咲きホコレ!恋バナ!

風間 翔

第1話

 七月一日。

「ねぇ、人事課長」

 ここは大河内グループ株式会社。地方中枢都市に本社と工場を構え、家具家電や生活用品の、企画から製造販売まで行うそこそこ大きな会社だ。

「人事課長ってば」

 総務課長の樋口杏子は、メガネの分厚いレンズのために極端に小さく見える目をきょろきょろさせて周囲を気にしながら、総務課の島から二メートル程離れた隣の人事課の島に、椅子に腰掛けたまま両足で床を蹴り、シャーッと勢いよく近づいた。

「何よ、総務課長」

 杏子の同期で人事課長の川村真由美は、彼女を見ようともせず、パソコンの画面に向き合ったままで答えた。

「営業部に入った子なんだけど、ちと可愛すぎるのではないかい?」

 真由美は杏子がヒラヒラと弄んでいる履歴書にチラリと視線を送ると、ようやくパソコンの手を止めて溜息をついた。

 想定の範囲ではあるが、やはり情報が早い。その履歴書の女性は、つい先日欠員募集の求人で採用が決まったばかりで、まさに今日から出社することになっている。

「あぁ、それね。あたしは別な子を推したんだけど、しょうがないわよ。上が決めたんだから」

「上って、健ちゃんが?」

「松本部長じゃないわ。その子、営業管理課に所属だから、上司になる右田課長の要望で決まったの」

「はぁん。どうりで。健ちゃんはもっと見る目あるもんね。なるほど、右田の好みか」

 杏子は全く納得していない顔でまだ履歴書を睨みつけている。

「ま、営業部だから、ある程度は容姿も重要だっていうところを強調してたけど」

「いやいやいや。別にいらないでしょそんなもん。事務職だし、本社勤務だし」

 それは真由美も同感である。

 右田課長は、「急な欠員で大変なんだから、即戦力の子じゃないと困るよ!」なんて、ご懐妊のために退職することになったマリちゃんに聞こえるように嫌味ったらしく言って来たくせに、結局はほとんど事務経験のない、一番若くて可愛いだけの女性を選んだのだ。

 他に即戦力になりそうな人はいっぱいいたのに、だいぶ歳がいってるよねとか、あんまり優秀なのも扱いに困るよねとか、ちょっと見た目があれだよねとか、とても公には言えない、不当極まりない理由ばかりを並べて。

 確かに理不尽だが、真由美にしてみればこのくらいは日常茶飯事だ。これでも若い頃はいちいち腹を立てたり上に楯突いたりしていたが、良くも悪くも、今ではそういうものと割り切って受け流せるようになってしまった。

 そういった裏事情があることはこの総務課長だって知っているし、彼女自身も、何度も泥水を飲んでここまで来たはずなのに。なぜだろう、今日はやたらと嚙みついて来る。

「何? やっぱり総務課長はお気に召さないかしら?」

「あのねぇ、お気に召すもなにも、どう見たって顔で採ったとしか思えないじゃん、この経歴じゃ。まだ二十四歳なのに、専門学校出てから何社目よ? 一、二、三、四、五社! ご、五社目だぜ? 五社目‼」

「ちょっと、杏子ってば」

 予想以上の大興奮に見舞われた同期に慌てて周りを見渡したが、幸いまだ朝早いオフィスにいる社員はまばらで、真由美たちを気にする者はいない。

 杏子は鼻息が荒いまま続ける。

「それで? これまでの四社の退職理由は何?」

「確か、スキルアップのため、とか、販売員は向いてないから製造工場に転職したとか、……お母さんが病気でっていうのもあったな」

「はぁ? そんなの、まさか全部信じたわけじゃないでしょうね? 嘘に決まってんじゃん! 興信所かければ一発だよ。人間関係で辞めたに決まってるって。男の社員に手ぇ出したか、女子社員とのイザコザで辞めたんだって。おそらく男関係の略奪系だね。だいたい協調性もなさそうだし」

