた。
扉に鍵を差し込むと、静かに開いた。
部屋の奥で、彼女がベッドに横たわっていた。
肌は透けるように白く、呼吸は浅い。
瞼がわずかに震えていた。
医者は言った。
「肉体は生きていますが、脳の活動はほとんどありません」
その夜、夢の中で彼女が微笑んだ。
「やっと見つけた。これで、ずっと一緒にいられる」
その声が、胸の奥に沈んでいく。返事をしようとしたが、声が出なかった。
代わりに、僕の唇から、彼女の笑い声が静かに漏れた気がした。
翌朝、病室のモニターは沈黙していた。
そして、僕も目を覚まさなかった。
誰も知らない。
あの夜、夢の中で僕が差し出した鍵を、彼女がそっと握り返したことを。
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