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 すべての講義が終わり、大学を出た一実はスーパーに寄った。帰り道でもありバイト先への通勤経路でもあるこの道に、食材を買える場所があるのはとてもありがたい。何よりここは乳製品が安い。必需品は安価であればあるほど助かる。

 買い物を済ませてケーキ屋がある角を曲がった。古本屋と骨董品店を過ぎると、レンガ張りの二階建てビルが見えてくる。

一階は懐かしい雰囲気を醸し出す喫茶店のブッロ。その上の人見探偵事務所が一実のアルバイト先だ。探偵助手といいたいところだけど、そんな珍しい身分ではなく、ごく普通の家政婦として働いている。

 探偵事務所ということもあり、かなり癖が強い。


一、 見聞きしたことを他人に話さない。

二、 仕事の邪魔をしない。

三、 危険なことに首を突っ込まない。

四、 一週間のうちに最低三日乳製品を使った料理を作ること。

五、 乳製品を切らさない。


 以上が一実に課せられたルールだ。この中のどれか一つでも破ればクビになる。そういう契約を交わした。いや、交わさざるを得なかったと言い直したほうが正しいかもしれない。

 きっと探偵事務所に限らず、どんな職場でも制約はあると思う。コンビニやスーパーにだって、独自のルールや規定が定められている。

 ただ、それと一緒にしないでほしい。

 これは誰がどう考えても理不尽だ。契約書にサインをしている時もそう思っていた。それでも了承したのは、それ以外の選択肢がなかったわけで。一実に一時的でも天才的な頭脳みたいなものが憑依すれば、きっと新たな選択肢をこちらから提示できた。……なんて、今さら文句を言ってもどうにもできないというのは自分でもわかっている。

 事務所へ続く階段を上っていると、向かいから人が降りてきた。

「先生」

 先生と呼ばれた人物が一実に気づく。

「いいところに来たな。それを置いたらついてこい」

「いや、その前に何ですかその服」

 首元がよれたTシャツに色あせたジャージを履いている。とんでもなく似合わないし、あまりにもダサい。そのまま外出しようとするなんて神経を疑う。

「仕方なくだ。仕方なく」

 そう言って階段を降りていく背中を見送る。

「嫌な予感しかしない。ものすごく行きたくない。私、家政婦ですよ? 手伝うなら助手にしてくださいよー」

「助手は募集してないする気もない」

 昇進はまだまだ先らしい。


 昇進はまだまだ先らしい。


 食材をしまった一実は草むらに立っていた。右手には漁で使う大きくて丈夫な網。虫取りには少々気が早いと言いたくなるけれど、今回捕まえるのは犬らしい。

 散歩中にリードが外れて自由を得たその犬はどこまでも走り、この河原で見失ったとのこと。警察に任せればいいのでは? と思ったけれど、その飼い主曰く、警察も手いっぱいですぐには動けないと言われたそうだ。平和でないことが憎い。事件なんてこの世からなくなればいいのに。

「そっちに行ったぞ!」

 発せられた声で一実は我に返った。舌を出したまま自分に向かってくるフレンチブルドッグを見つけ、網を握る手に力が入る。釣り上げた魚を逃がさないために使われるこの網。本来の使い方ではないけれど、あるのとないのとではだいぶ違う。

 大体の進行方向を予測して一実は走り始めた。迷子のペットを捜索して保護するのはこれが初めてではない。何百回とはいかなくとも、十数回もやれば何となくコツもつかめる。

楽しげに地面を蹴る前足が浮いたタイミングで網を滑り込ませれば、あとは犬の勢いで何とかなる。

「よし! かかった!」

もだもだと足を動かす姿を見ながら一実は網を引き寄せる。目的が果たせたならこれ以上走る必要はない。全力疾走からジョギングと、少しずつスピードを落としていく。

犬を腕に抱えた時、突然一実の目の前に沼が現れた。

「えっ嘘! 嘘嘘! 何で待って!」

 人は急に止まれない。

 足に力を入れて踏ん張ってみても、地面がぬかるんでいてちっとも役に立たない。

綺麗な花や風に気持ちよく揺れる草の先に、沼があるなんて誰が予想できるというんだ。

「いや、いやだああああ!」

 ホラー映画並みの叫び声を出しながら、一実は泥沼に突っ込んだ。こんなことならお気に入りのスカートなんて履かなければ良かった。

とっさに犬を高く上げてかばったことはどうか褒めてほしい。

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