 いよいよおかしい。もともと杏子は口こそ悪いが、根拠も無しにこんなことを言う女ではない。

「あんた、いくらなんでも偏見だよ」

「中には偏見言う人も必要なの。あたしだって真由美にだから言ってんのよ」

 開き直っている相手に、もはや正論は通じない。真由美は話の方向を変えてみる。

「今回はいつにも増して熱いけど、いったいどうしたの? 今さら部長絡みなわけ?」

 出来るだけ穏やかに、最後の方は意識的に声を落として聞く。

「違うって。そりゃ、ある程度は容姿も大事かもしれないけどね、顔で採ると秩序が乱れるのよ」

「秩序? 何、朝から総務課長みたいなこと言ってんのよ」

 杏子が舌打ちをした。真由美は小さく笑う。

 ここでいくら騒ごうが、もうどうにもならないことは二人とも分かっている。そろそろこの話は切り上げようと、真由美がパソコンに向き直ったとき、杏子が驚いたように言った。

「あれれっ⁉ 真由美ちゃん。左の眉毛に白髪発見!」

「なっ、何ですって⁉」

 一目散にオフィスを走り抜け、廊下に飛び出して行った真由美を見て、杏子はウキャキャと笑いながら再び両足で椅子を漕いで総務課の島に戻った。


「ホントだ……。超ショック」

 トイレに駆け込んだ真由美は鏡にへばりつくほど接近し、左の眉毛の中に一本だけ銀色に光るそれに衝撃を受けていた。

「いつからだろう? 毎日見てるのに気付かなかった。やっぱり歳には勝てないか」

 真由美は学生時代からバレーボール部で、三十五歳になった今もいわゆるママさんバレーに参加しているせいか、二度の出産を経験した今でも、スラリとした体形を維持している。

 何より、肩までの長さに切り揃えた黒髪には白髪が一本もないのが自慢だったのに、眉毛に白髪とは、何とも嫌な予兆だ。昨日は夫に「目の下にまつ毛ついてるよ」と言われてよく見たらシワだった。シミやクマは化粧でなんとか隠せても、シワは隠せないということにショックを受けたばかりなのだ。老いは足音すら立てないが、それでも確実に忍び寄って来ている。

「杏子のやつ、ダテにあんな牛乳瓶の底みたいなメガネかけてるわけじゃないのね」

 それにしても、今時売ってんのか? あんなメガネ。

 朝から中途採用の子にやたら熱くなってたけど、そんなに可愛い子を気にするなら、自分だってコンタクトにして普通に化粧をすれば、いや、おそらくそれほど化粧なんてしなくても、この会社の中ではピカイチの美人なのに。実際、二年ほど前まではそうだった。

 男勝りの仕事っぷりにがさつな言葉遣いは昔から男女問わず好感度が高かったが、それと裏腹な見た目は歳を重ねるほど磨きがかかって、女の目から見たって魅力的で、それはもう嫉妬を通り越して誰もが羨望の眼差しで彼女を見ていたほどだった。それがある日突然、目が小豆くらいにしか見えない分厚いレンズのメガネに、ほとんどノーメイクで、地毛だという栗色のロングヘアもひっつめ髪にして出社してきたもんだから、みんな最初は誰だか分からなかった。

 理由を聞いても、「もう女を維持するのに疲れたのよ。こうなるともう怖いものなんてないね。あんたもやってみれば? 仕事にも幅が出てくるってもんよ」なんて言ってたけど、絶対他に何か理由があるはずだと、真由美は踏んでいる。

 何はともあれ、彼女のあの肌のハリと艶は、とても同い歳とは思えない。

「もしかして、ノーメイクで美肌を保とうって魂胆かしら」

 思わず声に出して呟いた瞬間だった。

「そろそろキタかい」

 一番奥の個室から、勢いよく人が飛び出してきた。

「うわ! びっくりした! ウメさん、いたんですね」

 ウメさんはこのビルの清掃スタッフの一人だ。

 五十代か、もしかしたら四十代かもしれない。年齢を聞いたことがあったが、二十五歳だと即答された。さすがにあれは嘘だろうが、とにかく年齢不詳だ。

 黒々としたオカッパ頭で、小柄だけどスタイルがいいのが作業着を着ていても分かる。

 大きな黒縁のメガネをかけているが、よく見るとかなりの美人だ。これで背が高ければ、モデルや芸能関係の仕事をしていてもおかしくないが、どちらかと言えば、銀座のクラブのママのような妖艶な雰囲気がある。なぜこんなところで掃除スタッフをやっているのか、真由美は常々知りたいと思っている。

 ここにはもうかなり長く勤めているらしく、彼女は怖いくらい社内事情に詳しい。人事課長の真由美でさえ知らない昔の人事や、会社の裏事情をこっそり教えてもらったこともある。

 さらに、毎日決まった時間に決まった場所を掃除している他の掃除スタッフとは異なり、このウメさんだけは神出鬼没だ。役員フロア専属だと聞くが、どこにでも現れる。

「あの子のあの肌のハリ艶は、ノーメイクのせいでもSK‐Ⅲのおかげでもないよ」

「あ、聞こえてましたか」

「あれは、恋じゃなかろうか」

「え、恋? 杏子が? いったい誰に?」

「さぁ」

「さぁって、その言い方、ウメさん絶対なんか知ってますよね?」

「知らないね。勘だよ、勘。そんなことよりあんた、『牛乳瓶の底みたいなメガネ』なんて、若い子の前で言ったらだめだよ。あいつらはまず、牛乳瓶ってもんを知らない」

「瓶で飲むからうまいのに」とブツブツ言いながらトイレから出て行くウメさんは手ぶらだ。

「掃除してたわけじゃないのね」

 本当に不思議な人だ。

 でも確かに、今の学校給食の牛乳は紙パックだから、子どもたちは牛乳瓶なんて知らないかも。若い子の前で言わないようにしなきゃ、と妙に納得したところで微かな違和感に気づく。

 ん? 違う違う、そこじゃない。引っ掛かっているのは、『杏子の恋』の方だ。

 ウメさんが言うように、あの肌艶の良さが、恋をしているからなのだとしたら納得は行く。でも、仮にそうだとしたら、逆にあの見た目は何なんだ? 恋をしているのなら、当然髪型や化粧や服装にも気を遣うはずだ。

 七月が始まり、女性社員たちはいっそう夏のオフィスカジュアルに余念がない。恋をしていようがしていまいが、誰もが流行りの化粧とヘアメイクを施し、目立たない程度に露出し、嫌味に感じない程度のフェロモンを放出するのに必死になっている。

 それに比べて、今の杏子はそういうものにはまるで無感心だ。

 おそらく、若い頃に火傷した、あの恋以来――。

 特にこの二年は、真夏でも半袖やスカートを着用している姿は見たことがない。冬はタートルネックにパンツ、それ以外は一貫して長袖シャツにパンツスタイルだ。やはり、とても恋をしているようには見えない。

 いや、待てよ。

 そういえば、最近、杏子のネックレスが変わった。彼女が唯一身に着けているアクセサリーだからすぐ分かった。彼女の誕生日が先月だったから、てっきり自分へのご褒美に買ったのだろうと思い込んでいたが、もしかして、あれは彼氏からのプレゼントだったのか?

『K』のイニシャルチャームがついたネックレス。

 でもなぁ。三十五歳の誕生日、あたしだったら指輪が欲しい。

 やっぱり、違うか。


 その日の午後のこと。

「ちょいと、高田くん」

「ヘイ」

「へい?」

「あぁっ、すんません。何ですか? 樋口課長」

 高田高志は、総務課の二十九歳中堅社員。経歴も実力も見た目も中の中。高いのは今のところ名前だけらしい。杏子の大事な部下の一人だ。

「おまえ、今、ヘイって言ったか?」

「ヘイ! いや、ハイ、ほんとすんません。実は今、任侠小説にハマってまして、つい……」

「何それ、おもしろいの?」杏子の顔が輝く。

「そりゃあもう。笑いあり涙ありでオススメですよ! 読みます?」

「うん! 貸して貸して」

 早速高田がバックから本を取り出して杏子に差し出す。

「盛り上がってるとこ悪いけど」

 杏子が早くもデスクに広げた小説の上に、真由美はすかさず書類の束を置いた。

「これが、今朝言ってた営業部の子の入社書類。あとの手続き宜しくね」

「ヘイ。承知しやした、人事課長」

 そう言って杏子は高田と顔を見合わせてウキャキャと笑い転げる。

「ったく。呆れてものが言えないわ」

 大げさに溜息をつきながら席に戻ろうとした真由美の手首を、すかさず杏子が掴んだ。

「まぁ、そう言わずに。人事課長、この女には倫理についてみっちり教育してよね」

 ギョッとして振り返った真由美を牛乳瓶の底から見る小豆の目は、怖いくらい本気だ。

「はいはい。分かってますよ、総務課長」

 まさか杏子に〝倫理〟を語られる日が来るとは。

 ウメさんが言ったことが本当なら、それは実に喜ばしいことだ。真由美は当時まだ課長職だった松本部長の精悍な姿と、彼しか見えなかった若かりし日の杏子を思い出す。

 真由美はこの一見ふざけて見える同期が、実は仕事に対して人一倍真面目で、熱意を持った女なのを知っている。だからこそ、松本部長との不倫を知った時は反対し続けたし、別れたと聞いた時は心底安堵した。

 あれからもう十年ほど経つが、俳優の竹之内豊似の松本部長は、四十代後半になった今なおいい男で、相変わらず女性社員から根強い人気がある。

 え……、まさか。

 焼けぼっくいなの?

 今朝、「今さら部長絡みなわけ?」って何の気なく聞いたけど、それはサラッと否定してたはず。

 それはそうか。あんなに反対したあたしに、よりを戻したなんてそう簡単に打ち明けられるはずはない。

 それで、営業部に若くて可愛い子が入ったから心配になったのか。

 何よりの証拠はあのネックレスだ。妻帯者である彼からの誕生日プレゼントなら、指輪じゃなくて当然だ。

 そうか! あのイニシャルチャームの『K』は、杏子のKじゃなく松本健一のKか。

 考えれば考えるほど、合点がいってしまう。

 真由美は頭を抱えた。それだけは絶対に許すわけにはいかない。

 入社して以来、まだ十数年の付き合いだけれど、新人研修からこの課長の椅子に並んで座るまで、苦楽を共にした彼女のことは戦友であり親友だと思っている。真由美が早々に結婚して二度出産してもなおここに戻って来られたのも、公私ともに彼女がたくさん支えてくれたおかげだ。

 一日も早く恩返しがしたい真由美は、誰よりも杏子の幸せを願っている。

 彼には、杏子を幸せになど出来ないはずだ。


「やだぁ~、ごめんなさ~い。間違えちゃいました~?」

 確かに夏は始まったが、ここは海ではない。白いノースリーブのミニワンピースにミュールを履いた茶髪の女が、谷間がもろ見えの胸元をさらに両腕で挟んで強調しながら杏子を上目遣いで見上げている。相手が女性の場合は逆効果の仕草でしかないと、知らないわけでもないだろうに。

 入社書類の記入間違いを修正してもらうため、早速営業部のフロアに乗り込んだ杏子は、想像以上のフェロモンとバカさ加減にフリーズしてしまった。

「あ、開いた口が塞がってませんよ、総務課長」

 近くにいた女性社員が小声で教えてくれる。

 口を半開きにしたまま振り返ると、数名の女性社員が縋るように杏子を見ている。

 全員が、無言で杏子を応援しているのが分かる。

「で、オバさん、じゃなかった。えっとぉ、今何先輩って言いましたっけ?」

 これを聞いて、半ば興味津々で密かについて来ていた真由美が血相を変えて駆け寄ってくるが、もう遅い。

「あんた、言ったね? 今オバサンって言ったね? おい右田ぁ!」

 鬼の形相を向けられた右田はギョッとして飛び上がった。

「てめぇ、どんな趣味してやがる!」

「ちょ、ちょっと杏子!」

「おーい、樋口くん」

 真由美が杏子の口を塞ごうとするより早く、松本部長の低く通るバリトンが杏子を止めた。

「ちょうど良かった。ちょっと聞きたいことがあったんだよ。今、いいかな」

 大河内グループの竹之内豊が、営業部長室から顔を出して手招きしている。

「ど、どうぞどうぞ! ほら杏子、部長が呼んでる」

 真由美は一瞬躊躇ったが、しかし杏子を強引に営業部長室に放り込むと、今度は杏子の暴言に口を半開きにしたままの右田のもとへフォローしに行こうとして、その前に素早く指示を出す。

「誰か、倉庫から展示会の時に使う上着持って来て、彼女に着せて。確かにあれじゃ目の毒だわ」

 その声を聞いて、ようやく杏子は部長室の扉を閉めた。


「なんで止めんのよ、健ちゃん」

 部長室に入るなり食ってかかる杏子を見て、健ちゃんは穏やかに笑う。

「止めるところだろあそこは。おまえ、いくらなんでも右田に向かって右田はまずいよ」

 そんなことは分かっている。しかし前々から右田には言いたいことが山ほどあるのだ。

 今日こそ言ってやろうと思ったのに。健ちゃんはこうやって、いつもさりげなく杏子を助けてしまう。

 確か、先月で四十七歳になったはずだ。重ねた年の分だけ、いい男になるのはどうしてだろう。あそこで終わらせておいて良かったと、杏子はつくづく思う。

「いっぺんガツンと言っとかなきゃだめなのよ、あのスケベ野郎」

「それは俺がちゃんと見ておくから。あの新しい子はちょっと注意が必要みたいだしな」

「ちょっとどころじゃないでしょ⁉ なんなのよ、あれ。そもそもなんであれが受かるわけ? あんなのバイトだって務まんないわよ」

「まぁまぁ、落ち着けよ。職場にはあんな若さも必要なんじゃないのか? 今回の求人は、そんなに難しい仕事じゃないようだし。客との接点も多い部署だしな」

 本当にこの人は、人が良いにもほどがある。

 会社において、偉くなる人にはたいてい狡猾な部分があるものだが、この人に限っては当てはまらない気がする。もちろん仕事も出来るが、これから先も人徳や人望だけで出世していくことが出来る希少な人物だ。

「あのね、健ちゃん。だからこそ、ちゃんとした子を置かなきゃだめじゃない。客にまで手出されたらどうすんのよ。会社の信頼が地に落ちてもいいわけ?」

「まぁまぁ。分かったよ、総務課長。ちゃんと教育するように俺から右田に釘さしておくから」

「あぁ、もう! だから、右田じゃ糠に釘だって言ってんのよ‼」

「こ、怖いよ、樋口課長」

「もういい。とにかく頼んだわよ、松本部長。くれぐれも、あの女が社員に手ぇ出さないように見張ってて」

「社員? なんだ? 客なら問題かも知れんが、社員はいいだろ。恋愛は自由なんだし」

 かつて、その自由なはずの恋愛を不自由にしか出来なかった相手に、無邪気に言えるところ。この悪気の無さが、時としてどんなに残酷だったか。杏子はほろ苦い過去に思いを馳せてしまいそうになる。

「恋愛ならともかく、あれじゃただの色仕掛けでしょうが。誰それ構わず食い荒らすつもりなのよ。特に若い男なんてあんなのに捕まったら仕事がおろそかになるんだから」

「おいおい、どうしたんだよ、キョンキョン」

 松本はためらいがちに、でも親しげに杏子の肩に手を置いた。

「ちょっと、健ちゃん」

 素早くブラインドに視線を走らせ、閉まっていることを確認してからあからさまに眉間にシワを寄せる杏子に、松本は肩をすくめた。

「なんだよ、淋しいなぁ」

「あたしたちのことは、せっかく誰にもバレずに終わったんだから。今さら火の無いところに煙立ててどうすんのよ」

「そんな言い方するなよ。だいたい俺は、」

「ついでに言っておくけど、健ちゃんも、充分射程圏内に入ってるわよ。あんな女にまんまと食われでもしたら軽蔑するからね」

「な、何言ってんだ。そんなことあるわけないだろう。俺はずっと、キョンキョン一筋なんだから」

「あぁ、はいはい、冗談はいいから。とにかくくれぐれもよろしくお願いします、松本部長」


 さりげなく、俺との境界線をくっきり引き直した杏子は、念を押すように一瞬だけ俺の顔を見つめると、バタバタと部長室を出て行った。

 いつからだったか、彼女が劇的に見た目を変えたのは。仕事に没頭するためだなんて言っていたけど、何もあんな牛乳瓶の底みたいなメガネにしなくても。

 でも俺は知っている。まだ素朴で初々しい新入社員の時から際立っていた美しい容姿。それでいてまるで男のような性格から出る言動は、当然増えたはずの敵を作らなかった。そのうえ仕事に対する熱意と能力は群を抜いていて、上からも下からも人望が厚い。

 そんな彼女に、惹かれない男がいただろうか。俺にとっては不倫なんかじゃなかった。気づけばはまっていた沼に、ただ溺れてしまっただけだ。

 キョンキョン、火の無いところに煙は立たないよ。

 君はうまく鎮火したつもりだろうけど。

「まだくすぶってるのは俺だけか」

 たまに締め付けられる胸が、この歳になると彼女のせいなのか心筋梗塞の予兆なのか、区別がつかなくて困っている。


 あれは確か、松本部長と不倫して三年になる頃のこと。

 杏子はまだ二十六歳だった。

「あなたでしょう? うちの夫と不倫してるの」

 仕事を終えた杏子が帰宅しようと会社を出て、最初の角を曲がったところで後ろから声を掛けられた。

 松本の家内ですと名乗ったその女性はとても華やかで、例えるなら宝塚の男役出身の女優のような、何とも言えない凛とした迫力があった。

「あ、いつもお世話になっています。あの、課長とはその、……」

「何も言わなくていいわ」

 夫人は聖母マリアのような微笑みを浮かべている。

「色々調べさせてもらったから、もう分かってるの」

「……」

 杏子は否定も肯定も出来ず、ただ唇を噛む。

「でもね、」聖母マリアの声が鋭くなる。

「これから先も関係を続ける気なら、話は別」

「え……」

「人様のダンナを寝取るってことは、そいつの老後の面倒までみるくらいの覚悟でかかれってことだよ」

「はっ、はい!」

 反射的に立派な返事をしてしまった杏子に、聖母マリアはまた少しだけ表情を和らげた。

「あなたみたいな人が、あんなオッサン相手にしてないで、自分の人生を大事にしなさい」

 そう言って去っていくマリアには、敵意など微塵も感じなかった。むしろ追いかけて行きたくなるくらい、清々しくてかっこいい人だった。

 見た目も中身も美男美女。なんてお似合いの夫婦だろう。

 その時、立ち尽くす杏子に声を掛けてきたのが、掃除スタッフのウメさんだった。

 驚くことにウメさんは、健ちゃんとの不倫が始まる前から気付いていたという。

 人知れず悩む姿も、陰ながらずっと見てきたと。

 聞けばウメさんには杏子と同じ歳の娘がいて、勝手に親のような気持ちでいたこと、そしてその娘こそまさに、ウメさんが不倫相手との間に産んだ子供だったから、なんだか他人ごととは思えなかったんだそうだ。

「私の時は、お互いに一緒になるって意思は無かったから良かったんだけど、あんたたちの場合は、少なくとも男の方が夢中になっちゃってるからね。このままだと泥沼だよ。奥さんが賢い人だったのが救いだね。自分のためにも、きっぱり別れなさい」

「火遊びはもうおしまい。さもなくば、あんたには想像もつかないような代償が待ってるよ」

 そんなウメさんの脅迫じみた説教がなくても、マリアと会った時点ですでに心は決まっていた。あんなに素敵な奥さんがいるのに、自分なんかにうつつを抜かしている健ちゃんに怒りさえ覚えたほどだ。

 杏子はその日のうちに健ちゃんに別れを告げた。

 それ以来、もう十年近くウメさんは杏子のよき相談相手でいてくれている。

 ちなみに『ウメさん』というのは愛称で、本名は梅田蘭という。訳あって、社内で本名を知る人は彼女を雇った大河内会長だけだという。

 だから二人の時だけ、杏子は『蘭さん』と呼んでいる。

 健ちゃんとのことを知っているのは、同期の真由美と、このウメさんだけだ。

 突然の別れ話に健ちゃんは納得行かないようだったけど、これからのキャリアを大事にしたいと言う杏子の意思を尊重して別れてくれた。マリアのことは伏せた。それが事を荒立てずに釘だけ刺してくれたマリアに対する敬意というか、せめてもの謝意だった。

 それから杏子は、健ちゃんを忘れるためひたすら仕事に没頭しながら順調にキャリアを築き、三十四歳で総務課長になったのだった。


 その日の夜。

「あっ。ヒロくん」

 カウンターに一人で座っていた美女が、遅れて現れた若い男に向かって満面の笑みで手を振った。

 今にもその美女に声を掛けようとしていた男たちの顔が一斉に落胆するのが分かる。

 この男、本城比呂、二十五歳。かなりのイケメンで身長も高い方だが、それ以上に何とも言えない色気がある。大河内グループの若きホープ。将来のエースとも言われる営業マンだ。

「何、その短いスカート」

「あ、これね、今年の流行りなんだって。かわいいでしょ?」

「そんなのダメに決まってんだろ」

「もちろん会社では穿いてないよ? ちゃんと着替えて来たから」

「俺の前だけって言ってるでしょ? みんな見てるの分かんない? 今夜、お仕置きな」

「やだ、もぅ、ヒロくんってば」

 周りで聞き耳を立てていた客が一斉にむせたり、噴き出したりしているが、そんなことはこの二人には見えてないし、聞こえてもいない。

「それにしても杏子、今日はまたハデにやってたね」

「え。ヒロくん今日、オフィスにいなかったよね?」

「ちょうど出先から帰って来たところだったんだよ。大騒ぎしてるから入口から見てた」

「あ~、そうなんだ。ちょっとね、たいしたことじゃないよ」

「あの、新しい子でしょ? 今どきって感じの。俺は明るくていい子だと思ったけど」

 は? の口のまま声を出せない杏子を見て、ヒロくんは満足そうな顔でニヤリと笑う。

「何、妬いてんの?」

「別に、妬いてなんかない」

 そう言いながら、頬を膨らませてみせる。

「杏子。その顔もダメ」

 ヒロくんは杏子の頬に手を触れて、本当に愛しそうな目で見つめている。

「可愛すぎるだろ」

 まるで映画のワンシーンのようだ。もはや店内にいる誰もがスクリーンに引き込まれた観客だった。見つめ合った二人がそのままキスしてしまうんじゃないかと、いや、いっそしておくれと、固唾を飲んで見守っている。

 そう。このヒロくんこそが、あたしの運命の人。


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